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姫恋華~ひめれんげ~  作者: 藤原ゆう
第二章 暗躍するものたち
21/45

(1)暗部に生きる ②

 梅雨の雨が降り続ける。

 長雨に応えているのか、子供たちも家の中でおとなくしているようで、この日の長屋はとても静かだった。


 雨の音を聞きながら、いつものように板間に転がり、うとうとしかけた時だった。


 ほとほとと障子戸が叩かれる音に目を開いた。


 常に体の側にある太刀に手を伸ばす。


「風間、新之助どの?」

 低く、くぐもった声が聞こえた。


 気配を殺して刀のつかに手を掛けた。


「某は近藤さまの使いに候」

「!」

「風間どの。それがしと同道願いたい」


 のろのろと障子戸を開けると、ぎょろりとした目とぶつかった。


 使いの侍は、有無を言わせぬ様子で新之助を見返した。


「……近藤さまが?」

「いかにも」


 新之助は一瞬唇を固く引き結ぶと、太刀と脇差を腰に差し外へ出た。


「ご案内、お願い致す」


 小さく頷くと、使いの侍は先に立って歩き始めた。


 目的地は存外近くにあったようだ。

 長屋近くの堀割に面した、こじんまりとした小料理屋の前で男が立ち止まった。


「こちらの二階にお待ちだ」


 新之助はこくりと頷くと、侍の後に続いて暖簾をくぐった。

 小料理屋のおかみは事前に言い含められているのか、新之助の顔を見ただけで階段に誘う。


「ごゆっくり」

 おかみの声を背に受けて階段を上って行くと、二階に部屋は二つ。

 その奥から障子を通して灯りが漏れていた。


「お連れ致しました」

「入れ」


 男に促され障子を開け、いざって部屋に入ると、廊下にいた侍の気配が一瞬にして消えた。


 はっとして振り返ると、彼の姿はもうなかった。


「あの者のことは気にせずとも良い。それよりも、時間がない。こちらへ」


 室内の明かりは極力落としてあり、その中に新之助を呼んだ者の顔が浮かび上がっていた。


 障子を閉め、平伏した新之助に、その男が掛けた声は存外優しいものだった。


「久しいの。直隆」


 新之助は平伏したまま瞠目した。


 それは彼が捨てた名だったからだ。


「この名で呼ばれるのは久方ぶりか。面を上げよ」


 青ざめた顔を上げた新之助に、恰幅の良い初老の男が穏やかな眼差しを向けている。


「わしの招請に応じてくれて礼を言う」

「……」

「元気そうで何よりだ」


「まこと、近藤さまでございましたか……」


 新之助が独り言のように呟いた言葉に、近藤は微かに笑んだ。


「斬られるとでも思うたか」


「それも仕方ない身の上でございます故」


「ふむ……。さぞ、辛い思いをしたであろうな。直隆よ」


「……」


「わしは、そなたをまだ稲垣家の嫡男と思うているぞ」


「え?」


「まあ、一杯やれ」


 盃を渡され、酒を注がれる。

 なみなみと酒が入った盃に、恐る恐る口を付けた新之助。

 途端に渋い表情で盃を置いた。


「お前の父はいける口だったがな」


 残念そうに言われれば、とても申し訳ない気持ちになって、新之助は頭を下げた。


「まあ、そなたもまだ若い。これから慣れて行けば飲めるようになるだろう」


 はははと高笑いをした近藤に、新之助は渋い表情のまま首を振った。


「まあ、良い。もそっと近うに」


 行燈の灯りに浮かび上がる近藤の顔は相変わらず穏やかだ。


 けれど空気がぴんと張り詰めた。


 新之助がにじり寄ると、

「今日来てもらったのは他でもない。そなたの力を貸してほしいのだ」

と囁くように言った。

「……」

「わしは甥であるそなたを見捨てることはないぞ。直隆」


 新之助は強張った顔で、目尻に笑い皺を刻んだ近藤の顔を凝視している。

 目の前の人物の真意を探るかのように。


「私は、脱藩した身でございます」


「それは、わしが手を回し、なかったことになっている」


「え?」

 新之助は言葉を失った。


「そなたはまだ我が藩の藩士。稲垣家が嫡男、直隆だ」

「伯父上……」

「名を捨て、国を捨て、仇を討とうとでも思ったか?」

「……」


「そなたは聡い。己の存在を消すことで、あれ以上の事態の悪化を防ごうとでも思ったのであろう」

「……」

「殿も、それをよくお分かりだ。安心するがいい。国許にはまだ、お前の帰る場所はある」


「……姉は。姉は息災ですか?」


「それも安心するがいい。殿が厳重に匿われ、無事臨月を迎えられた」


「そう、ですか……」


 ほっと息をついた新之助に、近藤が目を細めた。


「直隆よ。そなたにはまだ、殿への忠義の心があるか?」


「それは……もちろん。私が今あるのは、全て殿がいてくださったからこそ」


「ならば、その忠義。今一度見せてみよ」


「……私に、何をしろと」


 すると、近藤は新之助にさらに顔を寄せ、耳元で囁いた。


「さる屋敷の内偵を」

「内偵?」


「左様。この度の一連の件、幸いにもまだお上には届いておらぬ。だが、お上のご不興を蒙れば、お家の一大事をも招きかねん。老中がこの事を知る前に、そなたにある事を突き止めてほしい」

「……」

「江戸留守居の佐伯永正さえきながまさ。かの者の動きが怪しいと、先程の影が報告して参ったのだ……」


「あの方は、『影』と申されるのですか?」


「ん?やはり、そなたは聡いのう。あの者が普通の者ではないと気付いたか」


「ええ、気配がありませんでしたし」


 剣の腕には自信のある新之助だったから、あそこまで気配を消してしまうのに、どれだけの鍛錬を要するか知っているつもりだった。


「ふむ。なるほど……。あれはな、直隆。殿よりお預かりした、お庭番じゃ」


「え?では、忍びの者ですか」


 軽く頷いて、近藤は新之助から身を離した。


「そなたには、あの者と連絡を取りながら、もっと内部に入り込んでもらいたいのだ。影ですら入れぬ、真相の只中に……」


 新之助の胸の中には、さまざまな感情が渦巻いていた。


 一度は世を捨てようと思った身の上だ。

 それを今また、目の前の男が引き摺り上げようとしている。


 何故、こうも早く居場所が知れたのか。

 佐伯という者は本当にこの件の黒幕なのか。

 もしや、あの事件にこの伯父も一枚絡んでいるのではないか。


 疑念が疑念を呼び、新之助の判断力を鈍らせる。


 新之助は母の兄であり、藩の重役に身を置く、この伯父を尊敬していた。この人のように主君に仕えたいと日々研鑽に励んでいた。


 藩内で力ある伯父が、どうして父母の殺害を止めることが出来なかったのか。

 それが、新之助の疑念の発端であろう。


「直隆よ。そなたの両親の事はまさに突然の事であり、わしも止めようがなかったのだ。すまぬ」


 分かっている。

 稲垣家の名を残し、姉の身を守ってくれただけでも、伯父には感謝しなければならないのだ。


(俺は冷静にならないとな)


 そう思い、新之助は飲めない酒を一気に飲み干すと、畳に手をついた。


「伯父上。いえ、近藤さま。この風間新之助になんなりとお申し付けください」


「ふむ。良かろう。そなたには佐伯の屋敷に用心棒として潜入してもらいたい」


「用心棒?」


「ここに来て、佐伯が用心棒を募集し始めた。腕の立つそなたには、打ってつけの役であろう?真っ向から奴の懐に入り込み、奴の真相を暴くのだ。両親の仇を取る為に」


「は……」


 平伏しながら、新之助は思う。


(恐らく、近藤さまはもっと多くの事をご存じだ)


 けれど、それをここで問い質しても答えは帰って来ないだろう。


(俺が突き止めればいいだけの事だ)


 新之助の腹は決まった。


 両親の無念を晴らすために。

 姉が心置きなく殿の子を育てられるように。




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