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姫恋華~ひめれんげ~  作者: 藤原ゆう
第二章 暗躍するものたち
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(4)成敗

 ばしゃばしゃと水たまりを踏みながら走ってくる音が聞こえてきた。


 振り返れば庭の其処ここに灯された松明に照らされた宗明の姿が浮かび上がっていた。


「ゆらさま!」


 険しい顔でゆらを背にかばった宗明に、「違うの。三郎太。その人は違うんだよ!」とゆらは後ろから伸び上るようにして宗明の肩を掴んだ。


 嵯峨に向かって刀を構えた宗明は振り返ることなく訝しげに問い返す。


「何が違うのです?」


「その人は陰陽師の嵯峨さんなの!鈴ちゃんの旦さんだよ」


 ふっと宗明の肩から力が抜けたように感じた。


「では、京の?」


「ええ。お見知り置きを」


「これは……失礼を致した」


 宗明は深々と頭を下げた。


 そんな宗明に嵯峨はくすっと笑うと、「挨拶はほどほどに致しましょう。屋敷の中がずいぶん騒がしくなりましたからね」


 ふっと視線を動かした嵯峨につられて屋敷を見れば、そこはものすごい喧騒に包まれていた。


 いや。それまでも人々の怒声と悲鳴が庭にまで聞こえてきてはいた。


 けれど蜘蛛の大群に追われ、嵯峨に出会い、そして紙の鳥が蜘蛛を食い尽くすという衝撃的な光景を前に、ゆらの聴覚は屋敷の騒々しさまで捉えている余裕がなかったのだ。

 

 それがようやく耳に入ってくるようになった。


「そうだ。三郎太。おしずさんは?」


「娘たちと共に逃げると言ってはいましたが」


「いくらおしずさんでも一人じゃ無理だよ」


 道場の娘だけに、おしずもそれなりの腕を持つ。


 しかし娘たちをかばいながら剣を振ることの難しさを思えば、場数を踏んでいないおしずは不利だ。


「ゆらさまはこちらの陰陽師どのと逃げてください。私は中に戻ります」


「わたしも行く!」


「だめです」


 ぴしゃりと言って、宗明は嵯峨に顔を向けた。


「お願いできますか?」


「残念ながら、それは無理ですねえ」


「は?」


 眉をひそめた宗明に嵯峨は肩をすくめた。


「どうせなら皆で行きましょう」


「どういうことだ?」


 すると嵯峨はゆったりと優雅に扇を開いた。


 それを口元にあて、少し低めた声で囁くように言った。


 聞こえるか聞こえないかのかすかな声に、また一瞬喧騒が聞こえなくなる。


「ゆらちゃんには見届けてもらわなければなりませんからね」


「……見届ける……ゆらさまが……」


 扇の上から目だけをこちらに向けて嵯峨は頷いた。


「そろそろ知っても良い時です」


 宗明が息を飲んだ、ような気がした。


 肩越しに見ても、宗明の表情のすべては見えない。


 けれど彼が今までとは違う緊張をしていることは感じた。


「三郎太?」


 声を掛ければ、肩が小さく震えた。


「……私が、お守りします。……参りましょうか」


 ゆらに向けられた瞳には葛藤と憂いが色濃く浮かんでいた。


「……いいの?」


 あのゆらが、そう問い返さずにはいられないくらいに。


「よくはありませんが、仕方ありません。私の側から決して離れないよう」


 腹をくくった宗明の動きは早い。


 ゆらの手首を掴むと引き寄せ歩き出した。


「わ、ちょっと、三郎太!」


「それでは私も行きましょうかねえ」


 後ろで嵯峨の呑気な声が聞こえた。


 引きずられるようにして歩いていたゆらがその声に振り返ると、もうそこに嵯峨の姿はなく、彼のいたその場所には大きな水たまりが出来ていた。

 





 その頃おしずと娘たちは無事座敷牢を抜け出し屋敷の裏に出ていた。


 どこかにあるはずの裏門を探して。


 身を寄せ合い怯える娘たちを気丈に励ましながら、おしずは周囲にも気を配っていた。


 拉致され虜囚の身になってからろくな食べ物を口にしていない。


 体はふらふらとして力が入らないが、今は弱音を吐いている時ではなかった。


 こうして外に出ることが出来たのだ。


 一刻も早くここから逃げ出したい。


 その思いだけが支えだった。


「みなさん、もう少しですよ。頑張って」


 そう声を掛けるのも、半分は自分を励ますためだった。


 そうだ。もう少し。この塀のどこかにある門を探し当てれば、わたしたちは家に戻ることが出来る……。


「そう、やすやすと逃がすと思ったか」


 地面をたたく雨を縫うように聞こえてきたのは、地を這うような声だった。


 びくりと身を強張らせ足を止めた。


 小さな悲鳴を上げる娘たちを庇いながらおしずは顔を上げた。


 闇の向こうに男が一人。


 全身黒づくめの羽織袴で泰然と立っていた。


「お前たちは大切な(にえ)だと忘れたか」


 動悸ばかりが激しい。


 口がからからに乾いて思うように声が出せない。


 おしずはいくら強気になっても無理なのだと痛感した。


 力ない己など、力ある者には決して逆らうことは出来ないのだと。


 カサカサと音がした。


 何度聞いても全身が粟立つ、あの音だった。


「ひ~」と声を上げ、娘が一人地面に倒れた。


 だが誰もそれに構うことが出来ないでいる。


 おしずでさえ、そうだった。


(もう、だめだ……)


 諦めよう。


 そう思った時だった。


「ほんと、胸糞悪いったらないよ」


 その場にそぐわない、涼やかな声が聞こえた。


 と思う間もなく、一陣の風が舞った。


 その風が次々と蜘蛛を切り裂いていった。


 雨と共に蜘蛛の破片が宙に飛ぶ。


 それは宙に舞ったまま更なる風に切り刻まれ、やがて微小な塵となって消えてしまった。


 一瞬の出来事に、おしずも娘たちも口を開けたまま立ち尽くしていた。


「早く逃げな」


 言われて、はっと我に返ると、傍らには背の高い男。


 公家風の衣を身に着けている。


「あ、あの」


「早く行きなって」


 苛立ったように言う男に背中を押されるように、おしずは気を失った娘を肩に担ぐと、他の娘を促した。


「行きましょう」


 ちらっと助けてくれた男を見れば、彼はおしずたちには一瞥もくれずに鋭い殺気だけを帯びながら闇の中に立つ敵を見つめていた。

 




 女たちの気配が遠ざかって行く。


「執着あるのかないのか、どっちだよ」


 彼女たちを(にえ)と呼び、逃がすまいと追いかけて来ておきながら、随分あっさり見逃したものだ。


 それとも、まだ何か手があるのか。


 公家風の格好をした彼の視線の先で男が身じろいだ。


 すっと身構える彼を無視するように男の姿が消えた。


 呆気ない。呆気なさすぎる。


「まあ、無駄な力使わずに済んだけどさ」


 物足りない……。


 彼は不満そうに呟くと、屋敷へと足を向けた。







「んぎゃ~、何だよ。この猫!」


 シャー!


 威嚇の声と共に鋭い爪が男の顔を引っ掻いた。


(うわっ。いったそ)


 そんな鈴を追いかけながら、久賀は冷や汗を流している。


(俺、風間の方に付いてて良かった)


 今更ながらにそう思った。


 猫の爪の餌食になるくらいなら、用心棒の賃金をふいにしてもいいとさえ思った。


(でも、これいつまで続けたらいいんだ)


 屋敷中、十分浮足立っている。


 目的は果たしたはずだ。


「いや~~~ん」


 またひとつ新たな悲鳴。


 およそ侍らしくない声を上げて額を押さえ蹲った男の横を通り過ぎながら、嬉々として爪を振り上げ続ける猫に生暖かい視線を向ける久賀だった。






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