(2)ゆら姫 十七歳 ④
陰鬱な気持ちのゆらに対し、街はいつものように活気に満ち賑やかだった。その賑やかさの中にいると、自然と顔が綻び気持ちも晴れやかになってくる。
城の中で感じる孤独は、ここにはない。誰もゆらを知らないから。彼女が姫だと知らないから。だからこそ、ここでは本来の自分でいられる。
それでも、足は勝手知った剣術指南道場へと向かって行った。結局彼女には他に行くべきところがなかったのだ。
(でも、いい)と、ゆらは思った。
柳生家の人たちは、水戸にいた時のような安らぎをくれるから。
二年前に道場を訪れてから、ゆら自身師範代に剣術を習っていて、三日と空けず通い詰め、今では道場に来る子供たちの大将のようになっていた。
二年前のあの一件から何故か親しくなった玄さんの屋台で団子と饅頭を買ったあと、母屋の方におとないを入れた。
「まあ、ゆらさま。お久しぶり。珍しく振袖でおいでになったのね」
おしずに言われて初めて、自分がどんな格好をしているか気が付いた。
「あ、慌ててたから……」
本当は頭に血が上っていて自分の格好まで気が回らなかったからだが、おしずは深く追求しなかった。
「たまには、ゆらさまのそのようなお姿も良いものですわ。とても可愛らしいもの」
と、満面の笑みで言っただけだった。
今では姉のように慕うおしずだった。そのおしずに可愛らしいと言われ、悪い気はしないもののやはり気になる。
「なら、わたしの稽古着を貸してあげましょうか」
その申し出を受け、おしずの部屋を借りて袷と袴に着替えた。
「うん。やっぱり、こっちのほうがしっくり来る」
すっと身が引き締まり、さっきまでの憤りも、この姿になった途端に取るに足らないものに思えるから不思議だった。
さあ部屋を出ようと障子に手を掛けた所で、何か違和感のようなものを感じて振り向いた。
(あれ、この感じ……)
すっかり忘れていたけれど、この道場に来始めてからしばらく感じていた違和感。それを久々に感じ、ゆらは部屋の中を見渡した。
天井の一角が暗く澱んでいるような……。
もっとよく見ようと近付いてみる。
「ゆらさま?」
その時、おしずが迎えにやって来た。
「お着替え出来ました?」
「あ、は、はい」
もう一度天井を見てみたが、やはりそこにはゆらゆらと黒い靄のようなものがある。ゆらはぶるっと身震いして、この事を柳生やおしずに言うべきか考えた。けれど囲炉裏の煤であるとか、何かの煙がここに溜まっているのかも知れないと思い当たり、もう少し様子を見てみようと廊下に出た。
歩き出してすぐ、「今日から新しい先生が来られているのよ」と言いながら、おしずが嬉しそうに振り返った。
「新しい先生?」
「ええ、そうなの。お父さまったら一目で気に入ったみたいで、すぐに採用しちゃったのよ」
「へえ」
お師匠が気に入ったと言うなら、いい人なのだろう。ゆらは少なからずその人に興味を覚え、道場へ向かう足を速めた。
道場からは子供たちの賑やかな声がしていた。
一歩入っただけで耳を覆いたくなるほどの喧騒で、その中にあって、床の間の前でにこにこと楽しげにしている柳生と、相変わらずの渋い顔の師範代は対照的だった。
彼らの視線の先には輪になって飛び跳ねる子供たちと、総髪を一つに束ねた浪人者が竹刀を手に立っている。
「いい男でしょう?」
おしずがそっと耳打ちしたのに、ゆらはぎょっとして、
「おしずさん、師範代は?」
「あら、それとこれとは別よ。いい男は目の保養でしょ?」
言って、くすっと笑ったおしずに、ゆらは微妙な表情をして視線を浪人者に戻した。
確かに彼は整った顔立ちの中に、どこか憂いを含んだ色気があり、痩身ながら程よく鍛えてある身体には隙がない。背は宗明や師範代とそう変わらないだろう。
道を歩いているだけで女性の目を奪いそうな男だ。
ゆらとて例外ではなく、彼を見ているだけで顔が火照ってくるようだった。
「わ、わたし、ちょっと顔洗ってきます」
「え。ゆらさま?」
水で冷やすかしないと、この火照りはどうにもならないと、ゆらは道場のすぐ裏手にある井戸へ出て行った。
ばしゃばしゃ顔を洗うと、ゆらは脇に置いた手拭いを取ろうと手を伸ばした。
「どうぞ」
「ありがとう」
(ん!?)
手拭いを顔に当てた所で、ゆらは動きを止めた。
誰が手拭いを渡してくれた?
恐る恐る顔を上げたゆらは、そこに立つ人物を見て身を翻した。
「お待ちなさい」
「引き留めるのに襟首を掴むなんて、ひどすぎる!」と抗議の声を上げたかったけれど、火に油を注ぐだけだとさすがに今までの経験から学習している。ゆらは大人しく、首元を掴まれた猫のように抵抗をやめた。
「まったく。出掛けるなら出掛けると、何故一言言って行かないんです?」
「だって!」
「……」
「だって、御台さまが縁談の話なんてするんだもん」
「……縁談?」
襟首を掴む宗明の力が緩んだ。
「縁談て、誰の?」
「わたしのだよ!」
不満そうに声を荒げるゆらに、宗明は混乱する頭を何とか叱咤して言葉を紡いだ。
「ならば、なおさらお城を抜け出すなんてだめでしょう?戻って、ちゃんと御台さまのお話をお聞きなさい」
「何で?宗明はわたしの味方じゃないの?」
「勿論そうです。けれど逃げてばかりでは何にもならないでしょう?」
「縁談なんて、話を聞くのも嫌だもん」
小さく息をついた宗明の胸にも鈍い痛みが走る。
来るべき時が来てしまったという思いが、冷静さを保とうと努力する気持ちを苛んでいく。
この少女が、いつか相応の男の元へ嫁いでいくことは分かっていた。
けれど、それは今でなくていい。
もう少し。もっと長く。彼女の側で、彼女の事を見ていたかった。
「なら、少し体を動かして帰りましょう。竹刀を振れば、少し気分も落ち着かれましょう」
いつもなら決して自分からは勧めない事を言って、宗明は先に立って道場へと向かった。
「いいの?」
「私がお側にいる間は、ゆらさまのお好きになさっていいのですよ」
(御台さまがお聞きになったら、清水は甘すぎるとお叱りを受けるだろうか)
ちらっと思ったが、今はこの世間知らずな姫の気持ちを落ち着かせることが先決だ。
そう思い、宗明はゆらに手を差し出した。
「さあ。ゆらさま」
「うん……」
重ねられた手は、少し冷たい。そして、思っていたよりも随分小さかった。
(この方はまだあの時のまま、無垢で、幼い……)
無邪気なままで成長した彼女に、縁談など重過ぎる話だろう。
縁談とは何なのか。男女の間の事さえ、彼女には理解出来ないのではないか。
(私がこの方の相手として相応しければ……)
ふと思ってしまい、考えても仕方のないことだとかぶりを振った。
「三郎太」
「はい?」
「何処か、誰もわたしを知らない所に行けたらいいのにね」
「……」
二人はどちらからともなく、互いの手を握る手に力を込めた。
お互いを必要としていながら、心は違う方を向いているような覚束なさを感じながら。