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時を超えて紡ぐ音

作者: 茉莉花蓮音

四季のなかで好きなのは初夏だ。新緑の季節でうっとうしい梅雨から解放されたこの季節は、とりわけ緑が美しい。全てを白に戻してしまう冬の景色も好きだが、北海道や東北のそれとは違う都会の冬は、美しさのかけらもなくただ灰色の空に覆われるのみだ。だから少なからず公園という場が整備された土地にあって、初夏は心を潤してくれる。制服を着て鞄を横がけにし、革靴を履いて家を出る。

学校までの道のりは愛用のウォークマンを聞きながら進むと、いつもの景色も違う気分で進むことが出来る。アイドルでも、この年代の者が好んで聴き始める洋楽でもなく、クラッシクばかりを聞いている。曲を変えようと指を伸ばした時に人差し指に痛みを感じた。先日バスケットボールの試合中に痛めた指を無意識に使用した結果だ。音楽科のピアノ科専攻の人間がバスケットボールなんかするわけがない。しかし、音楽にのみ没頭する生活から抜け出してみたいという行為の代償がこれだった。ピアノが嫌いなわけではないし、親に強制されて進んだ道でもない。漠然と抜け出してみたかったのだ。これが思春期か?と自嘲めいた思いを抱きながら、先生にこっぴどくしかられた自分を思い出し苦笑いがもれる。親はけがをした自分には何も言わなかった。ショパンの華麗なる大円舞曲が中盤に差し掛かったところで遠くから手を振る姿が見えた。同じ学校の制服にバイオリンケースを抱えて走ってくるのは亜紀人だ。

「おはよう。今朝はなんだ?ショパンって顔してるな。」

時折突拍子もないことを言うとは思っていたが、変な感が働くのもこの男の特徴だ。

「どういう顔だよ。」

「いやーなんというか説明できないなー。」

「ところでその指。大したことなかったんだろ?だいたいピアノ弾くやつが指を痛めるって前代未聞だぞ」

「うるさいな。教師と同じこと言うんじゃないよお前は。自分のほうこそどうなんだよ」

「俺はいいんだよ。蓮音とは路線が違うの。」

「何の話だよ。まったく。今度はロックか?」

「まあそんなところ」

クラッシクのジャンルに囚われたくないと、様々なジャンルに挑戦し続ける友人を、無謀というかなんというかという気持ちで見守りながら、そっと溜息をつくと、露骨に眉をしかめられた。

「亜紀人、探求はいいがしぼれないならただの遭難者だぞ。」

「うるさいな。わかってるよ。大航海時代にもがく友を見守ってくれたまえ。」

大仰なことをいう友とともに教室へと向かう。

「ところで知ってるか?」

「主語がない。何の話だがさっぱりわからないじゃないか」

「ふふふ。謎かけも理解できないのか。音楽家ともあろうものが、想像力のかけらもない」

「それで?」

「うん。合宿の話さ。」

「合宿?なんだそれ。それこそ音楽科にそぐわない話じゃないか」

「うちの学校に理事長の別荘兼研修施設があるのを知ってるだろ?」

「ああ」

「気のない返事だな。そこに行くんだと。まあ気分を変えつつ感受性を育てて、演奏に活かしていこうというコンセプトのもと」

「あーもういいよわかった」

「人の話は最後まで聞く!」

「でいつだ?来週か?」

「その通り。希望者のみって話だったが、お前は強制参加だ。」

「はあ?なんでだよ」

「これ以上何かしでかされると困るからだろ」

「今はピアノもひけねってのに?」

「まあいいじゃないの。おれも行くから、俺の素晴らしい演奏を聴きながら、その感受性とやらを養ってくれ」

「冗談じゃないよ。ロックだが、クラッシクだがわからないものを聞かされてもな」

しかしあの洋館で過ごすのは悪くない。ましてや新緑の美しいなか、本を片手に昼寝を決め込むのもいいではないか。なんだか年より臭いなと自嘲しながら、教室へはいる。

「つまらないな」

「ならつまるように生きればいい」

独り言に返事をされ思わず顔をあげると担任の橘先生がいた。

「難しいことをいいますね」

「何が難しい?そうやって世の中を皮肉ってるからつまらないんだ。なんでピアノをしてるんだ?表現できるものがあるのだからそれを使って、何かしようとは思わないのか?」

「亜紀人みたいに?」

「あれは少々迷走しているが」

「ひどいなー先生それはないよ」

すかさず文句が入る。

「すまない。すまない。お前たちは足して割ると調度いいよな。蓮音、お前の演奏に足りないのはそこなんだがな。」

深みがないだの、感情がたりないだの、技術先行だのと散々言われているのはわかっている。亜紀人じゃなくて迷走しているのはおれか・・・。

 あっという間に合宿の日になった。十日間の日程で行われる。朝学校に集合し、バスでの移動になる。隣の席は亜紀人だ。この親友は乗ったとたんに眠りこけている。まったく自由だよな。そう思って笑った時に周囲の視線を感じた。なんだ?と思うと

「まったくなんでお前がもてるんだか」

眠っていたはずのやつから言葉が聞こえる。

「は?」

「自覚がないときている。最悪だね。まあいいけどさ。おれだって負けてないぜー。孤高のバイオリンニストだからな」

「また馬鹿なこと言ってるな。」

そんな会話をしているとひそひそ声までしてくる。俺ら二人は良くも悪くも目立つらしい。もっともあまり興味をそそられないから無視しているが。

「注目、合宿する保養所につきました。各自自分の部屋を確認するように。今日は夕食まで自由時間とする。ピアノ専攻のものは部屋にピアノがあるからそれを使用するように」

ピアノが何台も置いてある時点で屋敷の大きさを物語っている。まあ合宿の参加者でピアノ専攻は5人だからそうでもないか。グランドピアノが5台あるわけでもないしな。そう思いながら外を見ると両脇を緑の森が続き、その間をひたすら進む。正面に青い屋根の白壁の屋敷が見えてきた。思わずため息が漏れる。理事長の財力には驚かされる。理事長の趣味はすごいが、センスはいいと感じながらバスを降り、あらかじめ配られていた資料に目を通す。屋敷は3階建になっており、中央に大きなホールがある。その中央から量はしに伸びるように階段があり2階へと続く。2階の廊下の両端にまた階段があり3階へと登れる仕組みになっている。1階はいわゆる共同スペースだ。屋敷のいたるところに花がかざられて、全体があたたかい雰囲気だ。屋敷の豪華さに圧倒されつつ資料に目を落とす。

俺の部屋はっと。3階の奥部屋か。まあ静かでいいが遠いな。

そう思った矢先、隣から声がする。

「部屋どこだった?俺は3階のっと。隣どうしだな。よろしく!」

運が良いのか悪いのか亜紀人と隣だ。

「せいぜい耳障りな音は出さないでくれよ」

「俺の奏でる美音に聞き惚れるがいい」

「お手並み拝見としますか」

軽口をたたきながら階段を上ると2階の中央に大きな扉があるのに気付く。

「図書室だよ」

後ろから橘先生の声がした。

「へー。随分大きいみたいですね」

「普通の本もあるがもちろん音楽関連の書も多いぞ。楽譜なんかも置いてあるそうだ。さすが理事長の図書室といったところだ。学生は滞在中自由に入っていいらしい。ただし本を汚すなよ」

亜紀人と先生の話を聞きながら窓をみると外はにわかに曇ってきていた。

「まあ荷物おいてこようぜ」

「ああ」

自室に向かう間ににわかに外は暗くなり雨が降り出していた。

「雷でもなりそうだな。散策は明日からにしよう」

「合宿に来たんだから練習しないのか?」

「お前がそれを言うのか?」

避暑目的で行くと豪語した自分の矛盾を指摘されそれもそうかと思う。

それぞれの部屋に入り荷物を置く。

部屋の中央にはグランドピアノが置いてあった。てっきりアップライト型のものがあると思っていたから意外だった。その横にソファがある。入って正面に大きな窓があり、壁側に天蓋つきのベッドがある。

なんだか豪華な部屋だな。学生の合宿にこの部屋はいささか豪華過ぎるような感じだ。

部屋の隅に本棚があり中をのぞくと楽譜らしきものが入っていた。

ピアノに向かいふたを開ける。そっと鍵盤に触れると自分好みの重さだった。

指さえ怪我してなかったらなー。

自業自得とはいえ、ピアノは嫌いではなかったから目の前にあって弾けないのは残念だ。

痛みもだいぶひいてるし弾いてみようか?

椅子に座り怪我した人差し指で鍵盤を押してみると、不思議と先ほどの重みも感じず音を出すことが出来た。なんでだ?

不思議に思い他の指で鍵盤を押すと確かに重みを感じる。疑問に思っているとノックもなくドアが開いた。

「すげー豪華なの。お?お前の部屋なんだよ。不公平にもほどがあるなー。まあいいけど」

「部屋に入る時はノックするように親にならわなかったか?」

「ふふふ。固いこと言わない。おれの部屋はこれの半分だなー。おそらくお前の部屋の続き部屋を改装したんだろうよ。」

「ピアノを入れるにはそれ相応の部屋がいるしな。バイオリン専攻だから仕方がないだろ」

「どこでも練習できるのがいいのよ」

「は?」

「だからバイオリンのよさだよ。ピアノは持ち運べないだろ」

「なんだその理由」

「まあなんでもよかったんだけどさ。音楽に携わるものなら。いつでもどこでも練習できるというのが大前提さ」

「そんなに熱心だとは知らなかったな」

「いいさ。腹へったな。食堂に行こう」

そういうとさっさと歩きだしてしまう。食事を済ませ、部屋に戻る道すがら様々な音が聞こえてくる。

隣の部屋にはお互いの音が漏れないようにはなっているが、扉から外には音漏れがする。

ピアノ、バイオリン、チェロ、フルート・・

その中を歩いていると部屋ごとに違う場面に立たされるような錯覚がする。

部屋に戻ると正面の窓から満月が見えた。

青い光が部屋に注ぎ込んでいる。

明かりをつけるのも無粋な気がして、そのままピアノの前に座る。

随分ロマンチックだと笑われそうだ。

そう思いながら鍵盤に手を置く。

痛めた人差し指で音をはじくとやはり痛みはなかった。

奇妙な感覚になったが、せっかくの月明かりのなか、久しぶりに曲を奏でたい欲求にかられた。

月明かりにはまさにノクターンだ。鍵盤に手を置くとショパンのノクターン嬰八短調遺作を奏でる。

どこか物悲しく、泣きたいような気分にさせる旋律に感情移入していく。

最後の音の余韻に浸りつつ手を戻すと、入口から拍手が聞こえる。

驚いてみると、亜紀人と担任の橘先生、そして数名の学生が立っている。

「なんだ?どうなってるんだ?」

「お前の部屋から音が聞こえたから、部屋に来たんだよ。そしたら音が廊下にもれるだろ?そしたらこの状況さ。」

「は?勝手にあけるなよ」

「邪魔したくないだろ」

「ふん」

「まあまあいいじゃないの。」

「蓮音、指はいいのか?」

そう聞いてきたのは橘先生だ。

「はい。大丈夫なようです。」

このピアノだけという言葉は、非現実的であるため飲み込んだ。

「しばらく弾いてなかったわりに良い音だったな。黒王子は健在らしい」

「は?」

「お前が暗めの曲しか弾かない美青年という意味で、学園中がそう呼んでいる。知らないのは本人だけだな」

「なんだってそんな変な名前、やめてくださいよ」

「しゃーないな。言わせておけばいいじゃんか。さあみんな王子が怒る前に部屋に帰ったほうがいいぞー」

俺が不機嫌な様子をみて皆部屋に戻っていく。

「ひとがいい気分に浸ってたっていうのに台無しだ」

「まあまあ」

「お前も部屋に帰れ!俺は寝る!」

「あー怒った怒った。もう怒りん坊だな」

「うるさい」

亜紀人は逃げるように部屋に戻っていく。

「いい演奏だったよ。ゆっくり休め」

そう言うと先生も戻って行った

翌日、朝食を終えると図書館に向かった。

部屋に入ると、古い書物から漂う独特の香りがした。

棚ごとにジャンル分けされていらしく、手前は小説、歴史書、法律書の類で、一番奥に音楽書のコーナーがある。

最近の装丁のものから、年代を感じさせるものまで並んでいる。

ふと見ると背表紙に遺作とのみ書かれた楽譜があった。

なんだ?作曲家の名前もないな。

手に取ると存外に薄い本だった。

1曲のみか?いったい誰の作品なんだ?

開いてみるが、作曲家名の記載はなく、頭の中で音符を奏でてみるが聞いたこともない。

名声を得られずに作品のみ残したのか?

なぜか魅かれるものを感じてその楽譜を手に図書館をでた。

部屋に戻ると楽譜を開きピアノの譜面台に置く。

音楽科の学生ならば初見で曲が弾ける。そのための練習もしており蓮音は優秀と呼ばれる生徒だから、当然初見も得意だった。

長調からはじまりテンポはアンダンテ。

左手が旋律をかなで、右手はそれにこたえるように和音を響かせる。その後短調に曲調を変える。それからやや明るい曲調に変化し、再び元の旋律に戻る。どこか物悲しいが美しい響きだ。しかし曲の終盤で音符が途切れている。

完成させる前に作曲家が亡くなってしまったのだろうか。そういうことはままあるが、作曲家のイメージを大事に、曲が足されて完成させて発表することが多い。しかし、この曲は本当に未完成なのだ。

「未完成なのに本にしたのか?曲調はとてもいいから、気に入った誰かが残してくれたのかな」

独り言をつぶやくと

「確かにいい曲だな。初めて聞いたけど」

独り言に返事されてあたりをみると亜紀人がいた。

「また勝手にはいったな」

「いいじゃないの。しかし不思議な気持ちになる曲だな。どこで見つけた?」

「図書館だよ」

「ふーん。お前の好きそうな曲だもんな」

「お前はふらふらとしてていいのか?」

「俺がただふらふらしていると思ったら大間違いだ。インスピレーションが降ってくるのを待ってるのさ」

「減らず口ばかりだな」

何か思いついたと亜紀人は部屋に戻り、再び一人になった部屋で楽譜を見る。何か心にひっかかるような感じがした。

その夜ベッドに入ると疲れからかすぐに眠りについた。

夢の中であの曲が聞こえる。

弾いているのは俺か?

視線を上げると屋敷の自分が泊まっている部屋だとわかる。

人の気配を感じて視線を動かすと、窓辺で二人の男女が向かい合っていた。

二人は俺にはきづいていないのか、視線を向けてこない。

よく見ると女の人は泣いていた。

その横顔は美しく、頬を伝うしずくが痛ましかった。

男のほうは慈しむような笑顔を向け、何か話している。そしてしずくに手を伸ばしてそっと拭う。

それからおもむろに女の人を抱きしめ、一瞬苦しげな表情をしたあと手を離す。

満面の笑顔で何言か話した後、部屋を出て行ってしまった。

女の人はその場で泣き崩れた。

俺は声をかけようと側に行こうとするが、足が動かない。声を発しようとしたが不思議と声もでない。もどかしさにイライラしながら手を伸ばしたところで目が覚めた。

なんだったんだ?

部屋を見回すと夢でみた光景がよみがえるようで軽いめまいを覚えた。

はっきりしない頭のまま朝食のため部屋を出る。するとすぐに亜紀人の姿を見つけた。

「おはよう、よく眠れたか?」

「まあな」

「うそばっかり。そんな疲れた顔したやつが」

「は?あんまり夢見がよくなかったんだよ」

「俺はすこぶる快調だ。なあお前が昨日弾いていた曲、あれなんて曲なんだ?」

「ん?あれか。遺作だよ。題名はない。」

「題名がない?作曲家は?」

「全て不明だよ。おまけに未完成だ」

「ふーん。なんだか引き込まれるような曲だよな」

「隣の部屋まで聞こえていたのか?」

「うん。まあな」

「先生に聞いてみようとおもってさ」

「そうか俺も行こう」

亜紀人の部屋をでてホールに向かうと、中央のソファに橘先生の姿をみかける。

「なんだ?二人とも。練習してるか?」

「ばっちりですよ」

「ああそう。それで?何か聞きたそうだな」

「はい。昨日図書館でこれを見つけたんですが、先生はこの曲について何か知りませんか?作曲家さえわからない未完成の曲なんですが」

「どれ。うーんわからないな。初めてみたよ」

「そうですか」

何もヒントを得られず溜息がでる。

「そんなに気になるのか?そんなに執着するのはめずらしいな。全てに淡白だったお前が」

「なぜかひっかかるんですよね。うまく言えないけど。」

「ふーん。なら理事長に聞いてみるか?先ほど到着されたようだしな」

「え?本当ですか?」

「ああいいよ。取り次いでやろう」

「ありがとうございます」

あまりに俺が食いつくものだから、亜紀人でさえ驚いた顔をしている。

何かしなければならない気がするんだ。夕べの夢といい、何かが俺を引きずりこんでいる。

あの二人は誰なんだ?

理事長の部屋の前にきて先生が叩扉するとすぐに返事があった。

理事長は40代の品の良い婦人だ。常に優しげな笑顔を向けてくれる。

担任に伴われて部屋に入る。

緑を基調としたその部屋は、見ているだけで癒される。

「こんにちは。わが校の優秀な学生さん。合宿は有意義に過ごせているかしら?」

「はい。ありがとうございます」

「何か私に御用?」

「はい。図書館を見せていただいたのですが、その折にこの楽譜を見つけまして。遺作とのみかかれており、他は何もわからないのです。作品も未完成で終わっております。何かこれについてご存知ないかと思いまして。」

「これは。そう。あなたが見つけてくれたの」

「は?」

「血がそうさせるのかしらね」

「どういうことですか?」

話が長くなるからとソファをすすめられる。

「どこから話そうかしら。あなたは蓮音さん。名字は九条さんね。」

「はい。そうです」

「あなたのおじい様にはね。弟さんがいらしたの。知ってらして?」

「はい。知っています」

「その方の名前は蓮さんというのよ」

「蓮?」

「あなたの名前の蓮の字でね」

「それは知りませんでした」

「蓮さんはあなた同様とても綺麗な顔立ちをしていて、女性に人気があったそうよ」

自分のことをさりげなく褒められて赤くなる

「そしてピアノがとてもお上手だったそうなの。そんな貴公子はみんなの注目の的でしょ?でも見た目だけでなくとても優しくておまけに頭もいい完璧な方だったそうよ」

「はー誰かさんは性格に問題が」

「うるさい。」

「二人とも理事長の前でやめなさい」

担任に怒られて黙り込む俺たちを笑って、理事長は話をつづける。

「私の母も周囲の女の子同様に彼に夢中になったそうよ。母は大人しくてとても側にはいけずに、影からみているのか精一杯だった。

でもある時、母にもチャンスが訪れたのよ」

「チャンス?」

「そう。母は別荘でバイオリンを弾いていたそうよ。明るい曲ではなく、切ない曲が好きだった母は感情移入して夢中で弾いていたそうなの。そしたら曲調と自分の片思いのつらさが重なり涙を流していたそうなの」

なんだかすごく不器用な人なんだなと思った。

「そしたら自分の涙を不意にハンカチで拭われたのですって。びっくりして目を上げると、そこには憧れの人が困ったように微笑んで立っていたの。母はびっくりして声もでなかったそうよ」

「なぜそこにいたのですか?」

「蓮さんの家と私の母の家は、父親同士が古くからの友人で、避暑もかねて別荘に遊びに来たところだったそうよ」

「すごい偶然だなー」

「偶然というより運命的ですね。お前はロマンチックのかけらもないな」

「すみませんね」

先生にからかわれて、亜紀人はむくれる。

「それから二人は彼が別荘に滞在中は、一緒に演奏したり、散歩をしたりして過ごしたそうよ。そして二人が恋に落ちるのに時間はかからなかった。親同志も友人であり、反対するものは何もなかったわ。彼が大学を卒業したら結婚することになっていたの。でも幸せな二人を唯一時代が阻んだのよ。」

「戦争ですか」

「ええ。残酷ね。戦争は奪うことはあっても与えるものは何もないわ。それでも行かなくてはならない。国のために皆戦争に行くのでしょうけど、本当は自分の守りたい人のために行くのよ。そうでなければ、奪われてしまうから。彼にも召集令状が届いたのよ。その日、彼は母のためにと作っていた曲を披露したわ。でも残念ながら完成させることは出来なかったの。だから必ず生きて帰って完成させる。そして結婚しようと母に誓ったわ。そして彼は行ってしまった。母はその楽譜をよすがに彼を待ち続けたわ。そして終戦となっても彼は母のもとには帰ってこなかった。遠い戦地で負傷した仲間を助けて自らも爆弾によって亡くなってしまったと。母は何日も泣いたわ。そんな時彼の遺書が届いたの。自分がもし帰れなくても、心はいつも側にいるから。強く生きて、僕らが守った国で生きてほしいって。それを見た母は生きる決意をしたそうよ」

いっきに話をすると理事長は疲れたのか、少し目を閉じた。俺は衝撃で何も言えなかった。

まさか自分とこの本が繋がっているなんて思わない。隣をみると亜紀人は目に涙をためていた。担任も伏目がちになっている。

「理事長のお母さんは結婚されて、それでこの学院を創設なさったのですか?」

「そうよ。母は、自分と彼をつないだ音楽を大事にしたかった。だから音楽の学校を作ろうと決意したの。そして彼と出会った別荘にこの本をしまったのよ。」

「え?ここがその?」

「そう。そして学生の合宿所として利用することにしたの」

「そんな経緯があったなんて」

「母はひそかに願っていたのかもしれないわね。いつか学生の中でこの楽譜を見つけ、演奏してくれる人が現れることを。そしてもしかしたら、彼の意思をついで、この曲に素敵なエピローグを作ってくれることをね。それがあなただった。不思議な力が働いてあなたを導いたのかもしれないわね。」

俺は大きく深呼吸した。そして衝撃と興奮で跳ねている自分の心臓を落ちつけようとした。

「理事長。この楽譜を預からせていただいてもいいでしょうか。けして粗略には扱いません。許可していただけるなら、完成させたいのです。それが自分のやるべきことだと思うのです。」

理事長は俺の言うことがわかっていたように、快く楽譜を預けてくれた。

理事長の部屋を出ると、俺は二人を置いて部屋に戻った。

あの夢は蓮という青年と理事長の母親に違いない。蓮は自分の意思を継ぐものとして俺を選んだのか、それはわからない。しかし、不思議な力が働いている気がした。それにのっかってみようと思った。あの話を聞いて自分しかいないと。そう蓮の音を継ぐのは俺だ。

それからの合宿期間のほとんどは、遺作の完成のために精力をそそいだ。寝食も惜しんで取り組む姿に、担任と友人はかなり驚いていたが、食事を運んでくれたりとサポートしてくれた。俺は眠る度にあの夢を見る。そして蓮の思いを受け取っていく。

合宿最終日の朝に、曲は完成した。

友人に報告すると、担任と理事長もぜひ聞かせてほしいと言ってきた。

俺は自室のピアノでしか弾けない旨説明すると、二人は部屋に来た。

「とうとう完成したのね。」

「はい。では聞いてください」

ゆっくりと鍵盤に両手を置き奏で始める。優しいがどこか悲しげな旋律が続いていく。曲の中盤ではややテンポが速くなり明るめの印象となるが、また落ち着いた曲調になる。蓮が愛する人のために作った曲。それは相手を思うが故に感じる切なさから始まり、思いが通った時の喜びに転調し、深まる愛情を波のような旋律に奏でている。そしてここまでが、彼の書いた楽譜だ。その先彼はきっと、彼女を包み込むような愛で、満たしたかったのだろう。そう思い、エピロローグは優しい旋律にのせた、そうノクターンのような響きにした。夢の中でも彼女を思っていると、心は常に側にあると言った彼の意思をのせて。

気がつくと涙があふれて止まらなかった。人前で泣いたことなど久しくないのに、ピアノを弾きながら流れる涙に心が救われていくような感じがした。

彼はここにいたんだ。そう思った。そして満足してくれたのだろうか。そうであったなら。

演奏が終わり、しばらく部屋に沈黙が流れた。「ありがとう。とても素敵だったわ。母も聞いていたと思う。そのピアノは蓮さんのものだったから」

「え?」

だから指も痛みを感じずに演奏出来たのかと納得した。

「その楽譜はあなたにさしあげるわ」

「ありがとうございます。でもやはりこれはここに置いておきます。その方がうれしいと思うから。そしてまたここに来て演奏させてもらってもいいですか?」

「もちろんよ。ぜひそうしてください。母も喜ぶはずよ。ふふふ。私の父には内緒だけどね」

やり遂げた思いで気持ちのいい倦怠感に襲われながら、俺は屋敷をあとにした。

バスの中から、遠ざかる屋敷を眺めて、あーそうかと納得する。初めから決まっていたんだな。俺が蓮音と名付けられた日から。もう少し世間に前向きに生きてみよう。蓮が守った世界で生きているのだから。そう決意し瞼を閉じると、心地よい風が髪をゆらした。まるで返事をもらったように。



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