婚約破棄を告げられた令嬢はイケオジ中将を愛してる
「セレーヌ! お前はこのマリアを不当に虐げたそうだな。そんな性根の腐った女に、次期王妃は相応しくない! この私、第一王子レオナルド・アーヴェンはセレーヌとの婚約をここで破棄する!」
会場が一瞬静まり返った。
楽団が演奏を止め、給仕たちも手に盆を持ったまま固まっている。
ざわつく貴族たちの視線は、一斉に壇上へ集中した。
宮殿で開かれている、王家主催の舞踏会。国内外の要人も数多く招かれている。
そんな中、会場の一段高い場所から声高々に宣言したのは、この国の第一王子レオナルド・アーヴェン。
見た目は金髪碧眼の正統派王子。紺色に赤い裏地のマントがついた豪華な礼服をまとっている。
その隣には、花柄のドレスを着た少女が一人、レオナルドの腕に胸を押し当てて寄り添っていた。
少女は悲しげに眉を下げながらも、周囲に聞こえる声ではっきりと言った。
「セレーヌさま……私にした嫌がらせは、今ここで謝ってくれたら許します。どうか、ご自身の罪を認めてください……!」
「マリア…君はなんで優しいんだ。聞いただろう、セレーヌ。早くマリアに謝れ!」
感極まったように少女——マリアの肩を抱いたレオナルドは、ピシリと一人の令嬢を指さした。
その指さした先にいた令嬢は。
ぱくぱくと、小皿に盛った料理を食べていた。
会場が静まり返った。今度は、違う意味で。
「おい、セレーヌ! 聞いているのか!?」
怒りで顔を赤く染めたレオナルドの怒鳴り声に、ようやく令嬢がフォークの動きを止めて、周りを見まわした。
会場中から突き刺さる視線。少し首を傾げた令嬢が、ゆっくりと顔を二人に向けた。
さらりと揺れる長い黒髪。中性的な美貌に、凪いだ表情。感情が読み取りづらい紺色の目。
年齢は二十歳前後。着ているドレスは少し明るい紺色で、銀糸の刺繍が入っている。
令嬢は凪いだ表情——鉄仮面のまま、少し考えるような仕草をして言った。
「……もしかして、それはわたしに言っているのか」
「お前以外に誰がいる!? お前は、公爵令嬢としての自覚がないのか!」
「……確かに、姉たちにはよく『公爵家としての自覚を持て』と言われるが」
淡々とした令嬢の答えに、レオナルドの顔へ苛立ちが浮かぶ。
「お前という奴は、何でそう可愛げのない態度を……」
「ねえ、レオナルドさま。そんなに怒らないであげて」
マリアが庇護欲をそそる悲しげな表情と甘い声で、寄り添っているレオナルドの袖をそっと掴んだ。
「セレーヌさまは動揺されているのですわ。婚約者のレオナルドさまから、婚約破棄を言われているんですもの」
表情ひとつ変えずに、そのやりとりを見ていた令嬢が、静かに口を開いた。
「動揺も何も」
艶めく黒髪が揺れる。
「わたしは、既婚者だが」
会場が、三度目の静まりを見せた。
「は……?」
令嬢の言葉に、レオナルドの碧眼が間抜けなほど見開かれた。口を開いて閉じてを繰り返した後、
「き、こんしゃ、だと……?」
碧眼がまじまじと令嬢を見つめ、その視線が小皿を持つ左手の薬指に留まった。
はめられているのは、シンプルだが一目で品質の良さがわかる銀の指輪。
「それは……」
唖然とするレオナルドの隣で、一瞬計算が狂ったような表情を見せたマリアが、慌ててレオナルドの袖を引いた。
「待って、レオナルドさま。あんなの偽物よ。きっとセレーヌさまは、レオナルドさまを混乱させるために……」
「マリア、今は黙ってくれ」
マリアの言葉を遮ったレオナルドが一歩前に踏み出し、強張った顔で令嬢を見つめた。
「その指輪……お前は……俺という婚約者がいながら、他の男と結婚したのか!?」
「違う」
令嬢は紺色の目でレオナルドを見据え、はっきりと言った。
「わたしは夫以外と婚約をしたことはない。人違いだ」
「そんなはずはない、お前はセレーヌだろう!」
「違う。わたしはそちらがいう『セレーヌ』ではない」
「しらばくれる気か!? 犯した罪から逃げようとしてもそうはいかんぞ!!」
令嬢は無表情のまま、手にしていた小皿を近くのテーブルに置いた。紺色の双眸がじっと王子とその恋人を見つめる。
感情が読み取れない紺色の目に、思わず気圧されそうになったレオナルドを見て、マリアが慌てて言葉を放った。
「それに! 結婚したって、あなたの夫はどこにいるの!? レオナルドさまのエスコートを受けたのはわたし。あなたはこの会場で一人でしょう!」
「隣にいるのが夫だが」
隣。
その一言で、会場全体の視線が令嬢の隣に向かった。
同時に低い男性の笑い声が、静まりかえった会場に響く。
紺色の目がすぐ左を向き、凪いだ表情がわずかに変わる。
「ダーリン、笑いすぎ」
レオナルドとマリアに向けていた淡々とした声とは違う、甘えるような響き。
「ダー……リン……?」
レオナルドが呆然と呟いているのをよそに、隣に立っていた人物はようやく笑いを収めた。
「……これは失礼、レオナルド第一王子殿下」
そこには、四十代前半程の逞しい男がいた。
銀灰色の短髪に、深い琥珀色の目。日焼けした肌と、左頬から顎にかけて走る刀傷。肌に刻まれた皺すら色気に変える精悍さと、男でも見上げるような長身、そして礼服の上からでもわかる厚い胸板。
男はわずかに口角を上げて、よく響く低い声で続けた。
「国王陛下より招待を受け、東方連合より参りました、海軍中将グレッグ・グレイハートです——私の妻が、何か?」
東方連合。
西の大陸から大海原を隔てた東にある「法と秩序の維持」を共通理念とした巨大国家連合。
十七の加盟国全てが、それぞれ独自の政府、王家、貴族制度、軍事組織を保持する一方で、連合全体を守るための統一機関も存在する。
その一つが連合直属の軍事組織、東方連合軍。
男の礼服の左胸に飾られているのは、間違いなく東方連合海軍を表す軍章だった。
グレッグ・グレイハートと名乗った男は、慣れた様子で隣に立つ令嬢の腰へ手を回すと、そのまま自分の側に引き寄せた。
その仕草と二人の間に流れる温度感は、一見親子ほどの年齢差であっても、確かに夫婦であることを示していた。
「ダーリン。あいつら、わたしが王子の婚約者だって言うんだ。わたしはダーリンの妻なのに!」
「ああ、見てた」
グレッグは抱きついてきた妻の髪をさらりと一撫でした後、琥珀色の鋭い眼光を、王子とその恋人へ向けた。
「殿下。アイラは私の妻です……どちらのご令嬢とお間違えで?」
「待て……セレーヌではなく、アイラだと!?」
「ええ。アイラ・グレイハート。私の妻であり、東方連合海軍中佐の名でもあります」
グレッグが「妻」という言葉を発した時、その低い声がさらに一音下がった。
多くの死線を超えてきた歴戦の軍人から向けられる、圧倒的な威圧。それは、レオナルドとマリアの顔色を紙のように変えていく。
レオナルドが呆然としたまま言った。
「……海軍、中佐……その女が」
「東方連合は成果主義ですから。自慢の妻です」
抱きつく妻をそのままに、グレッグは薄く笑った。
「さて……王子殿下は先ほど妻にこうおっしゃっていましたね、婚約破棄と」
「っ、……ひ、人違いなら人違いだと、なぜすぐにそれを言わなかった!?」
「言った」
夫に抱きついていた妻——アイラが温度のない紺色の目を再び王子とその恋人に向け、淡々とした声で続けた。
「わたしは『セレーヌ』ではないと言った。話を聞かなかったのはそちらだ」
口ごもったレオナルドは、冷や汗をかきながら、言い訳のように次の言葉を探す。
「こ、公爵家だとさっき……」
「実家は公爵家だな、東方連合加盟国の」
アイラの返事に人々がざわめき、レオナルドの顔からさらに血の気が引く。
東方連合加盟国の公爵令嬢。海軍中将の妻。そして、この若さで海軍中佐。
「だが、セレーヌは黒髪で…」
「この国は黒髪であれば、誰でも王子の婚約者になるのか?」
アイラの事実だけを確認する問いかけに、レオナルドは今度こそ口を閉じた。
黒髪を持つ者はこの国にも、もちろんいる。
婚約者が黒髪だからそう思い込んで名指し——別人だったわけだが、名指ししたとは口が裂けても言えるはずがなかった。
「えっと……アイラさま? ごめんなさい、わたしたち、勘違いをしていたみたいで……レオナルドさま、わたし疲れてしまったわ。別室に……」
「お嬢さん」
引き攣った声を出したマリアがレオナルドの礼服を引っぱって、その場から離れようとしたのを、グレッグの低い声が遮った。
「ここは学園の学芸会じゃないんだ。殿下も既婚者に婚約破棄とは、随分と笑えない冗談だな」
「ち、違いますわ、おじさま。これは、その……」
「ふうん」
今度は、アイラの低い声がマリアの言葉を遮る。
「こちらの国の令嬢は、他国の軍高官を『おじさん』と呼ぶのか」
「っ……!」
今度はマリアが黙った。
国王から正式に招待を受けた、東方連合の軍高官。
その相手に「おじさま」と呼びかけたことは、東方連合側から見れば、侮辱と受け取られても仕方がない。
「……お待ちください」
アイラとグレッグの背後から、強張った声が響いた。
振り向いた視線の先にいたのは、波打つ黒髪を片側に結い上げ、薄い紫色のドレスを着た一人の令嬢。
「……何者だ」
アイラから問いかけられた令嬢は、青白い顔をしながらも背筋をまっすぐに伸ばし、夫妻へ丁寧に一礼をした。
「突然のお声掛けをお許しください。セレーヌ・ハーヴィアと申します」
「セレーヌ……? あの王子の婚約者か」
「……はい」
「セレーヌ! よくもノコノコと出てきたな、お前との婚約を今から——」
「黙れ」
アイラの短く低い声が、勢いを取り戻して再び婚約破棄を告げようとしたレオナルドを遮った。
「随分と名乗り出るのが遅かったな」
「申し訳ございません……屋敷で第一王子殿下からの迎えを待っておりましたが、いらっしゃらず……先ほど実家の馬車でこちらに」
「……なるほど」
アイラは夫にしがみついていた腕を離すと、セレーヌに向き直る。
グレッグは妻と第一王子の婚約者の会話に口を挟む気はないようで、それでもアイラの腰に回した手は離さなかった。
「それで令嬢、話はどこから聞いていた」
「……第一王子殿下がグレイハート夫人に婚約破棄を告げたところから……まさか、婚約者のわたくしと、他のご夫人を間違えるとは思わず……」
「普通は間違えないな」
感情の読めない紺色の目が、ちらりと王子とその恋人へ向く。
「私は夫が婚約者だった頃も、結婚した今も、一度だって夫を誰かと間違えたことはないが」
その言葉に、静まり返っていた会場の端々から、失笑と「そうだよな」「普通は間違えないわよね」と複数の囁きが漏れた。レオナルドの顔が、今度は羞恥で赤く染まりはじめる。
「グレイハートご夫妻には大変なご迷惑をおかけしたこと、謝っても謝りきれません。ですが……どうか、これだけは知っていただきたいのです」
セレーヌは青ざめながらも真っ直ぐにアイラと、その隣に立つグレッグを見た。
「他国の軍の方を『おじさま』と呼ぶこと。これは、私を含むこの国の令嬢の『総意』ではございません」
何度目かの静まり返った会場で、紺色の目がじっとセレーヌを見ていた。
「……アイラ」
グレッグが静かに妻の名前を呼ぶ。アイラは夫を見上げて小さく息を吐くと、再び視線をセレーヌに戻した。
「では、そう認識しておこう」
「はい……感謝いたします」
一段上の壇上にいるはずのレオナルドとその恋人のマリアは、完全に場の主導権をアイラに握られていた。
アイラとセレーヌの会話に割り込もうと口を開けば、すぐにグレッグの鋭い視線が口を封じるように飛んでくる。
その眼光は、同時に会場にいる全員を一瞬で黙らせるだけの重みがあった。
「ところで、令嬢はあの王子から婚約破棄を宣言されることをした覚えはあるのか」
息を呑むような静寂が続く中、あっさりとアイラがセレーヌに尋ねた。
セレーヌは一瞬息を呑んだあと、小さく首を振る。
「いいえ……正直、驚いています。第一王子殿下とは婚約してから一年。二人きりでお話ししたことも、まだ三度しかありません」
「三回しか会ってないのに、婚約相手の性根がどうこう言えるのか。随分人を見る目があるんだな、あの王子は」
「……なん、だと」
レオナルドの反応が一拍遅れた。
アイラの口調は、皮肉なのか疑うほどに感情が感じられず、感心と取るには余りにも単調だった。
「で、王子。そちらは、何を理由に婚約者の性根を醜悪と判断したんだ?」
「アイラ」
グレッグが、今度は嗜めるようにアイラの名前を呼んだ。アイラは少し首を傾げて夫を見上げると、心底不思議そうな声で言う。
「だってダーリン。三回しか会ってないのに、『醜悪』だぞ? どこでどう醜悪だと判断したのか気になるだろ」
「……そうですわね」
アイラの言葉に、セレーヌがそっと目を伏せた。
「わたくしも知る必要がありますわ、自分のことですもの……お会いしたその三度で、殿下がわたくしのどこを醜悪だと思われたのか。殿下、どうか私のためにも、ここでお答えいただけますでしょうか」
全員の注目が、再びレオナルドとマリアに戻った。
セレーヌの静かで真っ直ぐな視線。アイラの感情を見せずに観察する視線。黙ったまま、妻の腰から手を離さないグレッグの、底冷えする鋭い視線。
そして会場中の問いかけるような視線が、レオナルドとマリアに集まる。
開口一番、自信満々にアイラへ婚約破棄を告げたはずのレオナルドは、紙のように白い顔をしたまま、口を壊れたおもちゃのように開け閉めしていた。
マリアはレオナルドから数歩離れた場所に立ち、両手を胸の前で握りしめたまま俯いている。その表情は見えない。
「……殿下。どうか、お答えいただけますでしょうか」
セレーヌがもう一度、静かに告げたその時だった。 ゆっくりと大広間の扉が開いた。
金色がかった白髪、細身だが重い足音。顔には、五十代としての歳月を重ねた皺が刻み込まれている。
その後ろには、数名の家臣を従えていた。
「……何の騒ぎだ」
国王は、静まり返った会場を一瞥したのち、声を発した。
一段高い場所に第一王子と見知らぬ若い娘。その近くには、東の大海から招待した軍高官夫妻と、国が定めた第一王子の婚約者。
そして、それを見守るように息を呑んでいる他の出席者たち。
「……レオナルド、説明を。何が起きている」
「ち、父上……これは、その」
「答えられないことが起きているのか」
白い顔をしたまま黙り込んだ息子へ、ため息を吐いた国王はグレッグへ目を向けた。
「久しいな、グレイハート」
「これは陛下。ご無沙汰しております」
グレッグの一礼を受けた後、国王はその隣に立っているアイラを一瞥した。
「三年前の海戦以来か……結婚したと聞いたが、隣にいるのがお前の妻か」
「ええ。妻のアイラです」
グレッグがアイラの腰から手を離すと、アイラはドレスの裾を摘み、美しく頭を下げた。
「この度、グレッグ・グレイハートの妻となりました、アイラと申します。国王陛下にお目にかかれたこと、光栄に思います」
「確か、グレイハートと同じ海軍に所属する中佐だったな」
「はい。思いがけず良い縁を手にすることができました」
国王は、アイラのドレスとグレッグの髪を見比べ、微かに笑う。
「紺碧に銀灰色の刺繍か……見せつけてくれる」
「この歳でやっと得た幸運ですので。虫除けはしっかりと」
アイラの肩にグレッグが手を置く様子を見た国王は、今度こそ面白そうに片眉をあげた。
「なるほど……夫人、年若いがよく似合っている」
「ありがとうございます」
アイラが小さく頭を下げると、国王は鷹揚に頷いた。
「さて、グレイハート。場が騒がしいようだが、何があった」
「ああ……それは」
グレッグは王子に視線を向けた。
立ち尽くしたまま青ざめている王子の肩が一度、大きく揺れた。
「先ほど、第一王子が婚約破棄を宣言されまして」
「婚約破棄だと?……ハーヴィア公爵家令嬢にか」
「いえ。私の妻に」
「……何?」
国王の声に、困惑が滲んだ。
「お前の妻に婚約破棄だと?」
「私の妻がハーヴィア嬢と同じ黒髪であったことで、勘違いをされたようです」
国王は眉間に皺を寄せ、アイラとセレーヌへそれぞれ視線を向けた。
アイラのさらりとした長い黒髪。中性的な美貌に紺色の目、凪いだ表情。
セレーヌの緩く波打つ黒髪。落ち着いてはいるが、美しさの中にまだ幼さを残す顔立ちと、紫色の目。
身長はアイラの方が七、八センチほど高い。
「……レオナルド」
国王が静かに名前を呼んだ。
「説明しろ。なぜ、そのようなことを起こした」
「セ、セレーヌがマリアに嫌がらせを、」
「嫌がらせか」
国王は呆れたように苦く息を吐いた。
「その話は後で聞く……なぜ自分の婚約者とグレイハートの妻を間違えた」
「それは……」
理由は、アイラとセレーヌを見比べれば、誰が見ても明白だった。
一年に三度しか会っていない婚約者。黒髪の令嬢、近い年齢。何より、レオナルド自身がセレーヌへ迎えを寄越さなかったことで会場への到着が遅れたことも大きい。
会場は、扇の音一つしなかった。
「陛下……!」
静寂を破ったのは、マリアだった。
ライトブラウンの瞳に浮かべた涙、庇護欲をそそる、いたいけな表情。小さく震える体と、胸の前で握り締められた両手。
「わたしがセレーヌさまに酷いことをされたのは、本当なのです……レオナルドさまは、それを」
「誰がお前に直答を許した」
国王はマリアに一切の視線を向けなかった。統治者としての鋭い視線が、レオナルドから外れることはない。
「……普通、嫌がらせをしてきた相手の顔は間違えないのでは」
ぽつりとしたアイラの呟きが、会場に小さく響いた。
「……確かにな」
国王はアイラの言葉を咎めることなく、冷え冷えとした声で同意した。
「では、グレイハート夫人……レオナルドから婚約破棄を告げられたそうだが……他には何を?」
アイラはレオナルドを一瞥した後、事実だけを羅列した。
「そこにいるマリア嬢? を不当に虐げたと。それから、性根の腐った女に次期王妃は相応しくない、セレーヌ嬢との婚約はここで破棄すると」
「……そうか」
その答えを聞いて、国王が静かに頷く。
「レオナルド。お前は、王家とハーヴィア家で結ばれた婚約を勝手に破棄しようとしたのか」
「それは、セレーヌがマリアを虐げたからで……父上はこんな卑劣な女を、次期王妃として認めるのですか!?」
両手を強く握りしめ主張したレオナルドへ、国王が、ほんの僅かに眉を動かした。
「……誰が、ハーヴィア公爵令嬢を王妃にすると言った」
「ですが、この女を俺の婚約者にしたのは父上で」
「答えろ」
国王のその冷え冷えとした声に、レオナルドは一瞬息を呑む。
「そ、れは……俺の婚約者だから」
「つまり、お前は自分こそが次の王になると言っているのか」
「もちろんです、俺は」
さらに言いかけたレオナルドの言葉を遮るように、国王は苦く息を吐いた。
「……嘆かわしい。どこで教育を誤った」
その言葉は、会場の隅々まで静かに広まった。
「本来ならば、このような場所で話すことではないが……いや、これ以上王家の恥を晒すわけにもいかぬ」
国王は静かに目を閉じた後、一言、断じた。
「今ここに、王の名により宣言する——我が国の王位継承権一位は、レオナルドではない」
風の音すら止まったような静寂が流れた。
レオナルドとマリアが棒立ちのまま固まり、セレーヌは静かに目を伏せた。アイラが無表情で瞬きをし、グレッグはそっとアイラを、自分の元へ引き寄せた。
「何より」
次に国王が開いたその目は、息子に向ける父親のものではなかった。為政者としての揺るぎない、冷静で冷徹な視線。
「私と王妃の実子は、第二王子エドワードと第三王子エリオットのみ。第一王子レオナルドは、今は亡き我が妹フィーネの息子である」
——フィーネ姫。それは、二十二年前に病で亡くなったと発表されている国王の妹の名前だった。
しばらくの間、誰も、何も話さなかった。
やがて、誰かがぽつりと。
「ですが、フィーネ姫は……ご結婚は…」
「していない」
国王が、低い声で言う。
「妹は未婚のまま子を産み、出産の際、命を落とした」
何人もの貴婦人が、驚きで扇を床に落とした。貴族社会で、未婚の娘が子供を産むなど普通はありえない。それが、王妹であれば尚の事。
「そんな……じゃあ、俺は……」
王位継承一位ではない。何より、国王の実子でもない。
これまで父と信じていた男から告げられたその言葉に、レオナルドは今度こそ膝をついた。
「なるほど」
その様子を見ていたアイラが、ふと思い当たったように、ぽんと手を叩いた。
「それで第二王子の名前がエドワード殿下なのか。確かに普通は、長男につける名前だな」
「アイラ……今、それを言うのか」
グレッグが妻のマイペースさに、小さくため息をつく。
「ふむ……聡いな、夫人」
国王は明確に回答しないまま、レオナルドへ向き直った。
「レオナルド。今宣告した通り、末の妹の子であるお前の王位継承権は一位ではない。よって、お前の妻が王妃となることもない」
「どうして……どうして今まで教えてくれなかったのですか!?」
「エドワードが成人となる次の誕生日に、お前に話す段取りを行っていた」
国王は、じっとレオナルドから目を離さず尋ねた。
「レオナルドよ。誰から、お前が選ぶ妻が王妃になると聞いた」
「……マリアが」
膝をついたまま、ぼそりとレオナルドが言う。
「マリアが……セレーヌから嫌がらせをされているって……横暴で醜悪な女は、次期王妃に相応しくないって……」
「お前はそれを信じたのか」
「だって……俺は第一王子で」
言いかけたレオナルドは、先ほど国王から「自分の子ではない」と言われたことを思い出したのか、そのまま震える唇を閉じた。
「マリアというのは、その娘のことか」
国王が視線をマリアに向けた。
「レオナルド、その娘の家名は」
「……エームズ子爵家の……」
「子爵家の娘を、公爵家の嫡子が「いじめた」それで、……お前はその真偽を調べたのか」
「……そ、れは」
言い淀むレオナルドへ、国王は重いため息を吐いた。
「裏付けもないまま、お前はハーヴィア公爵令嬢へ婚約破棄を突きつけようとした。そしてその相手を間違え、他国の来賓の妻を罵ったと」
「待ってください陛下! わたしを信じてください……」
突然、マリアが潤んだ目で小さく体を震わせながら、国王を見上げた。
「だって陛下、本当ですの! 本当に、わたしはセレーヌさまに虐げられて……」
「ならば、それを証明できる者は」
国王はマリアの頬を伝う涙に、眉一つ動かさなかった。
「わ、私のメイドが…っ」
「ならば、名前を挙げよ。今、この場でその使用人を召喚する」
「え……」
マリアの涙がぴたりと止まった。じわじわと顔から色が消えていく。
「その使用人の名を、答えよ」
国王は再度、言葉を重ねた。しかし、マリアは答えない。
「ハーヴィア公爵令嬢」
静かな声で国王はセレーヌを呼んだ。はっとしたセレーヌが背筋を伸ばす。
「今ここで、偽りなく答えよ。お前は、この娘を虐げたか」
「いいえ」
一礼したセレーヌは、紫色の目で真っ直ぐに国王を見つめ、はっきりと言った。
「ハーヴィア公爵家の名にかけて、わたくしはその方を虐げたことはありません。だって……」
セレーヌの視線がマリアに向く。
「本日、はじめてお会いしましたもの」
その一言に、会場が一斉に騒めきはじめた。
「ちがっ……本当にドレスを汚されたり、お手紙で酷いことを……」
「では、その手紙は」
国王の次の問いかけに、マリアは顔を蒼白にしたまま「す、捨ててしまって……」と言葉を捻り出す。
「証拠を捨てたら意味がない……失礼」
静観していたアイラがぽろりと漏らしたが、グレッグにぽんっと背中を叩かれて口を閉じる。
「……では、エームズ子爵令嬢マリアよ。この場で申告したことは真実であると、エームズ子爵家の名を持って誓えるか。ハーヴィア公爵令嬢が、己の家の名をかけて誓ったように」
国王の言葉に、マリアは唇を噛んで俯いたまま何も答えなかった。
家の名に誓うとは、今ここでマリアが答えたことが嘘であった場合、家名を背負う全ての者がその責を問われるということだ。
「マリア……本当だよな? 本当にお前は、セレーヌに」
レオナルドが震える声をマリアへかけた時だった。
「……さい」
俯いたマリアから、ぽつりと音が漏れた。それは、今までの甘く可憐なものではなかった。
「うるさい、うるさいうるさい! あんた、本当役に立たない男ね!!」
全てが壊れたような、感情が剥き出しの声。
「なんであんた、第一王子のくせに王位継承一位じゃないのよ!? 婚約者を間違えるとか馬鹿じゃないの!?」
庇護欲をそそる可憐な令嬢の姿は、もうそこにはない。あるのは、正にレオナルドが婚約破棄の際に言った『性悪な女』の顔だった。
「なっ……お前だって、セレーヌは黒髪のあの女だって言っただろうが!!」
「はあ!? 私が言ったのは『あそこに黒髪の女がいる』よ! あんたが『セレーヌだ』って決めつけて話し出したんじゃないの!!」
「——お前たち、これ以上の醜態を晒すな」
言い争いをはじめた二人を、国王の重い一言が断ち切った。
「衛兵。その娘を」
会場内に配置されていた衛兵が二人、国王の命に素早く走り寄ってマリアの両腕を左右から拘束する。
「何するのよ、触らないで!!」
「王家に対する冒涜、ハーヴィア公爵家への虚偽罪。それ以外にも、恐らく叩けば埃が出るだろう。連行しろ」
「待ってよ、放して……レオナルド! あんた助けなさいよ、離し……」
衛兵に引き摺られるマリアの姿と声が完全に消えた後、国王はセレーヌへ視線を向けた。
「セレーヌ嬢。この度の婚約は王家の瑕疵として白紙の手続きを進める。異論はあるか」
「いいえ……ございません」
セレーヌは静かに首を振り、そっと視線を下げる。
「きっと、わたくしにも至らないところがあったのでしょう。レオナルド殿下とお互いを知るための時間を取ることができませんでした。婚約のお話をいただいて一年、公爵家を継ぐ準備に追われていたとはいえ……」
セレーヌが言い終わる前にレオナルドが顔を上げた。
「セレーヌが公爵家を継ぐ……?」
「……それも知らなかったか」
国王は、年に見合った疲れきった顔で、深い深いため息をついた。
「お前は不思議に思わなかったか。エドワードとエリオットには幼い頃から婚約者がいる。それに対し、お前は二十二になり、ようやく婚約者が決まったことを」
「……王妃にする女だから、簡単に決められないのかと」
「王子妃の教育は、短期間で終わるものではない」
静かな声で国王は続けた。
「セレーヌ嬢は、ハーヴィア公爵家の嫡子だ。王家からお前の婿入りを打診し、婚約を結んだ……お前は私の実子ではないが、王家の血を引くものとして良い縁談を用意したつもりだった。無駄だったがな」
レオナルドは、再び俯いた。そしてぽつりと。
「俺の……俺の母親が……陛下の妹なら、父親は、誰ですか」
「フィーネの護衛騎士の一人だ。すでにこの城にはいない」
国王は独り言のように呟いた。
「……お前が産まれた時は、ちょうど王妃が体調を崩していた頃だった。親のない子にするよりはと、王妃と相談し、事実を知る者に緘口令を強いた上で、お前を第一王子としたが……過ぎたことを言っても仕方ない」
会場の静寂は、まだ続いていた。
「……グレイハート、そして夫人よ」
国王はレオナルドから目線を外すと、黙って成り行きを見ていたグレッグとアイラへ向き直った。
「この度のこと、国として謝罪する。後日、東方連合へ正式に謝罪文を送る」
グレッグはアイラを引き寄せたまま、低く静かに言った。
「陛下とはそれなりに長い付き合いです。事を荒立てたくはないが、こちらとしても妻の名誉に関する事ですので」
「わかっている……私も、王妃が他の男に婚約破棄など告げられたら、平静ではいられんだろう。夫人、当事者でないにも関わらず、不快な思いをさせた」
アイラは国王の声掛けに小さく頭を下げた。
この場で第一王子が行ったのは、異国の軍高官の妻への明らかな名誉毀損。これは夫妻が所属している東方連合に対する侮辱と同じだった。
けれど、この先の判断は、東方連合上層部が行うことであり、今ここでアイラが何かを答えることはできない。
そして、アイラが何も言わなかったその意味を、老獪な王も深く理解していた。
「では、国王陛下。我々はここまでで」
グレッグがアイラの肩を引き寄せて言った。
「ああ……機会があれば、また会おう」
それはグレッグに向けてかアイラに向けてか。もしくは夫婦二人に向けたものなのか、定かではなかったが、国王は背中を向け、家臣に指示を出しながら歩き出した。
会場の床で力なく跪いているレオナルドを置いて。
◇◇◇
「やれやれ……疲れたな、大丈夫か」
宮殿から宿泊している宿まで帰る馬車の中。
肌寒さが漂う気温に、グレッグは自分の礼服の上着を、隣に座る薄いドレスを着た妻の肩にかけた。
「まさか、王子の婚約者と間違われるなんて思わなかった。ダーリンの色のドレスを着て、結婚指輪までしてるのに!」
アイラが不機嫌そうに夫の腕にしがみつく。
「ああ、俺もだ。うちの嫁さんを婚約者だとは……本当に笑わせる」
グレッグの低い笑い声を聞きながら、アイラは紺色の目を甘く細めた。
アイラが婚約破棄をレオナルドから告げられた時も、グレッグは低い声で笑っていた。
アイラは知っている。夫がこうして笑う時は、その血が煮えたぎるほど怒っている時だと。
「陛下との付き合いはそこそこ長いが、それと今回のことは別の話だ……あの場で謝罪を受け入れれば、連合は口だけで事を片付けてると周囲に示したと同じことだ。お前が陛下の言葉に黙っていたのは正解だった」
グレッグは空いている手でアイラの顎を持ち上げて、その紺色の目を覗き込んだ。
「……怖かっただろう」
海軍中佐として数百人の海の猛者を従え、普段からその野太い唱和を聞いても、眉一つ動かさない妻の腹の据え方は知っている。
それでも、人違いだったとは言え、あの王子がやろうとしたことは、ただの吊し上げだ。普通の令嬢なら泣き出してもおかしくなかった。
「ダーリンが一緒だったから平気」
その返事を聞いたグレッグの大きな手のひらが、ゆっくりとアイラの頬を撫でた。
「お前が先にあの王子に言い返さなかったら、俺があいつを殴っていた」
ぼそりと呟かれたその一言は歴戦の軍人ではなく、妻を傷つけられそうになった一人の「夫」としてのものだった。
「ダーリンが殴ってたら、あの金髪もやしは今頃、海の藻屑よりも塵になってるな」
「金髪もやし……強ち間違ってはいないが、俺以外の前では言うなよ。あれでも一応まだ王族だ」
そう言いながらも、アイラの返事にグレッグの眉間にある皺は緩んでいた。
国防に勤しむ強固な男たちの体型と比べれば、レオナルドのいかにも王子といった体型は、確かに豆から生えたばかりの根と言っても過言ではない。
ふと、グレッグは真剣な顔をしてアイラの顔を覗き込んだ。
「アイラ……この国を、嫌いになったか?」
グレッグに尋ねられ、アイラは小さく首を振った。
「そんなことはない。国王陛下はダーリンの色のドレスが似合うって褒めてくれたし、あのセレーヌっていう娘も普通だった……でも」
アイラの目に剣呑な光が灯る。
「あの花柄のドレスの娘。あれは許さない」
声が一音低くなった。
「あの娘、わたしの結婚指輪を偽物だと言った。ダーリンが潮風でも錆びないように注文してくれた特注品だぞ! それを偽物だと!?」
「……お前という奴は」
グレッグが小さく吹き出して、くしゃりとアイラの頭を撫でた。そのまま、アイラの頭を自分の肩に引き寄せる。
「明日の朝、近くの港まで東方連合の軍艦が迎えに来る。それまでは宿でゆっくりしよう。うちの連中への土産は……明日、港で探すか」
「うん……」
頭を撫でられ怒りを収めたアイラは、グレッグの肩に頭を乗せたまま目を閉じた。馬車の揺れが静かに体に伝わる。
「……陸も悪くないけど、やっぱり海の上が一番いい。離れたのは数日なのに、早く海に戻りたい」
「そうか……海は俺たちの場所だからな」
夫の体に染みついた、火薬と海と、石鹸の混ざり合ったような匂い。アイラの一番好きな匂いだ。
アイラは目を閉じたまま、微笑んだ。
「ダーリン、大好き」
婚約破棄を告げられた令嬢は、人違いで既婚者だった。
馬車が夜の街道を走り抜けていく。
潮の香りが漂う二人の日常に戻るまで、あと少し。
——婚約破棄を告げられた令嬢はイケオジ中将だけを愛してる。
海軍の階級は某海賊漫画を参考にしています。
政府関係者
元帥
大将
中将
少将
大佐
中佐
少佐
以下略。




