(1)暗部に生きる ②
梅雨の雨が降り続ける。
長雨に応えているのか、子供たちも家の中でおとなくしているようで、この日の長屋はとても静かだった。
雨の音を聞きながら、いつものように板間に転がり、うとうとしかけた時だった。
ほとほとと障子戸が叩かれる音に目を開いた。
常に体の側にある太刀に手を伸ばす。
「風間、新之助どの?」
低く、くぐもった声が聞こえた。
気配を殺して刀の柄に手を掛けた。
「某は近藤さまの使いに候」
「!」
「風間どの。某と同道願いたい」
のろのろと障子戸を開けると、ぎょろりとした目とぶつかった。
使いの侍は、有無を言わせぬ様子で新之助を見返した。
「……近藤さまが?」
「いかにも」
新之助は一瞬唇を固く引き結ぶと、太刀と脇差を腰に差し外へ出た。
「ご案内、お願い致す」
小さく頷くと、使いの侍は先に立って歩き始めた。
目的地は存外近くにあったようだ。
長屋近くの堀割に面した、こじんまりとした小料理屋の前で男が立ち止まった。
「こちらの二階にお待ちだ」
新之助はこくりと頷くと、侍の後に続いて暖簾をくぐった。
小料理屋のおかみは事前に言い含められているのか、新之助の顔を見ただけで階段に誘う。
「ごゆっくり」
おかみの声を背に受けて階段を上って行くと、二階に部屋は二つ。
その奥から障子を通して灯りが漏れていた。
「お連れ致しました」
「入れ」
男に促され障子を開け、いざって部屋に入ると、廊下にいた侍の気配が一瞬にして消えた。
はっとして振り返ると、彼の姿はもうなかった。
「あの者のことは気にせずとも良い。それよりも、時間がない。こちらへ」
室内の明かりは極力落としてあり、その中に新之助を呼んだ者の顔が浮かび上がっていた。
障子を閉め、平伏した新之助に、その男が掛けた声は存外優しいものだった。
「久しいの。直隆」
新之助は平伏したまま瞠目した。
それは彼が捨てた名だったからだ。
「この名で呼ばれるのは久方ぶりか。面を上げよ」
青ざめた顔を上げた新之助に、恰幅の良い初老の男が穏やかな眼差しを向けている。
「わしの招請に応じてくれて礼を言う」
「……」
「元気そうで何よりだ」
「まこと、近藤さまでございましたか……」
新之助が独り言のように呟いた言葉に、近藤は微かに笑んだ。
「斬られるとでも思うたか」
「それも仕方ない身の上でございます故」
「ふむ……。さぞ、辛い思いをしたであろうな。直隆よ」
「……」
「わしは、そなたをまだ稲垣家の嫡男と思うているぞ」
「え?」
「まあ、一杯やれ」
盃を渡され、酒を注がれる。
なみなみと酒が入った盃に、恐る恐る口を付けた新之助。
途端に渋い表情で盃を置いた。
「お前の父はいける口だったがな」
残念そうに言われれば、とても申し訳ない気持ちになって、新之助は頭を下げた。
「まあ、そなたもまだ若い。これから慣れて行けば飲めるようになるだろう」
はははと高笑いをした近藤に、新之助は渋い表情のまま首を振った。
「まあ、良い。もそっと近うに」
行燈の灯りに浮かび上がる近藤の顔は相変わらず穏やかだ。
けれど空気がぴんと張り詰めた。
新之助がにじり寄ると、
「今日来てもらったのは他でもない。そなたの力を貸してほしいのだ」
と囁くように言った。
「……」
「わしは甥であるそなたを見捨てることはないぞ。直隆」
新之助は強張った顔で、目尻に笑い皺を刻んだ近藤の顔を凝視している。
目の前の人物の真意を探るかのように。
「私は、脱藩した身でございます」
「それは、わしが手を回し、なかったことになっている」
「え?」
新之助は言葉を失った。
「そなたはまだ我が藩の藩士。稲垣家が嫡男、直隆だ」
「伯父上……」
「名を捨て、国を捨て、仇を討とうとでも思ったか?」
「……」
「そなたは聡い。己の存在を消すことで、あれ以上の事態の悪化を防ごうとでも思ったのであろう」
「……」
「殿も、それをよくお分かりだ。安心するがいい。国許にはまだ、お前の帰る場所はある」
「……姉は。姉は息災ですか?」
「それも安心するがいい。殿が厳重に匿われ、無事臨月を迎えられた」
「そう、ですか……」
ほっと息をついた新之助に、近藤が目を細めた。
「直隆よ。そなたにはまだ、殿への忠義の心があるか?」
「それは……もちろん。私が今あるのは、全て殿がいてくださったからこそ」
「ならば、その忠義。今一度見せてみよ」
「……私に、何をしろと」
すると、近藤は新之助にさらに顔を寄せ、耳元で囁いた。
「さる屋敷の内偵を」
「内偵?」
「左様。この度の一連の件、幸いにもまだお上には届いておらぬ。だが、お上のご不興を蒙れば、お家の一大事をも招きかねん。老中がこの事を知る前に、そなたにある事を突き止めてほしい」
「……」
「江戸留守居の佐伯永正。かの者の動きが怪しいと、先程の影が報告して参ったのだ……」
「あの方は、『影』と申されるのですか?」
「ん?やはり、そなたは聡いのう。あの者が普通の者ではないと気付いたか」
「ええ、気配がありませんでしたし」
剣の腕には自信のある新之助だったから、あそこまで気配を消してしまうのに、どれだけの鍛錬を要するか知っているつもりだった。
「ふむ。なるほど……。あれはな、直隆。殿よりお預かりした、お庭番じゃ」
「え?では、忍びの者ですか」
軽く頷いて、近藤は新之助から身を離した。
「そなたには、あの者と連絡を取りながら、もっと内部に入り込んでもらいたいのだ。影ですら入れぬ、真相の只中に……」
新之助の胸の中には、さまざまな感情が渦巻いていた。
一度は世を捨てようと思った身の上だ。
それを今また、目の前の男が引き摺り上げようとしている。
何故、こうも早く居場所が知れたのか。
佐伯という者は本当にこの件の黒幕なのか。
もしや、あの事件にこの伯父も一枚絡んでいるのではないか。
疑念が疑念を呼び、新之助の判断力を鈍らせる。
新之助は母の兄であり、藩の重役に身を置く、この伯父を尊敬していた。この人のように主君に仕えたいと日々研鑽に励んでいた。
藩内で力ある伯父が、どうして父母の殺害を止めることが出来なかったのか。
それが、新之助の疑念の発端であろう。
「直隆よ。そなたの両親の事はまさに突然の事であり、わしも止めようがなかったのだ。すまぬ」
分かっている。
稲垣家の名を残し、姉の身を守ってくれただけでも、伯父には感謝しなければならないのだ。
(俺は冷静にならないとな)
そう思い、新之助は飲めない酒を一気に飲み干すと、畳に手をついた。
「伯父上。いえ、近藤さま。この風間新之助になんなりとお申し付けください」
「ふむ。良かろう。そなたには佐伯の屋敷に用心棒として潜入してもらいたい」
「用心棒?」
「ここに来て、佐伯が用心棒を募集し始めた。腕の立つそなたには、打ってつけの役であろう?真っ向から奴の懐に入り込み、奴の真相を暴くのだ。両親の仇を取る為に」
「は……」
平伏しながら、新之助は思う。
(恐らく、近藤さまはもっと多くの事をご存じだ)
けれど、それをここで問い質しても答えは帰って来ないだろう。
(俺が突き止めればいいだけの事だ)
新之助の腹は決まった。
両親の無念を晴らすために。
姉が心置きなく殿の子を育てられるように。




