(4)幽霊騒動 ③
明くる朝。
昨夜の疲労もあってかよく眠っているゆらを残し、あやめが縁に出ると、ちょうど宗明が庭に下りたところだった。
「ご苦労さまでございました」
縁に手をついて言えば、「今夜もまた来ます」と言って去ろうとする。
そんな宗明をあやめは呼び止めた。
「清水さま。昨夜は不覚にも意識を失い、お役に立てず申し訳ありませんでした」
「いえ。皆、怪我がなく良かった。姫さまにも……。この一件は私から上に報告しておきますので。では」
「あの。清水さま」
「……」
「いえ。これは、わたくしの申し上げることではありませんでした。今宵も、お待ちしております」
宗明は頷くと踵を返した。
あやめが何を言いたかったのか、彼には分かっていたけれど。
互いに、それ以上言葉を続けることは出来なかった。
小柴垣の向こうに消えた宗明を見送り、立ち上がったあやめを、ゆらが呼んでいる。
「はい。こちらに」
あやめは何も知らない姫に、暗い顔だけは見せまいと気を引き締めた。
「清水さまに宿直して頂いて、本当にようございました」
朝餉を頂くゆらにあやめが言った。
「わたくしは肝心な所で役に立たなくて……」
恐縮するあやめに、うらは笑顔を向け、「もう終わったことだしいいじゃん。おかわり!」と茶碗を差し出した。
「まあ。いつもは食が細くてらっしゃるのに、今朝は良くお召し上がりになりますこと」
嬉しそうに言って、いそいそと二杯目を注いだ。
「うん。やっぱり食べておかないとさ、いざという時力が入んないんだよね」
「その通りでございますわ。姫さま。さあ、たんと召し上がれ」
ゆらはその朝三杯の飯を平らげ、仕上げに団子の串を三本。深夜の出来事による恐怖心を物ともせず、ただひたすら自身の体力向上を信じて腹の中に収めたのだった。
宗明はゆらの部屋から出ると、そのまま西の丸へと向かっていた。
こちらに住む若君政光も、このところ表情が沈みがちだったから、そのご機嫌伺いという訳だ。
(あちらもこちらも憂いごとばかりだ)
何となく恨み節になってしまうのは、昨夜の出来事のせいだろうか。
(あれは、幽霊などと言うような生ぬるいものではなかった)
もっと禍々しい、負を背負うモノ。
古来より人の闇に巣食うと言われる、“妖”アヤカシと呼ばれるものではないのか。
(それが、ゆらさまを……?)
考えたくもない事を考えているうちに、いつの間にか政光の居室の前に着いていた。
「お前。寝てないな」
はっとして声のした方を向けば、脇息に凭れながら書物を手にしている若君が憮然としてこちらを見ていた。
「おはようございます」
頭を下げ、敷居際に腰を下ろす。
政光とゆらは良く似た兄妹だった。
母は異なるから顔の造作はまあ血の繋がりがあるのかなあと思う程度だが、性格は本当に良く似ていた。
どちらも自由を好み、その割にはとても周囲に気を遣う。政光の方が世継ぎという立場である分、自由な面は抑え気味ではあったけれど。
「また書類の見直しなどという無駄な事をしていたのか?」
「いえ。ゆらさまのお部屋で宿直を」
「ゆらの?」
政光の眉がピクリと動いた。
「何故、お前が?」
それはお前の役目の範疇(範疇)だったか?
「少々憂慮すべき事態が起こりまして」
「何だ?」
「その、ご報告も兼ねて参りました。昨夜、ゆらさまのご寝所に物の怪が現れまして成敗した由にございます」
「物の怪……だと?」
政光は何とも言えない表情で幼馴染を見返した。
この男が近くに侍るようになって十数年。こんなに現実味のないことを話した事は一度としてない。
むしろ物の怪など信じていない筈だった。
「ご安心を。妄想ではございません。一昨日の夜初めてご寝所に幽霊が出たと申され、怯えたご様子でいらっしゃいましたので、それでは一応見張り番をと宿直した次第なのです。私も半信半疑ではありましたが、丑三つ時、ゆらさまの枕元に現れ出で、恐れながらご寝所に失礼し切り払いました」
淡々とした口調の宗明は嘘を話しているようでもない。
(いや。そもそも嘘などつく男ではないな)
ならば、本当に物の怪などと言うものが、ゆらの前に現れたのか?
政光は神妙な面持ちになって宗明を見た。
「切り払った、という事は、ソレはもうゆらの前には出てこないんだな?」
「分かりません」
宗明はそう即答した。
「今夜も、いえ当分の間お側に侍り、お守りしたいと思っております」
「……お前がいれば安心だ」
「は……。お輿入れを控えておられる大切なお身体ですしね」
その言葉に政光は小さく目を見張った。
「おま……それを言うなよ……」
「しかし、実際そうですし」
「だから、自分で自分の傷を抉るようなこと言うなって言ってんだよ」
宗明は小さく笑んだ。
己が傷付くことなど、元より覚悟の上だ。
「お輿入れなさるその日まで、全身全霊をかけてお守りする。それが私の役目です。若」
晴れ晴れとした顔だった。
心にどれだけ傷が付こうとも、彼は姫の側にあり、彼女を守り続ける。
彼女が他の男に嫁ぐ、その日まで。
(俺は、いつになっても、その境地に達することは出来んな)
政光は嘆息し、続いて最近起こった事案を報告する宗明を力なく見返していた。
出来ることなら、自分がゆらの元に馳せ参じ、彼女を守ってやりたい。
だが、それは無理なこと。
政光は兄であり、世継ぎの君。母違いとはいえ妹であるゆらの側にいるには彼の立場は重すぎる。
ならば、せめて信頼する宗明に……。
それは、己の暴走しそうな心を宥める為に、何度も何度も自身に言い聞かせて来た事だった。
彼の抱える闇に差す、一条の光たる異母妹を案じながら……。
その後ゆらの寝所に物の怪が現れることはなく、連夜宿直していた宗明も、ようやくひと月目にしてその役を辞した。
季節は梅雨を迎えようとしていた。
あの物の怪は何だったのか。
答えを出せるものは幕府の中にはおらず、うやむやなまま時ばかりが過ぎ去って行った。
「京に尋ねてみよう」
そう言い出したのは政光。
知り合いの公家に、高名な陰陽師と懇意にしている者がいるという。
「この時代に陰陽師ですか?」
宗明は現実的でない、不可思議な事はあまり信じない性質らしい。
「こうして手をこまぬいてばかりいて、ゆらにもしものことがあれば遅かろう」
政光のその一言で、京に向けて使いが出されることになった。
世継ぎの君の親書を受け取った際、件の陰陽師はこう言ったという。
「やっと、この時が来ましたねえ」
と。
時を同じくして。
一人の娘が行方知れずとなった。
それは、ゆらが姉とも慕う、深川剣術指南道場の主の愛娘 おしず。
今しも雨を落としそうな、どんよりとした曇天の日。
屋敷内から忽然と姿を消したという。
次回から、第二章開始です。