(2)捜索 ⑤
「で、でも黙ってれば……」
「黙ってれば大丈夫とか、そういう問題ではなくって、そもそも自分の仕える人間が身に危険の及ぶようなことに関われば、ああいう人は腹に据えかねるでしょ?」
「そう、なのかな……」
仕える人間と仕えられる人間ということで考えれば、新之助には仕える人間の心理のほうが分かりやすい。
特に主人がこのように頼りない少女であったなら、心を尽くしても尽くし過ぎることはないように思われた。
「でも、わたしがいないとアレに気付けないかも」
「俺は河童と友達になるような人間だよ。きっと不可思議なことには縁がある」
「……」
新之助とて自信などなかった。
だからと言って、ゆらの同道を許して万が一のことがあれば、自分はきっと深く後悔する。そう思えばこそ、はったりも必要だった。
それでも、ゆらは不満そうに唇を尖らせている。
新之助はその可愛らしい表情に自然と笑みが零れそうになるのを、顔を逸らすことで隠そうとした。
障子戸が僅かに開いた隙間から、暮れなずむ空の切れ端が見えた。
「もう暗くなる。そろそろ帰ったほうがいいね」
日が一番長い時期の宵の口である。
もうすぐ暮れ六つ(七時頃)になろうかという刻限だろう。
「どうりで、おなか空いたと思ったんだ」
言いながら、ゆらは懐から団子の包みを取り出した。
「いつでも美味しい玄さんの団子」
妙な節回しで歌いながら、ゆらはもう一本を手に取ると、新之助に差し出した。
「はい。どうぞ」
「いや。どうぞって」
思わず腰の引けた新之助に構わず、団子を手にした腕を、さらにもう一段前に突き出すゆら。
「美味しいよ?」
「美味しいのは分かってる。けど、今はいい……よ」
「いいよ」と言いながら、新之助は身をよじった。
彼の突然の動きに、ゆらは団子を頬張ろうとした大口を開けたまま固まった。
障子戸が音を立てて開け放たれたかと思うと、乏しい行燈の灯りにキラリと何かが閃いた。
ガッという鈍い音がして目を凝らせば、新之助が腰の刀を鞘ごと抜き、障子戸の向こうから繰り出された白刃を
受け止めていた。
「いきなり斬り付けることはないんじゃないっすか?」
緊迫したこの場の空気にそぐわない軽い口調で言って、新之助は相手の太刀を受け止めながら肩をすくめた。
「ゆらさまを家に引っ張り込んでおいて、よく言う」
「んげっ」
相手の発した声を聞いて、ゆらはせっかく口に入れた団子をぽとりと土間に落としてしまった。
(ああ、もったいない……)
涙目になりながらも、このあと、もっと泣かなければならない展開になることを感じて、さすがのゆらも団子を諦めざるを得なかった。
「とりあえず刀を納めましょうか」
新之助はどこまでも冷静だった。
障子戸の向こうにいる宗明とて、ゆらからすれば落ち着いているように見えた。
いきなり斬り付けたにしては。
「ゆらさま。こちらに」
目は新之助を見据えたまま、宗明が出した声は普段よりも幾分低かった。
見た目は落ち着いているようでも、腹の中は煮えくり返っているらしい。
ゆらは恐々として立ち上がり、二人が未だ切り結んでいる太刀と鞘の下をかいくぐって外に出た。
背の高さは同じくらいの男たちだ。
ゆらは腰を屈めることもなかった。
間口の狭い長屋の入り口でよく太刀を抜けたものだと思うが、そこはそれ、手練れの二人だ。何とでもやりよう
はあるのだろう。
「ゆらさん。おしずさんのことは俺が何とかするから」
新之助も宗明を睨んだまま、声だけ部屋の外のゆらに向けた。
「う、うん。よろしくお願いします」
「ゆらさまは木戸の方へ。私は少しこの者と話がある」
「了解しますた」
ぴしっと背筋を伸ばして、宗明の背中に滑舌の悪い言葉を掛けると、ゆらは素直に木戸の方へ足を向けたのだった。
それを気配で感じながら、宗明はここでようやく刀を引いた。
「どういう経緯で、ゆらさまをここに?」
太刀を鞘に戻しながら、宗明は詰問した。
「街で偶然会って、おしずさんのことを相談したいっていうから」
まるで浮気現場を押さえられた間男の言い訳みたいだ。
なんとなく自分が憐れになりながら、新之助は事の顛末を宗明に話して聞かせた。
「成る程。では、ゆらさまはこの一件から手を引くということでいいのだな」
「え?ああ、そういうことになりますか……ね?」
明日道場に行くのは新之助一人だが、ゆらの性格から言って、おしずが見つかるまで大人しくしているとは思え
ない。
(まあ、それも、俺には関係のないことになってしまうんだけど)
明後日には佐伯の屋敷に入る。
そうなると、新之助が彼らと関わることは恐らく今夜が最後だ。
(だから、これでいいんだ)
この目の前の御仁とも対峙することもなくなる。
(それでいい)
どこか達観した心持ちで、新之助は深々と頭を下げた。
「ゆらさんを自宅に呼んだことは謝ります。もう会うこともないでしょう。それで容赦頂けませんか」
そう言われた宗明は随分拍子抜けした顔をしていた。
まさか頭を下げられるとは思っていなかったのだ。
「いや。面を上げられよ。ゆらさまとてお悪いのだ」
「彼女を叱らないでやってくださいね。おしずさんのことが心底心配だっただけですから」
「ああ。そうだな……」
苦い表情をして頷いた宗明の複雑な心情を、新之助は手に取るように分かっていた。
仕える少女の自由奔放な振る舞いに辟易しながらも、彼の振る舞いからはそれを許す寛容さも垣間見える。
そして姉とも慕う女性の失踪に小さな胸を痛めている彼女の気持ちを思いやりながらも、仕える者として、彼女の行動を制限しなければならない彼の葛藤も透かし見えていた。
(ゆらさんは、いい人に側にいてもらっているんだな)
新之助は主君に仕えていた頃の自分の心情をも思い出していた。
(だからこそ、俺はゆらさんと会ってはいけないんだ)
従者が願うのは、ただ偏に主の平穏だけだからだ。
その二人の間には、何人も割って入ることは出来ない。
「今宵限りで失礼しますよ」
「……ああ。今宵限りで、な」
新之助の言葉に強い意志を感じたのか。
宗明は小さく頷くと踵を返し、木戸の方へと足を向けた。
月もない暗い夜だった。
まだまだ明けきらない梅雨の真っただ中。
空気はじめじめと湿気を帯び、人の心と体を蝕んでいく。
「明日はまた雨かな……」
しんと静まり返った長屋。
二人の去った障子戸の外に立ち尽くしたまま、新之助は長いこと物思いに沈んでいた。




