【四の殿方】深川剣術指南道場
俺とお前は同志みたいなものだ
胸に抱える苦悩や孤独もよく似ている
俺がお前に救われたように
俺もお前を救いたい
そして、お前が最後に共にあるのは
俺でありたい……
俺、風間新之助が彼女に出会ったのは、男たちが剣の稽古をする道場だった。
突然現れた彼女に、俺は一瞬我が目を疑った。何故なら彼女は袷に袴という出で立ちで、どうやら道場に稽古に通って来ているようだった。師範代もよく打ち解けているから、恐らく俺が道場に雇われる前からここに通っているのだろう。彼女の出で立ちを不思議に思う者はいないようで、ごく自然に子供たちの稽古に加わった。
藤吉というガキ大将が彼女の相手のようだ。勝ったり負けたりの好敵手。右に左へと跳ね回る藤吉に、彼女は奇声を上げながら竹刀を振るう。それはとてもではないが年頃の婦女の振る舞いとは思えなかった。呆気にとられる俺の目の前で、彼女は見事藤吉を打ち据えた。
けれど彼女の立居振舞の上品さであるとかその物言いなどを聞いていると、彼女が卑賤の生まれでないことは確かで、俺は「ゆら」と名乗った少女に少なからず興味を覚えていた。
俺はそれほど異性に縁があった方ではない。国許を離れ、この江戸に来てからはなおさらで、会話をしたと言えば長屋のおかみさん連中くらい。
だからか、天真爛漫な彼女の笑顔が俺には眩しかった。境遇の違いがまざまざと感じられ、俺は何故か数か月前の光景を思い出していた。
***
夜の闇の中で、数人の影が蠢く。
墨で黒く塗りつぶされたように、その場を支配するのは漆黒のみだった。その漆黒に紛れるように俺は藪の中に身を隠していた。
月明かりもない、本当の闇。
ことさら強調するように、松明の明かりが木々の間を行き交っている。
その松明の下で動く、あの影に捕らわれぬように。父母と同じ憂き目に合わぬように。この命さえあれば、と俺は闇の中に飛び出した。
「いたぞ」「あそこだ」途端背に浴びせられる声に、駆ける速度を増しながら、俺は藪の開けた先にある大川へと飛び込んだ。自分の立てた水音に怯えながらも懸命に手足を動かし、秋の冷たい水に体が痺れてくるのを感じながら、やっとの思いで対岸に辿り着いた。振り返れば、松明はまだ対岸。一旦息をついた時、すぐ傍で人の息遣いがした。咄嗟に腰に手をやった俺の手を、思いの外やんわりと大きな手が包み込んだ。
心臓の音が耳に煩い。そんな俺に低く穏やかな声が囁いた。
「お助け申し上げる」
短く言うと、その者は立ち上がり、藪の中へ手を入れた。そこから出て来たのは、一頭の馬。
「何故……?」
「今は逃げることだけを」
暗に早く馬に乗れと言いたげに、男は手綱を俺に差し出した。
(これは、罠か?)
一瞬頭を過ったが、逡巡している暇はなかった。一瞬のちには馬に飛び乗り、礼を言おうと振り返ったが、そこにはすでに男の姿はなく、川の流れる音だけが聞こえて来る。そして、川を泳ぐ、水音。
この先には隣国へと抜ける街道がある。俺は馬の腹を蹴った。
あとは後ろを振り返ることなく、前にだけ進んで行かなければならない。
冬には雪が積もり、春には山桜と白木蓮が競演する山々を、俺はもう二度と見ることは出来ない……。
***
「風間さん?」
間近で聞こえた声にはっとして顔を上げると、道場の主の娘であるおしずが俺の前にいた。
「おしずさん……」
「今日は風間さん、上の空だったわね。夕餉に煮付けを作ったの。持って帰って召し上がってね」
正座する俺の前に、風呂敷包みがそっと差し出された。
「いつも済みません」
男の一人暮らし。朝晩を一膳飯屋で済ますことの多い俺には、料理上手なおしずの持たせてくれるご馳走は本当に有り難い物だった。
「もうみんなあらかた帰っちゃったし、風間さんも疲れてるみたいだから、今日は早々に上がってくださいな」
気付けば、あれだけ喧しかった子供たちの姿はすっかりなくなり、道場の床の間の前で師範代とゆらとが話しているだけだ。
「ああ、では、お言葉に甘えてそう致します。また、明日」
俺は師範代に挨拶を済ませ、風呂敷包みを抱えると道場を後にした。
彼女がちらっと俺を見たような気がした。けれど、それだけだった。
俺は少しがっかりして、草履を突っかけた。
道場の外に出ると、空気は何処か湿気を含み、重く澱んでいるように感じた。曇天からは今すぐにでも雨が降って来そうな気配だ。
燦々と日の光が降り注ぐ日であれば良かった。この天気は人の気持ちまで陰鬱なものにしてくれる。
(確かに、俺は疲れているようだな)
数か月前のことを思い出したのも、気持ちが沈みがちなのも、全部疲れのせいだ。国を追われても、行き着いた江戸で何とか生きてきた。一日一日をどうにか過ごしてきた。その間の疲れが大気の孕む湿気によって、俺の体と心を蝕んでいく。
(このままこの生活を続けて、俺はどうしたいというのか……)
暗い思考に襲われ、俺はとうとう往来で立ち止まってしまった。元来それほど思い悩む性質ではない。けれど、この数か月のうちに己に起こった出来事は、やはり心身にとって厳しいものだったのだと思う。
忙しなく行き交う人々は、そんな俺に構うことなく通り過ぎて行く。この世界で自分一人だけのような覚束ない感覚に捕らわれ、俺は初めて己の境遇を呪いそうになった。
「風間さん。どうしたの?」
そんな時少し幼く聞こえる声が突然顔の下から聞こえて来た。ぎょっとして見下ろすと、俺の胸の辺りの高さに可愛らしい顔があった。
「わっ」と飛び退いてよく見ると、そこにいたのはゆらさんだった。
「え?何で……」
彼女は帯刀し遠目に見れば少年のように見えるかもしれないが、間近で見ればやはり少女で、そんな彼女が目の前にいればやはり驚く。きらきらと星のように輝く瞳を向けられたら尚更どぎまぎしてしまった。
「おしずさんが風間さんの様子がおかしかったって言うから、どうしたのかなって思って」
「え?」
「本当はね、そこのお団子買って帰ろうと思ったの」
「ああ、なんだ。別に俺を追って来たんじゃないんだ」
自分が思いの外がっくり来ていることに驚きながら言うと、彼女は形の良い唇をキュッと引き結んだ。
「そしたら、風間さんが泣いてるように見えたから……」
「……泣いて、ないよ?」
「うん。だから安心したんだ」
へへと笑う彼女に、俺は何だかすごく癒されたような気持ちになった。
「ありがとう」
彼女は小走りで屋台に行き、また戻って来ると「はい」と包みを差し出した。
「お団子。おしずさんの煮付けのあとに食べてね」
「……ありがとう」
天涯孤独の身に温もりが戻る。
彼女との出会いが再び俺の人生に光を灯し、俺の生きる糧となる。
いつしか、そう思うようになった……。
【五の殿方】
いまだ姿を見せず……
ゆら姫を取り巻く殿方たち。
彼らと共に、今物語が幕を開ける……。