届かぬ耳、届く声(エルンスト)
入ってきたのは、白髪交じりの老人だった。
穏やかな笑み。
だが、目だけは鋭い。
中央監査庁長官。トップだ。
通称——たぬき爺。
「久しぶりだな、エルンスト」
「……お久しぶりです」
自然と、頭が下がる。
「噂は耳にしているよ。
魔石の流れを“見る”研究だそうじゃないか」
会議室の空気が、ぴたりと止まる。
「事故を減らす研究、だったな」
たぬき爺は、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、机の上の資料を一枚、指先でなぞった。
「君を中央に引っ張った時、私は言ったはずだ。
——忘れろ、と」
少しだけ、苦笑する。
あのときの私は、中央に拾われたばかりだった。
感情を仕事に持ち込むな、と言われた。
正しさより、秩序を守れ、と。
「だが、どうやら無理だったようだ」
それには、何も言えなかった。
「安全とは何か。権威とは何か」
たぬき爺は、会議室を見渡す。
「長く続いているやり方は、守られやすい。
正しいからではない。責任を取らなくて済むからだ」
数名が、視線を逸らした。
「君たちは、事故が起きた時に言えるか?
『やり方は前例通りだった』と。
それで、目の前の被害者に顔を向けられるか?」
沈黙。
たぬき爺は、エルンストに目を戻す。
「さっき、君は言ったな。
責任は自分が取る、と」
「はい」
「それは、半分でいい」
周囲がざわめく。
「残り半分は、私が持つ」
「長官……?」
上司が思わず声を上げる。
たぬき爺は、気にも留めずに続けた。
「この研究は、中央が正式に認める。
失敗した場合、魔術院との摩擦も、政治的な非難も——私の管轄だ」
にやりと、笑う。
「どうせ、もう年寄りだ。
今さら評判が落ちても、困らん」
会議室にいる誰もが、一瞬、言葉を失った。
「エルンスト」
たぬき爺は、静かに言う。
「君は、現場で事実を拾え。
責任は、上に投げろ。
それが、中央の仕事だ」
そして、はっきりと告げる。
「好きにやりなさい。
止めるのは、私が死んでからにしてもらう」
静寂。
反論は、出なかった。
それは、勝利だった。
だが、歓声のない、重い勝利だ。
同時に、退路を失ったという意味でもある。
中央が認めた以上、
これは個人の暴走ではなくなる。
成功すれば制度を変え、
失敗すれば制度ごと揺らす。
私は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん」
たぬき爺は立ち上がり、扉に向かいながら、振り返らずに言った。
「ただし。——引き返せなくなったら、正直に言え。…一緒に、地獄まで行ってやる」
——地獄なら、既に一度見ている。
今度は、誰も落とさないために。
扉が閉まる。
会議室には、まだ、誰も動けずにいた。




