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姫恋華~ひめれんげ~  作者: 藤原ゆう
第二章 暗躍するものたち
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(4)成敗⑤

「意識が戻らないぞ」


 宗明の焦った声が辺りに響く。


 ぐったりと宗明に身を預けるゆらの周りを鈴が心配そうにうろうろしている。


「旦さん、どうしよう」


 いつもの覇気がない。


 そんな愛猫の頭をひと撫ですると、嵯峨はふわりと膝をついた。


「ふむ。これは……」


「旦さん、どうなん?」


 その場の視線がすべて嵯峨に集中している。


「少し妖気にあてられたようですね」


 淡々と言うと嵯峨はゆらの額に手を当てた。


「祓の祝詞を」



   高天原に神留まり坐す……



 嵯峨の深く静かな声がゆらへと送られる。


皆が固唾を飲んで見守る中、か細かった呼吸が次第に力強さを取り戻していった。


  祝詞を奏上し終えた嵯峨が「変ですねえ」と小首を傾げた。


「もう大丈夫なはずなんですが……」


それなのに、ゆらが目覚める気配がない。


「何か手違いがあったのでは」


宗明が問えば、鈴が「旦さんに限ってそんなことはない」と横槍を入れる。


「どこか怪我してるんじゃないか」


新之助も心配そうにゆらの顔を覗き込んだ。


そこで聞こえたのは、グーというお腹の音。


「まさか……」


途端に宗明の顔が曇った。


「なんや?心当たりあるんか」


「だん……ご……」


そこで途切れ途切れにゆらの口から漏れた言葉に、宗明は(ああ、やっぱり)と頭を抱えた。


「なんや、だんごて。蜘蛛に簀巻(すま)きにされたいう意味か」


「鈴は少しお黙り」


「せやかて旦さん」


「ゆらちゃん。今起きたら、京土産の美味しいお菓子を差し上げますよ。もちろんお団子もあります」


嵯峨の朗らかな声に誘われたように、ゆらの大きく丸い目がぱっちりと開いた。


「京のお団子」


「はい。こちらにございます。お部屋に入っていただきましょう」


「はあい」


 単純なのか。ちゃっかりしているのか。


 仕える姫のあまりの明快さに宗明はどっと疲労を感じた。


「ん……三郎太、どうしたの」


「いえ……。ご無事でようございました」


「蜘蛛は」


「心配させなや、ゆら。蜘蛛はうちの旦さんがとっくに対峙してくれはったわ」


「旦さん……」


 視線を動かせば、そこには烏帽子を被った公家風の男が二人。


 一人は確かに蜘蛛の集団に襲われたときに助けてくれた人だった。


 では、もう一人は?


 ゆらの視線で思いを察したのか、嵯峨がくすりと笑った。


「こちらは私の弟子で(さかき)斎斗(さいと)と申します。ほら、斎斗、ご挨拶」


 懐っこそうな嵯峨に対し、弟子の方はそういうことはないらしい。


 冷めた表情のまま、一言「よろしく」と言っただけだった。


「斎斗は相っ変わらずやな。ほんまおもろない男やで」


「鈴猫は黙ってな」


「鈴や、鈴。猫を付けんなって、何べん言うたらわかんねん!」


「猫に猫って言って何がいけないんだよ」


「斎斗。鈴」


 嵯峨に呼ばれ、ぴたりと止む二人の口喧嘩。


 ここまでで三人の関係性がなんとなく分かったような気がした。


「ゆらさま、起き上って大丈夫ですか」


「うん。すごく体が軽くなったわ」


 それは嵯峨の祝詞のおかげだろう。


 ほっとした表情の宗明に笑いかけると、ゆらは嵯峨と斎斗に礼を言った。


「いえいえ。本当は手を出さないでいようと思ったのですけどねえ。やはりアヤカシとの初戦はなかなかきついものがおありだったようで。お二人ともなかなかの使い手でいらっしゃるのですが、まあこれからですね。これから」


「アヤカシ?あの蜘蛛がそうなのか。では、クモさまというのはいったいなんだ」


 眉をひそめる新之助に、嵯峨はにっこりと笑った。


「とりあえず、ゆらちゃんを室内に連れて行ってあげましょう。話はそれからです」


 新之助は屋敷の方へ視線を向けた。


 主のいなくなったここへは、いずれ藩の手の者がやってくるだろう。


 早々に立ち去った方が得策だと、新之助は「じゃあ、俺はそろそろ。ゆらさん、元気で」と身を翻そうとした。


 そんな新之助の(たもと)を嵯峨が掴んだ。


「え、あのう」


「話を聞いてください。風間さん」


「いや、俺は」


「ここでお会いしたのも何かの縁。袖振り合うも、袂を掴むも、ご縁のゆえですよ」


「何の理屈です。それ」


「一緒に戦ったよしみです。さあ、参りましょう」


 柔らかな物腰に反して、意外に強引な嵯峨だった。



 

 屋敷の中は水を打ったように静かだった。


 誰かが手を回したのか、仕える侍も用心棒たちもいなくなっていたのだ。


 新之助は近藤の手の者だろうと察しがついたが、無論それを他の面々に言う必要はない。


 皆巨大な蜘蛛に怯え逃げ出したのだろうと思っていればいいのだ。


 そんな屋敷の一室で、ゆらはひとまず体を拭いていた。


 着替えがないのが辛いところだったが仕方ない。


 そこへ障子の向こうから声がかけられた。


「ゆらさま」


「え……」


 ゆらは手拭いを放り投げて障子戸に駆け寄り開け放った。


「おしずさん!」


 おしずがにっこり微笑み、そこにいた。


 そして傍らには師範代。


「良かった。戻れたんですね」


「ええ。ゆらさまのお着替えをと清水さまにご伝言をいただきましたからお持ちしましたの」


 そう言って、おしずは風呂敷包みを差し出した。


「良かった……」


 ゆらの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。


 ここでようやく緊張の糸が切れたのか。


 おしずも「まあまあ」と目頭に涙をためながら、泣き崩れるゆらの背をさすってやった。


「娘たちも皆無事に親元に帰りましたわ。本当にありがとうございました」


 ゆらは泣きながら、うんうんと頷いていた。



「とりあえず、わたくしの着物をお持ちしましたから着替えてくださいな」


 しばらくして泣き止んだゆらは、おしずから風呂敷包みを受け取り一旦障子を閉めた。


 湿った着物を脱ぎ、おしずの着物に着替えると、乱れきった髪を適当にまとめた。


 廊下に出ると、おしずと師範代がそのまま待っていてくれた。


「お休みにならなくても大丈夫ですか」


「うん。なんだか興奮しちゃって眠れそうにもないし」


「では、あちらにおむすびを用意しておりますから参りましょう。皆さまもお待ちですわ」


「おしずさんも疲れてるのに。ありがとうございます」


「わたくしは家で少し休めましたから大丈夫です」


 ゆらは師範代をちらっと見た。


 言葉少ない師範代であったけれど、その視線は常におしずに注がれ、無事であったことを喜んでいることが如実にわかった。


(本当に良かった)


 ほっと息をついて、皆が待っているという部屋に向かった。


 蜘蛛が大穴を開けた部屋はもう使えないと、離れの一室に席が設けられているらしい。


 畳の上に簡単な弁当が広げられ、皆ゆらを待っていた。


 嵯峨の膝の上に鈴が丸くなっている。


 新之助は腕を組み、目を閉じて何か思案中のようだ。


 その隣で久賀が目を輝かせながらおむすびの群れを眺めている。


 車座になり落ちつくと、おしずの「さあ、召し上がれ」という言葉で真っ先に手を伸ばしたのは、ゆらと久賀だった。


「何はともあれ、まずは一件落着ということでよろしいでしょうか」


 くすっと微笑む嵯峨に、宗明が憮然とした表情で「もう御一方がおられぬが」と問うと、


「ええ。斎斗もあれはあれで忙しい身でして……」


「まあ。わたくし、お礼も申しあげておりませんのに」


 おしずがさも残念そうに言うのに、嵯峨はいっそう笑みを深め、「ご縁があれば、いずれまたお会いすることも叶いましょう」と朗らかに言った。


 その美しすぎる微笑みに、おしずがぼーっとなっている。


 そこへ師範代が咳払いを一つ。


「おしず。お茶を淹れてさしあげなさい」


「まあ、わたくしったら気づきませんで。少しお待ちくださいね」


 顔を赤らめながら慌てて部屋を出て行ったおしずを見送ると、師範代は睨むように嵯峨を見た。


「それで、この事態はどういうことなのか。あなたはご存じなのか」


「ええ、ある程度は。しかし事は少々複雑です。すべてをお話しするには時間と皆さんの体力が必要でしょう。どういった経緯で(あやかし)がこの屋敷に入り込んだのか。そこに、どういった意図があったのか。調査をしてみなければわかりませんしねえ」


 宗明がずいっと膝を進めた。


「こうして、あなた方が京からおいでになったということは、こういう事態をある程度予測しての事でしょう?」


「ええ。ゆらちゃんの兄上にご連絡いただいたのですよ」


「にいさまに?」


 おむすびを頬張ろうと大きな口を開けたまま、ゆらは嵯峨を見た。


「はい。きっかけはゆらちゃんが物の怪に襲われそうになったこと。それが始まりとなり、この国全体から妖気を感じるようになったのですねえ」


 嵯峨は鈴の喉元を撫でている。


 ごろごろと気持ち良さそうに鳴く鈴。


 そして、まるで大したこともないとでも言うように話す嵯峨。


 話の内容とは逆に、彼らだけが別の空間にいるような穏やかさに包まれていた。


 いつの間にか雨が止んでいた。


 白みゆく空は、久しぶりに見る朝焼けに輝いていた。





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