【三の殿方】江戸城西の丸お世継ぎの間
お前は俺の光だ
ただ、そこにいるだけでいい
願いは、ただ一つ
お前の幸せだけ
将軍家嫡男、政光は、この日、今もっとも会いたくない人物と対面する予定となっていた。
先日の花の宴での、父の発言。
「赤松の縁談を用意している」
その縁談の相手が誰なのか、政光には十分過ぎる程察しが付いていた。
父の、赤松に対する評価はかなり高い。その評価に劣らぬものを、確かに彼は持っている。和成と深い親交のある政光は、そのことをよく知っていた。
人柄も申し分ない和成に、異母妹であるゆらが嫁いだとすれば……。
(きっと、あの子は幸せになるだろう。広く温かな彼に包まれ、幸せな一生を送るだろう)
そう思う。
けれど、胸を刺すような痛みがあった。その相手が自分であったなら、あの子を幸せにしてやれるのが、自分であったなら……。
彼女に対する特別な感情に気付いたのは、いつだったか。
それは、初めて会った、あの日から始まっていたのかもしれない。
あの子は、この魔窟のような城に差した、一条の光。俺の心を救ってくれた大切な子。
彼女の前では、普通に兄として振舞っているつもりだった。この感情を気付かれないように、細心の注意を払ってきた。
でも、一人の時には、溢れてくるものを止められなくなる。
万に一つも望みのないのは分かっている。
決して一線を越えることは出来ないことも、分かっていた。
あの子に会えるのは、月に一度もなかった。
だから思いは強くなっていくのかもしれないが……。
求めても、手を伸ばすことのできない恋しい人。あきらめては、いた。
静かに彼は、次の間に入って来た。
同い年の和成が大人に思えた。
すでに藩政を握り、手腕を発揮している男と、まだ父の補佐役でしかない自分と。
その差は歴然としていた。
劣等感というのではない。 ただ素直に、彼には敵わないと思っている自分がいる。
一通りの挨拶をすませると、和成はむっつりと黙り込んでしまった。 言いたいことがあるはずなのに、何から切り出したらいいのか分からない、そんな感じに見えた。
「おやじに言われたこと、か?」
だから政光は水を向けてやった。
「……」
それでも、和成は黙ったまま。
「妻は娶らないと公言していたお前だけど、とうとう年貢の納めどきだよな」
「なんとか、お断りする方法はないでしょうか」
と、あの冷静な和成が、必死と顔に書いて言いつのった。
「断る?」
「はい。今日は、政光さまにそのことをお聞きしたくて参ったのです」
「縁談を断る方法を?」
「はい。私は、心に決めた人がいるのです。」
「え?」
「その人以外は考えられない。ですから政光さま」
「ちょ、ちょっと待った。和成」
「はい」
「お前、誰かに、懸想しているのか?」
まさに青天の霹靂。
堅物の和成が誰かに恋したって?
他に想う人のいる相手になどあのゆらが嫁ぐ気になるはずがなく、もしかしたら出奔してしまうことだって考えられた。
(あの子の性格は、親父もよく知っているはずだ)
和成が懸想していると告げれば、この縁談は立ち消えになるかも知れない。
そう思い、政光は内心小躍りしていた。
「あの花の宴の折に」と、和成は続けた。
「花の宴?」
「はい、皆さまが行啓くださった折に」
政光は嫌な予感がした。小躍りしていた気分も、一気に萎んでいった。
(和成よ、それ以上言うな)
政光は声を上げそうになった。
「恐れ多くも、妹姫に……」
(俺の妹は一人だけだ。ゆらだけだ。あれに、お前は懸想したというのか……)
強い意思の籠った眼差しでこちらを見る和成を、政光は呆然たる思いで見返していた。
「……断る必要なんてないさ。」
ほどなくして、政光の口からは、そんな言葉が出ていた。
「しかし」
「もし断ったとして、領地領民に累が及んだらどうするんだ?」
「及ばぬように努力致します。私一人の問題で終わるように」
「終わらなかったら?」
「それでも……。それでも、自分の気持ちに嘘はつけません。政光さまは、ご自分に思う女性がいたとして、他の女性を抱けますか?」
愛しい少女の面影が過ぎり、政光は頭を振った。
「私も、無理です。思いが届かなくとも、私は一人の人を思い続ける」
和成ははっきりと言い切った。
(こいつ、相談に来たのに、自分で結論出したよ)
苦笑する政光を残し、和成は晴れ晴れとした顔をして帰って行った。
結局、政光がより落ち込んだだけの面会となってしまった。
ほどなく、将軍は、夕羅との縁談を和成に持ち掛けるだろう。
そして彼は憂いなくそれを受け、婚姻は成立するだろう。
城から光は失われ、それからは?
(それから俺はどうなるのか……)
所在無げに縁に立つと、春のそよ風に吹かれた。
けれど政光には、それを楽しむ余裕はない。
今はただ、胸をえぐるような痛みしか、感じることはなかった。