問題のない顔
市場に出るのは、少しだけ、ためらいがあった。
右手の包帯はもう薄くなっている。
痛みも、日常に戻りつつある。
それでも——
あの鍋の赤と、エルンストの言葉を思い出してしまう。
だけど、家に引きこもっていては何もできない。
市場はいつも通りの匂いや音で満ちていた。
食べ物を焼いた香ばしい匂い。
金属を叩く音。
人々のざわめき。
それで、少しだけ安心した。
通りを歩いていると、声をかけられた。
「あれ、あんた……」
振り向くと、魔具店の前に立つ男が、目を丸くしていた。
丸顔で、少しお腹が出ていて、笑うと目が細くなる。
「この前の! 鍋のときの!」
一拍遅れて、思い出す。
あのとき、通りの端で騒ぎを見ていた魔具店の主人だ。
「……はい」
「やっぱりそうだ!いやあ、すごかったなあ!」
ぱん、と手を叩く。
「どうやったんだ?正直、ありゃもう終わりだと思ってたぞ」
視線が集まりかけて、私は一歩引いた。
「……偶然です」
できるだけ、小さく答える。
男は一瞬きょとんとしたあと、大きく笑った。
「ははは!偶然でも結果よけりゃ全てよしだ!助かった命がある、それで十分!」
あっけらかんとした声だった。
重さが、ない。
「まあまあ、立ち話もなんだ。せっかくだから、魔具、見ていきなよ」
そう言って、店の中を手で示す。
私は思わず足を止める。
けれど、断る理由も見つからず、小さく頷いた。
「ゆっくり見てって。俺、ちょっと向こうに用があるからさ」
そう言うと、すぐに別の客に呼ばれて行ってしまった。
取り残された形で、私は店内に立つ。
店内には、照明具、簡易暖房、計測具。
どれも日常的な魔具ばかりだ。
——二度と、触るな。
エルンストにそう言われた。
でも、魔具に関わらずに生きるなんてことはできない。
生活の隅々にまで、魔石は入り込んでいる。
暴走する魔石に、触らなければいい。
それだけだ。
自分にそう言い聞かせ、棚の前に立つ。
——見るだけ。
触らない。
言われたとおりに。
視線が勝手に魔石を追ってしまう。
考えないと決めたはずなのに、頭の中では沈石粉の線が浮かぶ。
左右に折れ、上下にうねり、魔石の中を流れる線。
——だめだ。
私は小さく首を振った。
だけど、その拍子に、床置きの暖房魔具が視界に入った。
金属枠の中央に埋め込まれた魔石。
その一部分だけが、わずかに質感が違って見えた。
——光の加減?
目を細める。
——違う。
表面の艶が、ほんの少しだけ鈍い。
吸い寄せられるように、近づく。
そっと、手をかざす。
触れない距離。
「あれ……」
その一点だけ、熱が強い。
魔石全体が温かいのではない。
違和感を覚えた、まさにその場所だけ。
じわり、と。
胸の奥がざわつく。
魔具を使えば、魔石は全体的に温まる。
だが、部分的に、偏ることはない。
——詰まり。
頭の中で、言葉が形になる。
沈石粉が集まった、あの一点。
流れが滞っていた、あの感覚。
似ている。
あまりに、似ている。
私は思わず一歩下がった。
最近、わからないことが起きすぎている。
見えてしまう。
感じてしまう。
知らなければ、ただの光の悪戯だったのに。
「……あら」
後ろから、声。
振り向くと、見覚えのある老婆が杖をついて立っていた。
あの、鍋の屋台の——。
「この前は、ありがとうねえ」
深く、頭を下げられる。
「本当に、あんたがいなかったらどうなっていたことか。何度言っても足りないよ」
「いえ……」
「あの鍋、前からちょっと調子が悪い気がしてたんだけどねえ。…あの子にも、そう言うのは放置するなっていつも言われてたのに」
ぽつりと、こぼすように言う。
「あの子?」
「孫さ。鉄を叩くのが好きでね。工房を持って、何やら作ってる」
少し、誇らしげに。
「危ないものばかり扱うから、こういう事故には、人一倍うるさいんだよ」
くす、と笑う。
「『動くものは、止める手も一緒に考えろ』なんてね。口うるさくてさ」
止める手。
その言葉を胸の中で反芻する。
私には、それがない。
老婆は、それ以上は何も言わなかった。
私はもう一度、暖房魔具を見た。
沈石粉はない。
線も、見えない。
魔具から一歩、距離を取る。
棚の上では、魔石が静かに光っている。
いつもと同じ、問題のない顔で。
それが、ひどく、不安だった。




