(2)ゆら姫 十七歳 ③
生け垣を飛び出た途端、ゆらは人に激突しそうになった。咄嗟に避けたから大丈夫だったけれど、あのままぶつかっていたら、また宗明の拳骨を貰うところだった。
桜並木を抜けた所で、ゆらは走るのをやめ、庭の真ん中にある池の周りを歩いていた。
(それにしても、かっこいい人だったな……)
ふふっと一人照れたように笑って、ゆらは先程の事を思い返した。
(雰囲気は少し兄さまに似ていたような。でも、見た目はどっちかと言うと、宗明?)
思い起こせば、ゆらが知る異性はそう多くない。同年代の、と限定すればなおさらだった。
その中にあって、桜並木の人は血縁でもなく幼馴染でもない初対面の異性。いくらゆらが初心だと言っても、十七のお年頃。見目良い殿方が現れれば、自然と心が浮き立つのは仕方ない事だった。
(名は何と言われるのかしら。ここにいるという事は、何処かの藩の藩主よね)
宴席ではご馳走に集中していたゆらは、彼が誰か知らなかった。
(三郎太に聞けば分かるかしら)と思った矢先、池を一周したところで壮年の男性と談笑する宗明がいた。
「三郎太~!」と呼べば、ぎょっとした顔をして、男性に会釈した後小走りでゆらの元にやって来た。
「どうかされましたか?あやめどのは?一緒ではないのですか?」
相変わらずの苦労性である。
ゆらは質問攻めの宗明にうんざりした顔をして、「そんなことより」と宗明の言葉を遮った。
「そんなことって、大事な事でしょう?」
「ちょっと走りたくなって走ってただけもん。それより、わたし、すっごくかっこいい人に会っちゃったの」
宗明は彼女のどの言葉に反応すればいいのか分からなかった。どれも彼にとっては不本意な物であったからだ。
「えっと、どんな人かと言うとね。あ、あそこにいる人、そうじゃないかな~」
ゆらが指さす方を見れば、それは紛れもなくこの藩邸の主だった。
言葉をなくす宗明を余所に、ゆらはその人のもとに行こうとしている。そんなゆらの肩を、宗明はがしっと掴んだ。
「ゆらさま。あちらにたくさん団子がありましたよ。そうです。ゆらさまと言えば団子でしょう?さあ、参りましょう」
宗明にしては珍しい早口で促せば、ゆらはすぐにその気になり、「早く教えてよう」と言いながら団子が置いてある茶席の方に足を向けた。
宗明は小さく息をついた。ゆらの口から異性を褒める言葉が出たことに、おかしいくらいに動揺している自分がいる。
今はまだ団子の方に重きを置いている彼女だったが、もしその心が特定の誰かで占められるようになったら?
(考えたくもないな……)
そんな宗明の心情などお構いなしに無心に大好きな団子を頬張るゆら。
いつになっても心穏やかには過ごせそうにないことに、宗明は深い溜め息を吐いた。
桜の花びらが舞う庭で運命の歯車が回り始めた。けれど、年の割に幼いゆら姫がその事に気付くことはなく、いつまでもこの気楽な生活が続いていくものだと心の底から信じている。そのために、宿命ともいうべき出来事をも突然起こった事のように感じ、慌てふためくことになるのだ……。
桜の宴から十日後。
ゆらは御台所に呼ばれ、御前に伺候していた。
世継ぎの政光の母である御台所は、ゆらとはなさぬ仲になるけれど、病床の芳乃に代わり何くれとなく気にかけてくれる心強い存在だった。ちなみに、先日の桜の刺繍の豪奢な打掛も御台所からの賜り物だった。
「ご機嫌いかが?ゆら姫」
「はい。すこぶる良いです」
「ほほ。そのようですね。宗明どのに、あまり世話を掛けないようにしていますか」
「はい。大丈夫です」
「そう?」
御台所はくすくすとさも可笑しそうに笑った後、「さて」と居住まいを正した。
「今日あなたを呼んだのは、とても大事なお話があるからなの」
「はあ……」
「すでに聞き及んでいるかも知れないけれど、あなたに縁談があります」
「えんだん?」
聞き慣れない言葉に、ゆらは小首を傾げた。
「そう。さる藩の大名でいらっしゃるのだけれど、あの桜の宴の折にお邪魔したでしょう?その藩主さまよ」
「……」
話が飲み込めない。何が、どうなって、そんな話になったのか。
「嫌です」
きっぱり即答したゆらに、御台所は困った顔を向けた。
「嫌と申しても、そなたはこのお話を受ける以外にないのですよ」
「い・や・で・す」
「姫。上さまが愛娘のそなたに最良のご縁談を下されたというのに、何故そのように頑ななのです?」
「だって……わたしは……」
反論するための、上手い言葉が見つからなかった。
「いい加減に我がままを控えて、お家の為になることを出来るようにならねばなりませぬ。よいですか?これはもう決まったことなのです。嫁ぐ日まで遊びを控え、姫らしゅう花嫁修業でもしなされ」
「わたしは!」
たまらず、ゆらは大声を出していた。驚いて目を見張る御台所に対し、ゆらは必死で言葉を紡ごうとした。
「わたしは……」
それでも何を言っても聞いてはもらえない気がして、ゆらはたまらず御台所の部屋を飛び出した。
「姫!!」
なさぬ仲であるからか、いざとなればそこに隔たりを感じてしまい、ゆらの中にある滾るような思いは言葉として出てこなかった。
何故姫だからといって意に染まぬところに嫁がなければならないのか。どうして誰も、ゆらの内に渦巻く孤独と寂寥感に気付いてはくれないのか。行動の裏にある本当の思いに考えを及ばせてはくれないのか。
それをその場で御台所に問うことが出来ていたなら、ゆらはこんなにも頻繁に城を抜け出すことはなかったかも知れない。母にぶつけることが出来ない分を、御台所にぶつけることが出来たなら。
しかし彼女には出来なかった。
だから逃げた。身悶えするような行き場のない思いを抱えたまま。
(誰も、分かってはくれないんだ……)
自分から歩み寄らなければ本当の気持ちなど分かっては貰えないという事には気付かないで、ゆらは誰に告げることもなく塀の破れ目へ身を投じた。