(3)用心棒④
「はっくしょん!」
盛大なくしゃみをして鼻の下をこすりながらあやめを見れば、じとっとした目でこちらを見ていた。
「あのような所でお休みになっていれば、お風邪も召されましょう」
その声は至って冷たい。
「だって~」
「だってではありません。雨降りの夜に周り縁で寝るなんて、姫さまのお気がしれませんわ」
そう言われてしまえば反論の言葉も出ず、ゆらはむっつり押し黙った。
そんなゆらの様子にあやめは気遣わしげな視線を向けたものの、それをあえて口にはせず、何度言ってもちっとも態度の改まらない、この姫君を懇々と諭し続けた。
ゆらは温かい布にくるまりながら、それを聞くとはなく聞いていた。
頭の中にあったのは昨夜のこと。
不思議な猫とした、深夜の大奥見廻りのことだった。
鈴は母の部屋からどんな気配を感じたのか。
それは恐らく悪いもので、だから母を部屋から動かせと言い置いたのだ。
人の言葉を口にするだけでも十分不可思議であるのに、あの猫は妖の気配を感じることができるように見えた。
いや、そう見えただけでなく、実際そうなのだろう。
そしてその力をゆらにも求めているような言動だった。
(わたしがそんなこと出来るわけないよ)
珍しく物思いに沈んでいる様子のゆらの事がさすがに気がかりになったのか、あやめはお小言を言うのをやめ、しばらく逡巡した後「本当に長雨で、気が滅入りますわね」と話題を変えた。
それでも顔を上げないゆらに、あやめは膝を進めた。
「……お母上さまがご心配だったのですか」
「え?」
ゆらは“母上”という言葉にようやく顔を上げた。
「う、うん。そうなんだ……」
「ならば、一言言い置いてくださればお供致しましたものを。お一人での夜歩きなど大奥の内とは言え危のうございますし、あのような場所で寝てしまわれることもありませんでしたでしょう」
「うん、ごめん……。ねえ、あやめ。かあさまはやっぱり市中のおじいさまの所にお帰りになった方がいいんじゃないかしら。わたし、父上に申し上げてみようと思うんだけれど」
母である志乃の方は江戸市中の商家の娘だった。
あやめは言葉なく首を横に振った。
「あやめ」
「恐らく、お匙のお医者さまがそう申し上げても、上さまは承服なさいませんわ。何度も何度も話し合われたことのようでございますもの」
「でも、父上も本当にかあさまの事を思っておいでなら、あんな部屋に閉じ込めたままにするよりも、きちんと静養してもらう方がいいに決まってる。きっと父上はかあさまの事がそんなに大切じゃないのよ」
「姫さま!」
あやめは飛び上がった。将軍の事を批判するなんて実の娘にだって許されない。
もし誰かが聞いていたら。
あやめはきょろきょろ周りを見渡した。
幸いにも風邪気味のゆらを気遣い人払いがされていて、部屋の近くに人はいないようだった。
「上さまには上さまのお考えがおありですのよ」
「かあさまは父上だけのかあさまじゃない。わたしにとっても大切なかあさまよ。それなのに心配するなって言うの?」
「姫さま……」
ゆらがここまで、母の事に関して感情を顕わにするのはかつてないことだった。
いつも淡々と、ただ言われた通り母を見舞い、笑顔で過ごしていた。
幼い時を離れ離れで過ごし、大奥に戻ってきてもめったに面会を許されず、子である彼女が何も思わないはずはないというのに。
けれど彼女の周りの者は皆、彼女が大して深くは考えていないと軽んじ、問題をなおざりにしてきた向きがある。
それは一番近くにいたあやめも同じだった。
「姫さま」
「あやめ。わたしも父上が怖い。いつもにこにこしてるのに、ふとした時に見える冷たい眼差しがすごく怖いんだ。でもね、もうダメだよ。もうかあさまは限界なんだ。ここで私が動かなかったら、かあさまの病はいつまでたっても良くならないよ」
若さゆえの思い込みとであるとも言える。
けれどその根っこにあるのは実の子として母を思う純粋な気持ちだった。
物心付いた頃から病に伏していた母と供にあった記憶はごく僅か。
水戸で暮らした思い出が今でも彼女の支えであり、水戸の縁戚の老人を“おじいさま”と呼んで父よりも親しく思う彼女だった。
その生い立ちが彼女の性格の形成に多分に関係しているのは明らかだ。
一見わがまま放題のように見えて、その実一歩引き遠慮していることを、ずっと傍にいたあやめは知っている。
「分かりました、姫さま。お母上さまのために姫さまが良いと思うことをなさってくださいませ。後の事は、このあやめにお任せを」
「ありがとう、あやめ。かあさまのために、わたし頑張る」
言うが早いか、ゆらは打掛を脱ぎ捨ていつもの若侍姿になると、文机の上の小箱から小さな鈴を取り出したかと思うと、手首を一心に振ってそれを鳴らし始めた。
チリチリチリチリ
涼やかな鈴の音が響く。
「姫さま?」
またゆらの奇怪な行動が始まったかと、あやめは早速己の決意が揺らぐのを感じたが、鬼気迫る形相で鈴を振り続けるゆらを止めることもできず固唾を飲んで見守った。
「にゃあ」
しばらくして猫の鳴き声が部屋の外から聞こえてきた。
「ほんとに来た!」
「何が来たのです、姫さま?」
あやめの問いかけにも答えず、ゆらは勇んで部屋の外へ飛び出した。
庭へ降りる踏み石に揃えて置いてある草履を引っかけると、「じゃ、あやめ行ってくる!」と言い残して駆け出して行った。
姫の俊足には敵わないことを重々承知しているあやめは、
「姫さま!くれぐれもお気をつけて」と案ずる言葉を走り去る背中に投げ掛けることしかできなかった。




