【二の殿方】播磨国某藩上屋敷
桜の舞い散る中、私は恋に落ちた
打掛けの袖が、蝶々のようにひらひらと舞って
あなたは通り過ぎて行った
私がいたことにすら
あなたは気付いていないだろうけど
ただ一目あなたに会えるなら
私はすべてを捨ててもかまわない
播磨国某藩の藩主 赤松和成は参勤交代で江戸に来ていた。
日本中の藩が財政逼迫に喘いでいる中、彼の藩では、彼が藩主となった時からその手腕によって持ち直し始め、他藩から視察が訪れるほどの、立ち直りぶりだった。そのことは今や他の藩主はもちろん、将軍の知るところとなっている。
二十歳を三つほど越えた彼は、いまだ正室を迎えておらず、優秀な彼は年頃の姫を持つ藩主たちの注目を浴びていた。あわよくば、自分の藩も立て直してもらいたいという気持ちもあるのかもしれない。
しかし、彼は堅物だった。評判など我関せずという趣で、いつも飄々として捉えどころがない。浮いた話など皆無で、表立って、当分妻は娶らないと公言しているくらいだった。
当然、藩主たちは、あの手この手で彼の気を引こうとした。けれど、努力はいつも水の泡。彼からの丁重な断りの文ばかりが返って来る。
赤松和成とは、そういう人物だった。
「それで、せっかく立て直した財政が、今度のことで傾また傾きそうなんだな?」
上屋敷の一室で、彼は御納戸の白石と話していた。
「は。なんと言っても、上さまをはじめ、御台さま、西の丸さま、側妾の方々、そして、そのお子と、総出の行啓でありますから、接待費は莫大なものとなりまして」
何とも頭の痛い話だった。しかし、将軍自ら出してきた話だったから断ることは出来ない。
その話とは。
この上屋敷にある、桜並木の見物だった。
この桜並木は、上屋敷が造られた当初に、初代の藩主が植えたもので、毎年見事な花をつけることで評判だった。
その花見をしたいと、将軍が迷惑にも思い立ってくれたから、大変だ。
それで、先程のような会話になる。
(今回の参勤交代でも何かと物入りだったというのに、まったく気の利かない)
というのが、和成の心境だった。
白石の書いた目録を見ながら、和成は深い溜め息をついた。
それでも、とにかくやらない訳にはいかない。
満開に近くなっている桜。
花の宴は、もう数日後に迫っていた。
朝早くから、人々が忙しなく出入りしていた。
この日のために能舞台まで設営され準備は万端だった。
桜は思ったよりも早くに満開を向かえ、今はもう散り初めになってしまっている。
和成はその桜並木に立ち、ちらちらと舞い落ちる様を眺めていた。
(これはこれで、趣がある……)
彼は散る花が好きだった。
もう少しすると、江戸に滞在中の他藩の藩主たちがやってくる。それがそろった頃合に、将軍のご一行が到着するだろう。
名誉なことかもしれないが、気の重い一日になるのは、まず間違いなかった。
(桜よ。今日一日事無く終わるよう、見守っていてくれ。)
そう祈りながら、和成は藩主たちを出迎えるべく並木をあとにした。
「上さまご到着!」
家臣が高らかに告げると、居並ぶ藩主たちが一斉に平伏した。
勢いのよい足取りで、上さまが入って来た。続いて御台所、世継ぎの君、そして側室とその子ら。
能舞台が一番よく見える位置に、上さまが胡坐を組んで座ると、和成はその隣に進み出た。
「まずは、一献お召し上がり頂きながら、能をご覧頂きたいと思います。」
「うむ。」
上さまは、能好きで有名だった。
静かな酒宴の場に鼓の音が響き、能が始まった。
上さまは上機嫌な様子で、盃を傾けている。
御台所やお歴々も、それぞれにお楽しみの様子。
(このまま、無事に終わりそうだな)
と、和成が思った時だった。
上さまに、「赤松よ」と呼ばれた。
「は」
重々しい声に背筋が伸びる。
「そなた、いまだ正室を迎えてないと聞く」
「…………は」
その話かと、嫌な予感しかしなかった。
「何故だ?」
「……若輩の私には、まだ早いことかと」
皆が、この会話に聞き耳を立てている。
そう感じた。
「見事に藩を立て直した敏腕藩主が、若輩とは誰も思うまいて。のう」
と、上さまは御台所に同意を求めた。
御台所も微笑みながら静かに頷く。
「今日はのう。赤松よ」
「は」
「そなたの縁談を用意してきたのだ」
一気にその場が色めきたった。
もう能など、誰も見ていなかった。
感情をめったに表に出すことのない和成が、目を見開いて固まってしまった。
「その相手をここで言うのは控えるが、後程改めて話をいたそう」
そして上さまは、満足そうに酒を含んだ。
引く手あまたの和成に、唾を付けておくためなのか。
(公衆の面前で、よくも言って下された。上さま)
直々のお声がかりの縁談となれば、もう誰も彼を婿になどとは思わないだろう。
今日の行啓の目的はこれだったのかとさえ思えてくる。
ようやく思考の戻った和成は、歯噛みしたい思いでこう言った。
「ありがたき、幸せにございます……」
それでも、桜を見るために来たのだからと、上さまを始めとする、皆が庭に下りたのは、先ほどの爆弾発言の興奮冷めやらぬ頃だった。
上さまが御台所としばらく二人になりたいと行ってしまったから、しばらく接待はお役御免のようだった。
他の藩主からしつこく揶揄されるのもうんざりだったから、和成は一人列から外れて、ほろほろと所在なげに歩いていた。
はらはらと、はなびらが散る。
見上げれば、桜色に染まった枝の間に、かすかに青空が見える。
和成は目を細めて、舞い落ちる、はなびらを手のひらに受け止めた。
その時だった。
目の前のつづじの植え込みから、何かが飛び出してきた。
今受け止めたはなびらを、ぎゅっと握り締め身構えた。
若い女の声が響いた。
「姫さま。あまり走られては、危のうございます!」
そして、目に飛び込んできたのは、桜よりも鮮やかな赤。
袖を振りながら、はしゃぐ少女。追いかけっこでもするように走っている。
満面の笑顔は、はなびらの中で美しく輝いていた。
立ちすくむ彼の側を、少女は走り過ぎて行った。彼女の心には、彼の面影さえ残らなかっただろうけど。
あとを追う腰元が会釈して通り過ぎた。それに応える余裕さえ、今の彼にはない。
「姫さまあ!」と呼ぶ声が、空に溶けていった。
しばらくして和成は、彼女らが走り去ったほうを向いた。
そこにはもう誰の姿もなく、夢のような甘い思いだけが残されていた。
あの少女が誰なのか、彼には分かっていた。
それは、先の見えない夢。
そうだと分かっているけれど。
想いは止められない。
これが、堅物と言われる彼の初恋だった。