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姫恋華~ひめれんげ~  作者: 藤原ゆう
第二章 暗躍するものたち
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(3)用心棒

 新之助は道場に行ったのか。


 おしずの行方の手がかりは何かつかめたのか。


 確かめることも出来ないまま数日が過ぎていた。


 ゆらはついに外出禁止を宗明に言い渡されてしまったのだ。

 

 無理もない。


 黄昏時。よく知りもしない男と二人、長屋の一室にいるところを見つかってしまったのだから。


 新之助は気を遣って障子戸を開けていたし、二人の間に何かあったとは考えられないけれど、これはけじめというものだ。


 さんざん甘い顔をして来たが、今度ばかりは宗明も見過ごしにはできなかった。


 行き先を告げ、供をつけて城を出ること。


 その約束をたがえ、さらにどこの馬ともしれない浪人者と二人きり!


 最低限の約束すら守れないなら、お仕置きは当然である。


 あの日。ゆらを探し当てた宗明は声を荒げ叱ることもなく、拳骨も落とさなかった。


 日が落ちる間際まぎわ刹那せつなの残光の中で、ただ悲しそうな目でゆらを見ただけだ。


 謝るゆらに、首を振って答える宗明。それはゆらを拒絶しているようにも思え、さすがのゆらも堪えた。


 だからこそ外出禁止を言い渡されたここ数日を、日がな一日大人しく過ごしていたのだ。

 

 しかし、やることがない。

 

 手習いをしようと墨をすってみても、筆を手に取る前に飽きてしまうし、あやめがここぞとばかりに琴の練習をやらせようとするけれど、気乗りしないままビンビンと二度ほど糸をはねては爪を投げて遊び始める。


 頭を抱えるあやめに、「だって向いてないんだもん」と悪びれた風もなく微笑みかけた。


 その笑顔がまた可愛らしいときているから、いよいよ憎らしい。


「いっそ御台さまにお稽古をつけていただこうかしら」と奥の手をちらつかせると、すぐにその笑顔を引っ込めて、「御台さまもお忙しいでしょう」とあたふたする。


 そんなやりとりを、ここ数日ずっと二人はやり続けていた。


 その日もしとしと雨が降っていた。


 今年は長梅雨なのか。


 お天道さまは雲の向こうに隠れ、いっこうに暑くならない。


 夜ともなれば肌寒いくらいになり、ゆらですら今年の稲の出来を心配するくらい

の天候不順だった。


 稲ができなければ年貢が取れない。そうなると農家の暮らし向きは悪くなる。


 江戸には商人が多いけれど、一歩郊外に出ればそこには田畑が広がり、江戸の食生活を支えてくれていた。


 幕府や米問屋、諸藩のお蔵には備蓄米がある。けれど、それを庶民の隅々にまで行き渡らせようとすれば、思った以上の手間と人手がかかってしまう。


 もし不作であったなら、その備蓄米をいかに配分するか、ここに来てまた幕閣を悩ませる事案が発生してしまった。


「攘夷だけでも頭の痛いことであるのに」とある老中が言ったというが、そこまではゆらのあずかり知らぬことである。


 そんな雨の続く日。


 宗明もこれ幸いとゆらの前に姿を現さなくなって、さらに二日ほどが経っていた。


 新之助の長屋での一件から、一週間ほど。


 その日の夕餉の後、ゆらはやることもないからと早々に床に就いた。けれど、体を動かしていないから、いっこうに眠れない。


 にゃっ。


 すぐ近くで猫の声がしたような気がした。


 ゆらは掛け物の下で身じろぎ耳を凝らした。


 にゃあ。


 やはり猫の声だ。


 大奥に猫のいるのは珍しいことではない。


 奥女中たちの住まいである長局ながつぼねでは猫がよく飼われている。


 けれど、ゆらの寝所の近くに猫はいない。


 長局から猫が抜け出して来たと言うなら、そうなのかも知れないが……。


 ゆらはしとねの上に身を起こした。


 不寝番ねずばんの腰元たちは気付かないのだろうか。


 そう思い、彼女らに向かって御簾越しに声をかけたが反応がない。


 いつぞやのあやかしに襲われた夜のことを思い出し、ゆらは小さく身震いした。


 褥から這い出し御簾を少し上げると、思ったとおり腰元たちはその場に突っ伏して眠っていた。


 行燈がまだ小さな灯をともしていたから、真っ暗闇ではないのがせめてもの救いだった。


 が、宗明はもう宿直するのをやめている。


 ここで起きているのは、ゆらだけだ。


 声をあげても誰も来ないかも。


 ゆらは「ひっ」と小さく叫んで、引き寄せた掛け物を頭の上に引きかぶった。


 畳の上に突っ伏して、布一枚で作られた闇の中で、もし妖が出たとしてもこれでなんとか切り抜けようというつもりらしい。


(わたしはここにいません。ここにはいません。いませんよー!)


 『見つけた』と喋った時の妖の地を這うような声が思い出され、全身が総毛立つ。


 このたった一人という状況の中で、もし今またあの声を聞いたなら、ゆらは正気を保っていられる自信はなかった。


 ゆらが(南無阿弥陀仏)と唱えた時だった。


 掛け物のちょうど頭のあたりを、ぺしりと何かが叩いたのだ。


「ひいいっ」


 いっそう布を強くつかんで、決して剥ぎ取られまいと身を固くすると、今度は何かがトンと背中の上に乗った。


「ひゃああああ」


 これはいよいよ妖の餌食だ。


 そう思ったところで、ソレが「んにゃ」と鳴いた。


 とても可愛らしい声で。


「んにゃ?」


 ゆらは引きかぶった布の下で顔を上げた。


 妖が「んにゃ」とか鳴くものだろうか。


 すると今度は背中をペシペシペシペシ叩き出した。


 痛くはない。とても軽いもので叩かれている感じで、むしろ心地いい。


(あれ。これって、ほんとに猫なんじゃ……)


 ゆらはそろそろと被り物から目を出した。それから身をよじって背中の上を見ようと試みる。


 薄明かりの中、ピンと上を向いた尻尾が見えた。細いが、もふもふの毛に包まれている。


(うひょっ)


 俄然ゆらは色めきたった。


 団子が大好物の彼女は、また無類の猫好きでもあったのだ。


「猫ちゃん。どこからきたのかな~」


 文字通りの猫撫で声でそう言うと、猫のペシペシがやんだ。


 くるっと振り向いた猫は真ん丸な目を見開いて、しばらくゆらを見返していた。


 見れば見るほど愛らしい猫に、ゆらはすっかりでれでれだった。


 そんなゆらに向かって猫はふんと鼻を鳴らすと、「はよ起きんかい。ボケ」と鳴いた。


 いや、鳴いたのではない。


 明らかに喋ったのだ。


 人の言葉で。


 猫と同じくらい目を真ん丸にしたゆらは身じろぎ一つできず固まってしまった。


「ふん。鈍くさいやつやなあ」


 こんなんでものになるんやろか。


 ぶつぶつ言いながら猫は、布から目だけを出しているゆらの前にトンと身軽く下り立った。


「うちは、すず。京の都から来た、ごっつ可愛らしい猫さんや」


 はい。すごく可愛いです。


 その、お口がなければ……。


 ゆらは瞠目したまま、ただしげしげと鈴と名乗った猫を見つめていた。


 そう。猫が自ら名乗ったのだ。


 鈴と。


 真夜中にひょっこり現れた人の言葉を喋る猫。


 妖でなく、何だというのか。


 一度は盛り上がったゆらの気持ちも、瞬く間に萎んでいった。


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