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V まだ見ぬブルースター

お読みいただきありがとうございます。

 ハーゲンの下に、季節のことを連ねた手紙が送られてくる。送り主は言わずもがなエリーゼで。ここ数ヶ月で送られてきた手紙は何十通にも及んでいた。


『アリアシネ侯爵様

我が家の庭は、ベッドに伏せるわたしがさみしくないようにと、庭師が四季折々の花を育ててくださっています。

今は青紫の鐘みたいなリンドウに、大輪のダリアが咲いています。冬になったら雪が沢山降るので、今年の花はこれが最後でしょう。

アリアシネ侯爵様と共に見れたら嬉しいです。

エリーゼより』


 手紙を机の上に置き、便箋を取り出した。

 今度、茶を飲みに行くという旨を記す。


 ――そしてここで、エリーゼとの関係を完全に絶つと決めている。

 彼女の時間を、自分なんかが使っていいのかという漠然とした恐怖。わだかまりは払拭できず、腹の底で燻り続ける。


 彼女を傷つけることになるだろう。

 それでも、自分なんかが誰かの大切なものを使わせるのが忍びなくて。

 エリーゼの幸せを願い始めている自分がいた。



 二日後。

 フェンテッド家の応接間に通されれば、彼女が既にいた。


「来てくださりありがとうございます」

「いや……」


 彼女の手ずから淹れられた紅茶は、ふわりと金木犀の甘い香りがする。


「すごく嬉しいです、アリアシネ侯爵様と一緒にお茶会ができるなんて」

「そうか良かった」


 口に入れても、舌が生温さを感じるだけで味は分からない。


「……君に、私は……」

「……? 何か仰られましたか? おかわり、沢山ありますよ」


 ……まだいいか。今日一日は長い。


 その機会はまた訪れると、そう考えていた。

 だけど機会は訪れなくて。


「アリアシネ侯爵様、今までいっぱい迷惑をかけてごめんなさい。さよなら」


 別れを告げたのは彼女の方だった。


◇◇◇


「あまり遠くに行っては駄目よ? はしゃぎすぎないようにね」

「分かっていますわ、お母様」

 まるで幼子だな。心の中で指摘してしまう。


 マフラーや毛糸の帽子でもこもこになっていく。それでは熱いくらいだろうと思ったが口を出すほどではない。


 完成した彼女は、ほっそりとした体型の面影もなく、丸々としていた。

 髪は編まれていて、リボンで結ばれている。


「では、行こうか」

「はいっ」


◇ 


 庭は、美しく整えられている。

 手紙で言っていた通り、リンドウの花もダリアの花も咲き誇っていた。


「美しいな」

「ですよね。わたし、昔からこの庭を眺めるのが好きなんです。見てください。あそこにある木には、オレンジが実るんですよ。ジャムも美味しいですし、紅茶に浮かべるととても香りが良いのですよ。オレンジの白い花も素敵なんです、甘くて爽やかな香りで、その香りで夏が来るなと思います」

「そうか」


 もこもこは、短い返答にも構わず嬉しそうに話を続ける。


「夏が一番好きですが、秋も好きです。空が綺麗で、虫の音が心地よくて……」

「夏が一番好きなのは、オレンジあるからか?」

「……えへへ」


 その笑顔が理由を見抜かれたからなのか、それとも食い気が勝ったと思われ恥ずかしくなったのかは分からなかい。


 それからもエリーゼは春の楽しさをうたい、夏の素晴らしさを讃え、秋の儚さを説く。

 代わりに、冬の時は黙りこくってしまった。


「冬はなにもないのか?」

「……冬は、好きになれません。寒いし、花は咲かなくて窓の向こうは真っ白。寂しくて、辛いです……」

「私も嫌いだ。寒くて布団から出られないからな。毎朝、侍従に起こされているよ」


 内緒話をするみたいに教えれば、きゃあと頬に手を当てた。くすくす笑っている。


「まあ、アリアシネ侯爵様も朝はお辛いのですね」

「朝は嫌いだ」

「うふふ」


 取り留めのない話をしながらゆっくりと庭を一周して。


「何か、したいことはあるか?」

「え?」

「この間は、結局騙すような形になってしまったからな。君さえよければ、今日その埋め合わせをさせてくれ」

「いえいえっ、わたしを想って行動してくださったのですから。それの埋め合わせなんて、申し訳ないです」


 体を振って拒絶されるが、でも〜アリアシネ侯爵様に誘われるなんて〜というオーラが出ている。

 ふっと笑ってしまった。


「良い。やりたいことを遠慮せず言ってくれ。私にできることなら叶えよう」

「本当、ですか……?」


 逡巡する。


 考え込んでいるようだった。

 邪魔をしないように池の方を見る。

 

 枯れ葉が三枚池の上に着地した所で袖を引かれた。


「あの……やりたいこと、一ついいですか?」

「勿論」


 両手を合わせ彼女がはにかんだ 


「でしたら、『家族ごっこ』がしたいですっ」

「………………は?」


 ぴくりと顔が歪んだ。

 彼女には色々振り回されたが、こんなにもわけの分からないことを言われたのはこれが最初で最後であったと思う。


 声が震えた。動揺が抑えきれない。


「家族、ごっこ……? 家族はいるだろう? 何をやりたいと言うんだ?」

「あ、家族とは言っても夫婦です、わたしがやりたいのは。憧れていたんです、旦那様と暮らすこと」


 夫婦と聞いてより震えた。何を言ってるんだ! 心の中で叫ぶ。


 だが、そんな激情はすぐに収まった。


 手を取られる。

 向けられたのは、いつもよりずっと静かな表情だった。


「たった一度だけなんです。どうか最後に、わたしのお願いを叶えていただけませんか?」


 押しが強くなく、押されれば断りづらい。それがハーゲンという男であり。

 かなり顔は歪んだが、結局最後には


「分かった……付き合おう」


 と了承するのであった。


◇◇◇


「――……様、ハーゲン様。起きてください」


 来客用のベッドの上で、頬を細い指で突かれる。


 いつまで寝たフリをすれば良いのかと考えてしまう。


 扉の方からは、こちらを伺う無数の視線。ヨハナたちだろう。気まずいったらない。


 そろりと目を開ければ、微笑むエリーゼ。

 頬杖をつきこちらを見ている。


「おはようございます。今日も良い朝ですね」

「……あぁ、おはよう」

 ――もう昼と呼べる時刻だが。それを言うのは無粋というものだ。


「ハーゲン様の寝顔見てしまいました」

「そうか」

 実際寝てはいないが。


 彼女の望んだ『家族ごっこ』はすぐに開始された。

 台本が与えられるはずもなく、エリーゼの言葉に付き従うのみ。早速タイと上着を取り払われ寝かせられた。

 どうやら、旦那を起こすのが彼女の憧れだったらしい。


「ハーゲン様。上着わたしが着せたいです。あと、タイも結びたいです」

「分かった分かった」


 上着を着せられ、タイを結ばれる最中扉に視線を向ける。

 メイドたちと共に様子を伺う、エリーゼの母であるヨハナは、最初とはうって代わり穏やかな微笑を浮かべている。

 あれが本来の彼女なのだろう。


「ハーゲン様、見てください。上手に結べました」

「ありがとう。…………」

「なんでしょうか? ……下手でしたか?」


 そうではない。首を横に振る。


「君は、旦那様とは呼ばないんだな」

「はい」


 じわりと顔に熱が広がる。


「だって、ハーゲン様というお名前が、大好きですから。だから、もったいないです。……普段は家名で呼んでいますし、こういう時くらいは、と……」


 それからですね。どやりと背を反らした。


「知っていますか? ハーゲン様の名前の意味」

「いや」

「意味はですね――『利用できない・得られない』ですよ」


 既に亡くなられた両親の顔が浮かぶ。


「……変な意味だな」


 あの人たちならさもありなん。


 ため息をつけば、焦ったようにわたわたされる。


「た、たしかにこれだけ聞くとそう思うかもしれませんけど! わたし、思うんです。ハーゲン様のご両親は、誰の思惑に動かされることもない、自分の意思を持った人になってほしかったんじゃないかなぁって……」

「そうだろうか?」


 適当に名付けた、という説が有力だが。


 抱き締められた記憶はないし、笑いかけられた記憶だって少ない。

 記憶の中の二人はいつだって厳しかった。


「そうですよ。きっと、沢山考えてくれたと思います。――だって、名前は生まれて初めて貰う両親からの愛情ですから」


 その言葉に、一瞬の白昼夢を見た気がした。


 気位が高い人たちだった。

 笑うことが少なくて、話すことも多くはなかった。

 けれど時折笑っては、試験で良い点を取った日や家庭教師に褒められた日に、食卓に好物が並んだことは覚えている。


「そうか……」


 目を開け、エリーゼをひたと見つめた。


「そういえば、君の名前の意味は何だったかな。たしか……『神の誓い』だったか」

「はい。……あの、わたしのこと、今日だけは呼んでほしいです。だってハーゲン様、いつもわたしの名前を呼んでくださらないので」


 渋面が広がる。


「……呼ばなくても事足りる」

「うぅ、手厳しいです。でも負けません。今日は長いですから」


 手を引かれる。


「まずはお昼にしましょうか」


 まだ日は昇りきっていない時間。

 そうして食堂に連れて行かれた。


 席につけば、すぐにズラリと料理が並べられる。

 野菜のゼリー寄せ、かぼちゃのポタージュスープに、鴨のロースト。バスケットにはパンも入っている。

 

 すすすとハーゲンの隣に来るエリーゼ。

 綺麗な所作で鴨のローストを一口分に切り分ける。それをハーゲンの口元に差し出した。


「はいあ~ん…………――でした」

「君が照れてどうする」


 真っ赤になりすすすとフォークを引っ込める。

 ぱく、と自分で食べだした。


 ふう、息を吐く。自身も鴨のローストを食べれば、塩味の効いた肉の旨味がじゅわりと広がる。


「美味いな」

「良かったです」


 顔が華やぐ。

 

 かぼちゃのスープに口をつければ、甘いかぼちゃが喉を滑る。

 手が込んでいるのがすぐに分かった。


 全て食べ終え人心地つく。


「次は何をしたい?」

「そうですねぇ」


 欲がないのか、首を捻ってしまった。うんうん考えて、人差し指を立てる。


「わたし、お菓子作りがしてみたいです」

「お菓子作り?」

「はい。ハーゲン様は作ったことありますか?」

「いや、ないな」


 むしろ、貴族社会でやったことがある人物の方が稀有だ。

 普通の貴族は、皮を剥かれ一口大に切られた人参がそのまま地面に埋まっていると思っている。


「では、やってみませんか? 何でも挑戦挑戦、です」


 握りこぶしを作る。

 ハーゲンもふわりと頷いた。


◇◇◇


 調理室を満たすのは、バターの甘い香り。


「す、凄いです。とっても美味しそうっ」


 出来上がったクッキーに目を輝かせる。


 天板に均等に並べられたクッキーはふっくらと黄金色。ほかほかと湯気が香っている。


 髪を一つにまとめフリフリのエプロン姿であるエリーゼは、うふふと口元に手を当てる。


「ハーゲン様との共同作業、ですね」

「喜んで貰えたなら良かったよ」


 ハーゲン自身も長髪なため、髪をくくっている。上着を脱ぎカフスボタンやタイを取り、代わりにコックが着ているようなエプロンを腰に巻いた。


 調理などハーゲンもやったことがないが、シェフたちのお膳立てによって、見事な品ができたのだろう。

 お陰でシェフたちは良い汗をかいている。食事作りの邪魔をして申し訳ない。


「食べても良いですか?」

「熱いから気をつけろ」

「はいっ」


 あちあち。指先を朱に染めながら息を吹きかけ、歯を立てる。さく、と香ばしい風味と共に柔らかいバターの香りが口いっぱいに広がる。

 しゅわしゅわと口の中で優しく解けた。


「ん~、美味しいです。ハーゲン様も…………一口いかがですか?」


 熱いものを食べただけではない熱が彼女を首まで赤くしている。

 今回は引く気はないらしい。今にも沸騰してしまいそうな程なのに。


 ふー、とため息をつき一口齧る。


「……甘いな」


 クッキーのカスを指で取る。


 ほにゃりと表情が緩んだままの口元にも、指を伸ばす。

 口にクッキーがついていたことに、彼女は顔を更に真っ赤にした。



 最後、二人は浜辺にいた。

 砂の上で裸足のエリーゼ。金髪が風に靡く。


「つ、冷たいですね……!」

「そうだろうな」


 寄せては返す波の音。

 ザザ――ン……ザザ――ン……

 波打ち際は色が浅く泡立っている。 


 拾った貝殻を耳に当てれば、小さな海が耳の中に広がった。


 これが彼女の最後の願いだった。


 屋敷で願い事を聞けば、にこにこと答えられた。


「浜辺で好きな人に追いかけられる……これ、全ての女の子の夢なんです」

「そういうものなのか……?」


 頬に手を当てうっとり呟く姿じっとりと見つめてしまう。


 それから車で一時間。

 時刻は四時ほどで、もう空に深い色がかかっていた。


 車から降りた彼女は早速はしゃいで、靴を脱いだ。

 こちらに期待するような視線を送るエリーゼを一笑に付す。



 ――ずっと、聞きたいことがあった。

 今この瞬間にも彼女の寿命は減っている。一秒一秒、確実に。


「君は、私をどう思っている?」

「愛しています、とっても」


 躊躇いのない愛だった。


「君の言う『愛』とはなんだ?」

「…………わたしの、愛」

「私は正直、君に愛される意味が分からない」


 離れる前に聞いてみたかった。

 真っ直ぐな少女の持つ愛を。


 エリーゼは澄んだ瞳をしている。


「……残念ながら、今のわたしにはこの愛を形容する言葉は持っていません。ごめんなさい」

「そうか」


 波が押し寄せ、代わりに引いていく。

 彼女の足を波が濡らした。


「ふふっ……冷たい」


 段々おかしくなってきたのか笑い出した。その姿を見つめる。


 愛。

 ぼんやりとして曖昧な、半透明なもの。


 ――でも、皆が皆、見つけられたのだろう。

 それを少し羨ましく思う。


 ずっと一人、子どもの姿のまま置いていかれている気がするのだ。

 誰も彼もが振り向くことなく、足を止めることなく行ってしまう。



「――ハーゲン様」


 目を開ける。眼前には彼女がいた。

 いっぱいに広げた手のひらに瞠目する。


「いつか、その愛が分かったら、わたし一番にハーゲン様に伝えますね。もしわたしが間に合えたら、ですけど……」


 何気ない一言が人の人生を変えることがある。

 なぜか今、思い出した。


「そうか、待っている」

「ええ、楽しみにしてくださいね」


 笑った少女は、帰りましょうかと靴を持った。


「良いのか? まだ君を追いかけていないだろう」

「良いんです、だってわたし走れませんでした」


 足を洗ってからタオルで拭いて車に座る。彼女は、動く馬車の上で疲れて眠くなったのか船を漕ぎだした。

 まぶたを閉じ、開いてまた閉じる。


 ぐらりと前に傾いた。


「危ない……っ」


 腕で受け止める。

 穏やかな寝息。


 小さな体を抱え、自らに寄りかからせる。

 健やかな寝息を立てていた。


「……君は、なぜ今日私を甘やかした? 尽くされるのではなく、尽くしたのはなぜ?」


 独り言に近かった。

 けど眠たげな声が鼓膜を震わせた。


「だって」


 薄く目を開けている。


「わたしは子どもだと言うように、ハーゲン様も子どもみたいに甘やかしたくて。貴方が、してくれたように……」


 夕陽が窓から入り込む。

 寄り添う二人をオレンジ色に照らし、代わりに紫の影を落とした。



◇◇◇


「す、すみません! 眠る気は本当になかったんです!」

「良い、分かってる」


 起きた彼女は真っ先に頭を下げた。


 何度も良い、ごめんなさいを言い合う。

 根負けしたハーゲンが眉根を寄せた。


「良いから、君はもう休んだほうが良い。今日は体を動かした、疲れているのだろう」

「うぅ……ありがとうございます」


 ここでもうさよならにしよう。

 告げ、使用人にハーゲンの馬車を呼びに行ってもらう。


「…………」


 もう君には会わない。そう言おうとしたが詰まって上手く出てこない。

 

「どうかされましたか?」

「いや、なんでもない」


 次で良いか。そう思っている自分がいた。


「では、さようなら」

「はい、ごきげんようアリアシネ侯爵様」


 エリーゼがメイドと共に屋敷の方へと消えていく。

 その姿が見えなくなっても、馬車を出発させることもなく見てしまった。


 夕焼けが沈む。空には月が昇っている。



 ――彼女が望むなら、もう少し隣にいても。

 甘い考えだった。



 その怠惰を神は許さなかった。


◇ 


 屋敷の扉が開き、エリーゼが出てくる。

 メイドたちが彼女を止めるように焦っている。

 掲げられた左手には、光るものが握られていた。……自身の腕につけていたカフスボタンだった。お菓子作りの際外して忘れていたのだろう。


 焦った顔から一転。ハーゲンがまだいると知るや否や嬉しそうにした。

 ハーゲンも馬車から降り、歩き出す。


 あと数歩で二人は触れ合った。

 だが、そうならなかった。


 ――エリーゼがその場で倒れたから。


 間一髪で体を彼女の下に滑り込ませたため硬いタイルとの衝突は避けられた。騎士たちもすぐに来て、彼女はベッドへと連れて行かれる。

 呆然とする。ヨハナが彼を応接間へ連れて行った。


「――今から話すことは、エリーゼが今日貴方様に打ち明けようとしていたことです」


 重々しく彼女は口を開いた。


「わたくしたちもつい先日に知ったのですが、エリーゼは……心臓の病を患っております。先刻倒れたのも、それが原因でしょう。初期段階ではありますが、今の医学では碌な治療もできないそうで……きっとエリーゼは、遠くない未来に……」


 言葉は続かなかった。


「……そう、ですか」

「はい……。エリーゼは、ずっと言うのを迷っておりました。だからわたくしに頼んだのです。『わたしが彼の前で倒れるようなことがあったら、言ってほしい』と。落ち着くまで、ここでお過ごしください」

「ありがとうございます」


 一つの光景が見えた気がした。

 段々元気がなくなり、床に臥せるエリーゼ。


 どっと汗が噴き出る。


「…………」


 いつまでそうしていたのか。

 

 扉が叩かれる。 

 開いた先には、エリーゼがいた。ドレスではあるが家で着るような簡素な姿で、髪は下ろしている。


「聞きましたか? わたしの病気」

「……あぁ」


 唇が震える。


「君は、私になにかして欲しいことは、あるか……」


 言え、言うんだ我儘を。

 どんな願いでも叶えると誓う。


 私はこの少女に同情しているのかもしれない。若い身空で死んでしまうと知っている少女に。

 小さくても大きくても良かった。叶えれば、少しは彼女が笑ってくれる気がした。だから早く。早く願いを――


「では一つだけ。――アリアシネ侯爵様、わたしとさよならしてください」


 それは我儘と呼ぶにはか細すぎた。


「なぜ……」

「なぜ、はこちらのセリフです。やっぱり優しいですね。わたしの寿命を知りながら、それでも接してくださっていたんですよね? 辛い思いをさせて、ごめんなさい」

「辛いことなんて……」


 言葉は遮られた。


「今日、ずっとずっと言おうと思っていたことなんです。だけど勇気が出なくて、引き延ばそうとして……。でも、もう誤魔化すことはできません。アリアシネ侯爵様、今までいっぱい迷惑をかけてごめんなさい。さよなら」


 こうして別れを告げられた。


 それに、何も言えなかった。


◇◇◇


「エリーゼ。動かないのも体に毒だわ。少し

お散歩しない?」

「そうですね。今日はとても良いお天気ですし」


 暖かい格好をし、エリーゼは庭に出る。

 いっぱいに空気を吸い込めば、冬の香りがした。


 季節はもう少しで冬。

 きっともう少しで雪が降る。


 ハーゲンに別れを告げた日から、一週間経っていた。

 関わりを絶ってしまえば、二人は容易く他人に戻った。それを寂しいと思うのは、傲慢なのだろう。


 庭にあるガーデンチェアに座る。

 ひやりとした冷たさが椅子から這い上がってきた。


「紅茶を持ってきて貰いましょうね」


 メイドがすぐに温かいミルクティーを持ってくる。両手で持てば、じんわり指先が温かくなった。


「温かいわね」

「はい、とっても」


 飲めば、頬に血色が宿る。


「……エリーゼ」

「なんですか? お母様」

「いいえ、なんでも。もうすぐ春ね。ブレンも仕事が終わって帰ってくるわ」

「お兄様が帰ってくるのですね。嬉しいです」


 口ではそう言いながら、気分はちっとも上がらない。兄にとっては失礼な話であるが。


 ――会いたいと思ってしまう。こんなに自分を戒めても。

 ため息がミルクティーに溶ける。


 そこで、ヨハナが立ち上がった。


「どうかされたのですか?」

「ごめんなさい。少し用事を思い出したの。すぐ戻ってくるからここで待っててもらっても良いかしら?」

「勿論です」


 もこもこは寒さに強い。その意を見せれば僅かに口角を上げ、ヨハナは屋敷に入っていった。

 ミルクティーにもう一度口をつける。


「――フェンテッド嬢」


 んぐ、ミルクティーが変な所に入る。

 けほけほと咳をしながら目を開く。


 そこにいたのは、会いたかった彼だった。

 灰色の世界で、ハーゲンだけが輝いて見える。


「え、えぇ……わたし、遂に幻覚見ちゃってるんですか……? そ、そんなに諦め悪かったのかなぁ」

「残念ながら、幻覚ではない」


 ならば尚更不思議だった。


「でしたら、どうしてここに? それに、勝手に入ったらお母様とお父様が怒ってしまいますよ」

「勝手ではない。許可を取ったから来たんだ」


 意味を測りかねてるエリーゼに、跪く。


「君と、ちゃんと話したかった」


 真っ直ぐな青い瞳。

 大好きだなぁ。こんな時に、そんなことを思った。


◇◇◇


「本日はご足労いただき誠にありがとうございます」

「いえ、大丈夫です。エリーゼのいる家で話はできませんしね」

「えぇ」


 アリアシネ侯爵家の屋敷で、ハーゲンとエリーゼの父と母がいる。

 父――べモートはいつも通り笑みを浮かべ、ヨハナは翳った表情を浮かべている。


「それで、本日は――娘ともう一度話したい、でしたか」


 べモートが胸元から手紙を取り出す。

 蝋のはんこには、くっきりとアリアシネ侯爵家の家紋が記されていた。


 躊躇いもなくハーゲンは頷く。


「はい」

「なぜですか?」


 柔らかな瞳が釘を刺す。

 

「エリーゼや侍従に聞いた話だと、貴方はなにか特別な感情を向けることはなく、断れなかったからエリーゼと一緒にいた、というだけだと思っていたのですが」

「……そうですね。私自身、貴方がたに手紙を送ったことにさえ驚いております」


 ずっと考えて、考えて、答えが出なくて。

 

「――酷く忌むべき力が、私の人生に多く関わってきました。その全てから目を逸らし続けていた私を、彼女が手を引いてくれた」


 上手く舌が回らない。


「彼女が病気になったから、というわけでは、ない。私は、ずっと……」


 ずっと、ずっと。


「彼女の願いを知りたかった」


 あの焦燥感の理由がようやく分かった。


 エリーゼは自分の悩みに一緒に向き合ってくれた。だけど自分のこととなると、一番大きな願い事はピタリと口にしなくなる。

 『家族ごっこ』だって、彼女の願いに一番近いというだけで、本当ではないのだろう。

 だから知りたかったのだ。

 ずっとなにを願っていたのか。


 頭を下げる。

 べモートは困り果てているようだった。


「エリーゼは」


 そこで口を開いたのは、さっきからずっと黙っていたヨハナ。


「いつも……気丈に振る舞っています。わたくしたちの前では、心の弱さを見せません。わたくしたちに対して、負い目のようなものが、ずっとあったのでしょう。……エリーゼが弱さを見せれるのは、きっと貴方だけ」


 顔を上げるように言い、今度は自らが頭を下げる。


「親として力不足であるかとは自覚しています。ですがどうか――娘を、よろしくお願いします」


 べモートも頭を下げた。


「大切な子どもなんです。……あの子の願うことなんて一つだけ。どうか、エリーをよろしくお願いします」


◇◇◇


「願いを、まだ聞いていない。まだ私は、君とちゃんと向き合えていない。だから教えてほしい」


 見上げれば、居心地が悪そうに顔を背けたれた。


「……これ以上の我儘なんて、かけられません。屋敷の皆、お父様お母様、それにお兄様。もう色んな人に迷惑をかけています。それなのにアリアシネ侯爵様にまで、これ以上の我儘なんて……」

「私の願いだ、と言っても?」

「……ずるいです」


 顔が歪む。ずっとそうしてきたように、彼女は唇を噛んだ。


「わたしの周りには、優しい人たちばっかりです……わたしは、何一つ返すことができないのに」 

「それは、違う。この世に善人なんて少数だ。事実、私は善人ではないという自負がある。君が優しい人と賞する者の中にも、そう思っている者は必ずいるだろう」

「……でもっ」


 乾いた冷たい風が吹く。

 雲はなだらかに流れて。木の葉が空を泳ぐ。

 エリーゼの乱れた髪を、ハーゲンが耳にかけた。


「それでも君の周りに善人しかいないのは……そう思うのは、君こそが善人なんだ。だから皆、そうありたいと願う。君が、人を優しくしているんだよ」

「……っ」


 瞳が揺れる。

 初めて水に触れたような。どこか怖い気持ちもあるけど、こそばゆいとも思う顔。


 口を動かして。だけど声が出なくてきゅっと唇を噛む。

 

「再度問おう。君の願いはなんだ、フェンテッド嬢」

「わたしの、願いは……」


 心臓の病が見つかった時、真っ先に諦めたことは――……


「わたしっ、アリアシネ侯爵様と、ずっと一緒にいたいです」


 顔を真っ赤にしながら力いっぱい言えば、ハーゲンは安心したみたいに笑った。


「そうか」

「は、はい」

「そうであるなら、私と結婚してほしい、エリーゼ嬢」


 結婚。

 エリーゼの思考が止まる。


 数秒後、爆発したように悲鳴を上げた。


「今、今……っ。結婚、それに、名前……!」

「良いのか? 駄目なのか?」


 首を縦に振る。


「わたしは、どちらもとっても嬉しいです! ……でも、わたしは数年後、いいえ少ししたら死んでしまうかもしれませんよ? それはアリアシネ侯爵様が、一番分かっていますよね?」

「あぁ」

「本当に良いのですか?」


 そっと手を取る。


「人間とは、そういうものだ。明日が必ず来るように、わたしも君もいつかは死ぬ。心配することはない。寿命なんて分からない普通の日々を、君も私もこれから先も送っていくだけだ。……自分の寿命は見えないからな」


 心がふっと軽くなって、目に涙がにじむ。

 肩を震わすエリーゼを抱きしめた。


 断りもなく彼女を慰められることに、ただ今は感謝した。



 その姿を、屋敷の人間が様々な方向から息を殺し見守る。

 皆一様に、目に涙を浮かべながら。



 そして季節は巡る。雪は溶け、春が来る。

 二人の結婚式が、迫っていた。

 

次話、結婚式。遂にお兄ちゃん乱入です。

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