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姫恋華~ひめれんげ~  作者: 藤原ゆう
第二章 暗躍するものたち
34/45

(3)用心棒⑥

「いつまで惰眠をむさぼってる気や」


 額にぺしっと肉球の感触。


「あ~ん、癒されるう」


 腕を伸ばせば、もふもふふわふわの手触り。


「はうう」


 ぐいっと引き寄せ、すりすり頬ずり。


「やめっ。くすぐったいやろ」


「鈴ちゃ~ん」


「やめろ言うてんねん」


 シャキ―ン。


「いたっ」


 激痛に目を開ければ、鈴が鋭い爪をこちらに向けていた。


 額に手をやって見れば、じんわり指先に血が付いていた。


「ひどい、鈴ちゃん。可愛いから、すりすりしただけなのに」


「うるさい。うちをそん所そこらの猫と一緒にすんな言うてるやろ。さっさと起きんかい!」


「ははは。すっかり鈴と仲が良いみたいだね、ゆら」


 そこに第三者の笑い声。


「あほ、政光。これはうちが世話してやってるだけや」


「ああ、悪い悪い。そうだね。鈴はゆらのお目付け役だった」


 それだけで人の心を晴れやかにするような爽やかな声に起き上れば、そこには血が半分だけつながった兄 政光がいた。


「にい……さま……?」


 古井戸に落ちたはずだった。


 それなのに、なぜ兄がいるのか。


(わたしはまだ、夢の続きを見ているのかも)


 気分が重くなるばかりの夢だったけれど、兄が出てきたことで少しは楽しい夢になるのだろうか。


「ゆら。言うとくけど、これ、夢とちゃうで。現実や」


 そんなゆらの思考を読んだように鈴が言った。


「古来から、古井戸は異界に通じる道や。そこをちょちょいといじって、この西の丸に繋げたんは、ここにいる水戸のじいさんやで」


「え?」


 ゆらは鈴の話の一から十まで意味が分からなかったが、“水戸のじいさん”には反応出来て、鈴が肉球で指し示す方に顔を向けた。


「お、じいさま?」


「久しいの、ゆら。息災で何よりだ」


「ど、どうして、おじいさまがここに?江戸においでになるなんて聞いてませんよ」


「無論、これはごくごく忍びやかな訪問である」


 厳かにそう言った“水戸のおじいさま”の言葉を引き継ぐように、政光が優しい眼差しをゆらに向けた。


「ご隠居はね。お前の事を案じて来てくださったのだよ」


「……わたしを?」


「ああ。鈴をお前のもとにやって下さったのも、ご隠居だ」


「えっと、よく話が見えないんですけど」


「そうだね。その為に西の丸に来てもらったんだ。お前ももう、いろいろと知っていい頃だから」


「いろいろ?」


「そう、いろいろだ」


 ゆらは政光、“水戸のおじいさま”、鈴の顔を順に見て行った。


「つまり、皆繋がってるってことですか?」


「うわお。ボケのゆらにしては、えらい冴えてるやん!」


「鈴、少し言葉を慎んで」


 政光がやんわり諌めると、鈴は不満そうに「はーい」と言って、長い髭をぴくぴく動かした。


 どんな仕草も可愛い猫である。


「ゆら、お前の言う通り、ここにいる全員がある一つの事で繋がっている」


 政光が淡々と告げることをこれ以上聞くのが怖くなって、ゆらは腰を浮かせた。


「にいさま。わたし、他に用事があるので、その話また後ではいけませんか」


「おすわり、ゆら」


 穏やかな中に有無を言わせぬ響きがあり、ゆらは言葉なくまた腰を下ろした。


「お前の用と言うのは行方知れずになっているという娘の事だろう」


「それだけじゃないわ。鈴ちゃんに言われたの。かあさまをここから動かした方がいいって。父上に頼もうと思って」


「まだ聞いていないのかい?」


「何を?」


「いや……」


 言いよどんだ兄は、一つ深く息をついて脇息に寄り掛かった。


「そうか、まだ聞いていなかったのか。けど時を経ずしてお前の耳にも入るだろう。ゆら、落ち着いて聞くんだよ。志乃の方が今朝姿を消された」


「!」


「うち、気になったから、もう一回部屋の様子見に行ってん。そしたら、えらい騒ぎになっててん。お方さまがいなくなったあって」


「……いなくなったって……。かあさま、いったいどこに……」


「それを、ゆら、お前が鈴と探し出すんだよ」



 わたしが、鈴ちゃんと。

 かあさまを探し出す。



 絶望の淵に陥りそうになっていたゆらを、政光の言葉が引き上げた。


「鈴が志乃の方の部屋で妖の気配を感じたと言っている。おそらくは妖の仕業だろう。街で娘たちがいなくなっているのと同じでね」


「待って、おにいさま。街でいなくなったの、柳生のおしずさんだけではないの?」


「これはあとで詳しく聞きなさい。まずは、ゆら。これをご覧」


 言うと、政光は畳の上にばさりと紙を広げた。


「これは、ここ最近で行方知れずになった娘たちの家のある場所だ。見て分かるように、ここ、本所深川を中心とした円心上に広がっている」


 言いながら政光は閉じた扇子でとんと永代橋の近くを指し示した。


「本所深川……指南道場のある所だわ」


「柳生の娘御が最初だ。それを皮切りに、次々とそのような報告が奉行所の方に入っている」


「でも、にいさま。それが、どうして妖の仕業だと分かるの?」


「陰陽師がそう答えを出した」


「でも」


 ゆらは鈴を見た。


 鈴は少し退屈したのか、ゆらの横でとぐろを巻いていた。


「鈴ちゃんの旦さんはまだ江戸には来ていないのでしょう?」


「陰陽師は鈴の旦さんだけではないよ」


「江戸にもいるの?」


「お前の目の前にいらっしゃる」


 ゆらは瞠目し、大きな丸い目をさらに大きくしたまま顔を向けた。


「おじいさま……?ううん、だって、おじいさまは」


「旦さんの、おっしょさんや~」


 とぐろを巻いていたはずの鈴が嬉しそうに弾んでいる。


「おっしょさん?お師匠さん!?」


 ゆらの目はもう元の大きさには戻らないのではないかと思うくらいに見開かれていた。


 水戸で過ごした日々の記憶には、いつもおじいさまがいた。


 おじいさまがいてくれたからこそ、ゆらは水戸での生活に不安を覚えることなく過ごせたのだ。


「だ、だって、おじいさまは水戸の……」


「詳しく話していたら日が暮れてしまうよ。それは事が片付いてからだ。ゆら、鈴とお行き。きっと深川に何かある」


「おにいさま」


「無事を祈っているよ」


「わたしに何が出来ると」


「何が出来るのかと考えていては足は止まってしまいましょう」


「おじいさま」


「期せずして、わしの弟子が参りましょう。難しいことは弟子に任せ、ゆらさまは母君さまをお救いすることだけをお考えになっておりなされ」




「宗明」

 政光が襖の向こうに声をかけた。


 すると静かに襖が開かれた。


「三郎太!」


 いつから、そこにいたのか。


 襖の向こうには宗明が座していた。


「ゆらを頼む」


「はい」


 宗明がゆらに視線を向けた。


「清水宗明。命に代えてもお守りいたします」





 朝一旦止んだ雨が、また勢いを増して降り始めた。


 遠くで雷も鳴っている。


「うひょっ」


 ゆらは稲光が見えるたびに素っ頓狂な声を出して首を縮めながら、隣を歩く宗明と足元を小走りしている鈴を交互に見た。


「悪天候ですねえ」


「嬉しそうに言わない」


「ほんまや」


 同時に冷たい言葉を返され、ゆらは「ははっ」と渇いた笑いを漏らした。


 宗明の顔は終始険しい。


 それはこの激しい雨と雷のせいだけではないはずだ。


 彼はどこまで知っているのか。


 ゆらは兄の部屋を辞してから、そればかりを考えていた。


「あっこやで」


 彼らは西の丸の隅っこにある古井戸にやって来た。


 大奥の裏の古井戸からここに繋がっていたらしいのだが、ゆらは気を失っていたのでそのことを知らない。


 そして、今また西の丸の古井戸に飛び込もうとしているのだ。


「あのう、ほんとに行くの?」


 そこは大奥の古井戸よりも深そうに見えた。


「底にぶつかる前に異界に通じる道に入ってまうから大丈夫や。そっから目的地までひとっ飛びやで」


 得意そうに言う鈴を恨めし気に見たゆらは、宗明がこめかみを押さえているのに気が付いた。


「三郎太。どうしたの?」


 まさか彼に限って体調が悪いということはあるまい。


「いえ。少々状況に追い付いていけてない自分がおりまして」


「え?」


「どうぞ、お気になさらず。さあ、さっさと井戸にでも何でも飛び込みましょう!」


 まるで自分を奮い立たせているかのようだった。


「例え猫がにゃあと鳴かなくたって、私は気にしませんしね!」


 いや、思い切り気にしてるし!


 ゆらは吹き出しそうになるのを必死に耐えた。


 生真面目で、人知を超えた不思議をあまり信じていない宗明のことだ。


 鈴が人の言葉を口にすることなど受け入れがたいことだろう。


 まして古井戸に飛び込むなんて。


 それでも文句ひとつ言わず付いて来てくれる彼に、ゆらは申し訳なく思った。


「ありがとう、三郎太」


「ゆらさまをおひとりで行かせたなんてことになったら、私は腹を切るしかなくなりますよ」


 宗明がそう言ってふっと漏らした微笑みは温かくゆらを包み込んだ。


「ほな、行っくで~」


 なんとなくしんみりしたゆらのお尻に鈴が再び体当たりした。


「うわっ、またこれ~?」


 古井戸に飛び込むというよりは落ちていく、ゆら。


 慌てて井戸を覗き込んだ宗明も、鈴によって強制的に突入。


 井戸には降りしきる雨が溜まっていてもおかしくはないのに、そこには一滴の水もなく、彼らは何もない暗黒へと吸い込まれていった。


 二人と一匹は、こうして騒がしいままに西の丸から姿を消した。


 と思う間もなく、一際大きな雷が江戸の街に轟いた。


 この雷雲はこのあと一晩街の上空に留まり、青白い稲光が幾筋も夜空を切り裂いた。


 それはまるで江戸の街を祓うつもりでもあるかのようだったと、布団を引き被って夜を明かした人々は噂し合ったと言う。


 


 その雷の大音声が障子を揺らす西の丸では。


「ご案じなさいなさいますな、政光さま。いずれ弟子が、ゆらさまを導きましょう」


 憂い顔の政光に、“水戸のおじいさま”が声をかけた。


「賀茂よ。あれには少し荷が勝ちすぎる……」


 妹姫を案じる世継ぎの君の心に、それ以上の想いがあることを老練な陰陽師は知っていた。


 そしてこれがすべての始まりでしかないことも。


 それを頼りない娘に託すしかないことも。


 水戸のおじいさまは知っていた。



12/11 少し書き足しました。

ご了承ください。

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