IV ネモフィラの小鳥は天高く
お読みいただきありがとうございます。
「お嬢様。今日は日差しが強いのでお帽子を被りましょうね」
「ありがとう」
街の本屋に行く道で、茶色の帽子を被る。
もう季節は秋だけど、日が煌々と差している。太陽が空の低い位置にあるせいだと、いつかハーゲンに教えてもらったことを思い出した。
チェックのワンピースにショールを羽織った装いは、乾いた風でも温かい。
「お父様から頂いたお金で本を買うの、とっても楽しみです……」
ほう、と息を吐く。
体が弱くて自分で物を買うという経験をしたことがないエリーゼにとっては、『初めての買い物』であった。
本屋に入ったエリーゼは、本の背表紙を目で辿る。一際心惹かれる本があって手を伸ばす。
けれど同じ本を取ろうとした手と打つかった。
「……あ、すみません――っえ、」
手を引っ込め謝る。だが目の前にいた人物に息が止まった。
「……き、君は」
向こうにとっても意外だったのだろう。金の目を見開いている。
顔を歪めた彼は、今にも泣き出しそうだった。
「エリーゼ」
「オーディス、様……」
――彼は、エリーゼの元婚約者だった。
◇◇◇
庭で素振りするオーディスを幼いエリーゼは見守る。
「どうだ、凄いだろエリーゼ! 剣術の大会でもこの間優勝したんだぞ」
「まあ、凄いですオーディス様」
嬉しそうに素振りを再開する彼を見て、ケホと咳をした。
いつも元気に満ちている彼は、エリーゼの憧れの存在だった。
◇
――昔の記憶が脳を過ぎる。
本を手に取り、彼に差し出す。
「良かったら、どうぞ」
「あ、あぁ。ありがとう……」
覇気がない。昔とは、随分様変わりしていた。
いつもエリーゼの兄と元気に遊んでいるような人だったのに。
ぼんやり考えながら、窓の隙間から吹いた風に身震いする。
ふわ、と上着がかけられた。
「え、あの……」
「返さなくて良い」
ぶっきらぼうだけど優しい所は昔から変わらない。
「ありがとうございます」
「……うん」
気まずい空気が流れる。
「あの、ではわたしはこれで……」
「っ待ってくれ!」
腕を引かれ振り向く。
オーディスは真剣な顔をしていた。
「一度だけで良いんだ。……俺と、今度出かけてくれないか」
「…………」
「返事、待ってる」
◇
エリーゼは、ハーゲンに手紙を書いていた。
行くべきなのかどうか悩んでいるのだ。
「……わたくしは、一緒に出かけるなど認める事はできません。わたくしは怖いのです。またエリーゼが傷つくことが」
相談すれば、母ヨハナは首を横に振った。
それまでは比較的良好な関係を築いていたが、あれ以降会ってはいない。
オーディスの両親は謝罪に来たが、彼は部屋に閉じこもって出てこないという話だけ聞いた。
兄に酷いことしてしまったと思う。彼は、オーディスと仲良しだったから。
でも、兄はエリーゼを責めなかった。むしろオーディスに対する憤りを見せていた。
何度、自分は兄に我慢を強いているのだろう。
それがとても心苦しかったのを覚えている。
ハーゲンからの手紙はすぐに来た。
『後悔しない選択を、君が選ぶべきだ』
簡潔に一言だけ。彼らしい、ふっと気が抜ける。
わたしは、どうしたいのか――
十歳の彼。青い髪を揺らし、エリーゼの手を包む。今日は何をくれるのかと目を輝かせた。
「……決めました」
便箋を手に取り、硝子ペンを走らせた。
◇
秋晴れ。澄んだ空気が肺を満たす。
「おはようございます。今日は、ありがとうございます」
「……あぁ」
ハーゲンと共に車に乗って、オーディスとの待ち合わせの場所へ向かっている。
考えたのだ。ハーゲンがいればなんとかなるのではと。
ヨハナもそれなら……と頷き、ハーゲンも渋々了承してくれた。
ヨハナがあっさり了承してくれたのは、エリーゼの母親である自分が側にいたら一瞬でバレるがハーゲンならその心配がないからだろう。
「私は君たちのすぐ近くにいる。困ったら、すぐ私の下へ来るように」
「はい」
手紙で、過去の確執も話してある。
だからか、いつもより過保護な気がした。
「……わたし、臆病者なんです。ずっと勇気が出なくて、手紙を送ることだってできたのに、そうしなかった。……わたしは学園には通えませんでした。今の彼を知ることもなく、知ろうともせず、ここまで来ました」
澄んだ紫の瞳が、窓にかかったカーテンを捉える。
「今日、オーディス様ともう一度巡り合う機会を得て、心臓の音がずっと耳の側で聞こえている気がします。わたし、今度は上手くできるでしょうか」
あの頃より、大人になれたと信じているから。
物思いにふけるエリーゼを、真っ直ぐな声が貫く。
「――私からすれば、君も彼も子どもだ。十七歳なんて、その程度だ。……だが、いざ自分がその年の時、大人であるような気がするのはなぜだろうな」
十歳の頃の君も、そうやって自分を責めたのだろうな。私と同じだ。過去の私も、他の人よりずっと遠くを見て生活している気がした。
「だが今の私から見れば、子どもでしかなかったよ」
心が綻ぶ。
息がしやすくなった。
体を伸ばし、宙を見上げる。
「どうして、大人みたいな気持ちになってしまうんでしょうね」
「先の未来にいる自分を、想像できないからだろう。自分にとっては、今の姿が一番大人だから。それが世間の認識と合致していると勘違いする」
「……わたし、今日子どもになってみようと思います。上手くできなくても、それでも精一杯頑張ってきます」
どこか安らかな顔のエリーゼに、口角が自然と上がる。
「それで良い」
車は進み、目的地を目前として止まる。
「彼に私といる所が見られればいけないからな。ここからは歩いて行こう」
「はい」
ラフなシャツ姿の彼は初めてで。
五月蝿い心臓の音を誤魔化しながら腕に手を乗せる。
暫く進んでから、ぴたりと足を止めた。
「ねぇ、アリアシネ侯爵様。今度、わたしとデートしてくださいませんか?」
「なぜ?」
「子どもになるための一環です。我儘はどんどん口に出そうと思いまして」
紫の瞳とかち合って、目をつむり眉間を解す。
「……しょうがない」
「え?」
「どうした、しないのか?」
「い、いいえ! とっても嬉しいです」
目に涙を溜めはにかむ。
その頭の上にある余命は、もう残り四年と半年ほどだった。
◇◇◇
約束の人物は、噴水の前でずっと落ち着きのない様子を見せていた。
「おはようございます」
「お、はよう……」
照れているのか頬が赤い。こちらまで恥ずかしくなってしまう。
「あの、今日は観劇に行くんですよね……?」
「あぁ」
そして彼が上げた名前は、国で一番有名な勇者の話。
エリーゼが昔から大好きな本の話だった。
「……昔から、好きだと言って……いましたので」
「け、敬語? どうなさったのですか、お体の調子でも悪いのですか?」
「いや。俺と君は今、婚約者でなければ友人ですらないので。この口調が一番相応しいと思いました……」
「違和感しかありませんよぉ!」
つい大声を出してしまった。
彼はバツが悪そうに顔を俯かせている。
過去を後悔していたとしても、こんなに人間とは性格が変わってしまうのかと憐憫に似た気持ちが押し寄せる。
彼の手を取った。
「エリーゼ……!?」
「過去のことは、一旦置いておきませんか? これでは、今日を精一杯頑張れません」
顔が青褪める。
「だが、俺は……!」
「わたしたち、まだ子どもです。だから、そんなに思い詰めないでください。わたしは、本当に気にしていませんから」
行きましょう。手を引けば、彼はまた顔を歪めた。
◇
劇場には、多くの人で賑わっていた。
ちらと見れば、チケットを販売所で買ったハーゲンが斜め後ろの席で座っている。
「どうかしたのか?」
敬語から元に戻ったオーディスが不思議そうにする。
「い、いえ何でもありません」
いけないと己を戒める。
そのまま舞台に視線を移動した。
劇場が一層暗くなり、幕が上がる。
劇が始まった。
国で一番有名な勇者の話だった。
彼は元々、自分さえ良ければそれで良いという考えで。冒険者だった彼は勇者に抜擢されても人を遠ざけ続ける。
だけど転機が訪れた。いつかの村で助けた少女。彼についていくと言う彼女が、最初は酷く鬱陶しかった。
少女はそんなこと気にも留めずに彼の後ろをついて回る。次第に、明るい彼女との旅は心の支えにもなっていた。
――それが、駄目だった。
勇者が少女を好いていると知るや否や魔王は少女を連れ去った。この時彼は悟った。どうして自分は誰も愛することがなかったのか。
完璧な勇者になるためだった。
自分の無力さを嘆く勇者に、涙がこみ上げる。
「……君は、昔と変わらず泣き虫だな」
苦笑と共に、隣からハンカチが差し出される。
「ありがとうございます」
クライマックスは目前。挫折する勇者をひっそり見守る。
勇者は少女と出会い、考えが変わった。
本当の勇者みたいに振る舞うようになった。
皆その姿を見て、段々彼に対する考えが変わっていく。
――彼女を取り戻す道中、魔王の臣下たちが襲い掛かってくる。
そんな彼を助けたのは、今まで彼が助けた人々だった。その数は、もはや目測などできようがない程。
皆が彼のために道を切り開く。
そして魔王を討ち、少女を取り戻した。
勇者はそうして、愛する少女と結婚し皆と仲良く、いつまでも幸せに暮らした。
◇
「とっても良いお話でした……。オーディス様。今日は連れてきてくださりありがとうございます」
劇場から出ても興奮冷めやらぬ彼女に、最初より柔らかい表情の彼が首を横に振る。
「俺も、とても楽しかった。そこのカフェで昼ご飯でも食べるか」
「はい、ぜひ」
すぐに二人席に通され、メニュー表と睨み合う。
エッグベネディクトとサンドイッチで心がゆらゆら揺れていた。
「……わたし、決めました。エッグベネディクトにします」
「じゃあ俺はクリームシチューにする」
店員がすぐにやってくる。
メニュー表を見ながらオーディスはスマートに注文した。
「エッグベネディクトと、紅茶……君はミルクティーだったよな? 俺はストレートティー、それとクリームシチューをお願いします」
「はい、かしこまりました」
粛々とお辞儀をして去っていく。
エリーゼは彼に顔を寄せた。
「あの、クリームシチューだけで良いんですか? お腹空いてしまいますよ」
「……いや、良い。最近そんなに食べたいと思わないんだ」
父上は凄いんだと目を輝かせ何でもよく食べた彼が……不安で眉尻を下げる。
取り留めのない会話をしていれば、すぐに料理が運ばれてきた。
とろりとマフィンの上に乗る卵に視線が釘付けになる。
ナイフの刃を入れれば卵黄が溢れ、それをすくいながら口に入れた。
「……〜〜っ」
マフィンのカリッとした食感はとても香ばしくて、ベーコンのしょっぱみが心地良い。
それを卵がまろやかにまとめ上げていた。
舌鼓を打つ。
ちらと見ると、オーディスはもそもそと食べていた。頬の血色が良くて、彼も美味しいと思ってくれているのだと笑う。
食べ終わって、紅茶が運ばれてくる。
シュガーポットを差し出す。
「どうぞ」
紅茶が苦いと、砂糖を沢山入れていた彼を思い出す。
オーディスは目を伏せた。
「もう入れない。時間が経ったからな」
「そうなのですね」
飲んで人心地つく。
時刻は三時。鐘の音が鳴る。
もう終わりの時間だ。
別れる前に、これだけは言いたかった。
緊張でカップを握りしめる。
「オーディス様。あの時は、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。ずっと、謝りたかったんです」
「――君は、どうしていつも……」
「……? 何か今おっしゃいましたか?」
ゆらり、オーディスが立ち上がる。
嫌悪感。顔いっぱいに広がる感情はそれだった。
只事では無さそうな雰囲気に、近くでクロックムッシュを嗜んでいたハーゲンも腰を浮かせる。
エリーゼに、オーディスの影が覆いかぶさった。
「――君はどうして、いつもそうなんだ。どうして怒らない、どうして俺を責めない! 今日だってそうだ。君は断れば良かったんだ……っ。そうする権利がエリーゼにはあるっ、俺は多分、それを望んでいた! ……だけど君はどうだ? ニコニコと昔のように笑って、あまつさえ俺に謝るだなんて!」
悲鳴だった。罪悪感に閉じ込められた小鳥の囀りだった。
怒鳴られているのはエリーゼなのに、よっぽど泣きそうな顔をしていた。
「どうして、エリーゼはそうなんだ! ……君が謝る必要性なんて一欠片もなかった、ほんの少しだって!」
「ですが……」
「君は、どうしてそんなに……」
オロオロとする。
二人に割って入る人物がいた。
「店で騒いでは迷惑だろう。外に出よう」
「アリアシネ侯爵様……」
ハーゲンを一瞥した彼は眉をひそめる。
「一体、どういう関係なんだ……?」
ぽ、と頬が赤らむ。
「わたしが想いを寄せている人、です」
◇◇◇
お目付け役として騎士の他に彼についてきてもらった。
そう説明すれば、納得したのか瞳が和らぐ。
「そうだったのか……」
「はい。今日は、とても楽しかったです」
はく、と口が動く。
「――俺も、とても楽しかった」
小さい声が、耳に届く。
誰に聞かせるわけでもない声音だった。
「最後に、エリーゼに会えたら……そう思っていたんだ」
◇
ハーゲンと共に車に揺られる。
思い起こすのはオーディスのこと。彼の言った言葉の意味を計りかねていた。
「……なんだか、様子がおかしかったですよね」
「そうだな」
エリーゼは病弱で世間を知らない。耳に入れる噂話も、母親に制限されているようだった。
だから、オーディスの素行が悪く勘当されるように領地へ帰ることも知らないのだろう。
同じく噂話など興味ないハーゲンも知らなかったが、今日に備えて調べていた。
――それにしても、
青い髪の青年を思い起こし、なんとも言えない気持ちになった。
「彼は、領地に帰るらしい」
「まあ……そうだったのですね」
納得したのか目に光を宿した彼女に、それを告げるべきか悩んだ。
「アリアシネ侯爵様も今日はありがとうございました」
微笑む彼女に、今日の青年の言葉を想起する。
言いえて妙だった。
エリーゼはどうしてそうなのか。
彼女には、恐れることなどないのだろうか?
――いや違う。これは彼女への侮辱に等しい。
他の人が普通にしていることができない彼女は、感情を隠す術を身に着けた。無意識の内に。
そうであるならば。
どんな臆病者でも、身を奮い立たせる理由ができてしまうのだろう。
◇
ハーゲンとエリーゼのデート。三日も経たない内にハーゲンから誘いの手紙が届いた。
「まあまあ! お誘いの連絡です。ふふっ当日は何を着ましょう……」
ベッドの上で跳ねる。母親に見られたら咎められそうだと分かっていながらも、嬉しくてついつい止まらない。
「ふふ。…………ぅ、」
きゅ、と心臓が苦しくなって蹲る。
幸いすぐに収まったが、脂汗が額を伝った。
ドッと湧き出る悪い予感に息が詰まりそうになる。
「嫌、嫌……。ようやく、好きな人と一緒にいるのに……」
神様。
どうか、お願いします。
いつだって願いを叶えてくれない酷い人にだって、頼るだけならただだと祈る。
「アリアシネ侯爵様……」
ずっと怖くて聞けなかった。
自分の寿命を。
彼は優しい人だから、教えてくれないだろうけど。
「……大丈夫、わたしはまだ死なない」
星がチカチカと光る。金の光をまとった月がエリーゼを見下ろしていた。
◇◇◇
「おはようございます。良いお天気ですね」
「そうだな」
朝早くからおめかしをしたエリーゼは、ハーゲンの前でくるりと回ってみたりする。深い青色のスカートがふわりと舞う。だが反応は素っ気ない。
代わりに、失礼すると一声かけられた。
「リボンが曲がっている」
髪の毛に結ばれたリボンの位置を正される。
「あ、さっきから緊張して、髪を触っていたから……」
恥ずかしくてまた髪をいじってしまう。
一人だけ浮かれて、泣きたくなった。
「今日は一つに結んでいるんだな。新鮮で良いと思う」
ばっと顔を上げる。
普段ハーフアップにしているが気分を変えようと違う髪型をメイドにお願いしたのだ。
功を奏すとは。
さっきまでのモヤモヤがどこかへ飛んでいく。
「えへへ、似合うって褒められてしまいました」
「違う。新鮮だと言ったんだ」
「えへへ……」
「聞いているのか?」
まあ良い。行こう。エスコートされハーゲンの馬車に乗る。
どこに行くかはまだ知らされていなかった。
秘密らしい。
カーテンの隙間から外を伺う。もう知らない道を走っていた。
黄色くなった葉が落ち、絨毯を敷く。その上を車輪が転がる。
二人を乗せた馬車はどこまでも進んで行く――
「空気の綺麗なところだ」
どこに行くのか再度尋ねれば、ようやく彼は返してくれた。だがあまりにも抽象的でむくれてしまう。
それからも、色々なことを話した。話し始めるのはいつもエリーゼだったが、彼も時折笑うから嬉しくなって色んなことを話してしまう。
だけど、不意に口が止まる。
「……アリアシネ侯爵様。オーディス様どうしちゃったのでしょうか? ずっと、彼っぽくなくて……」
指を一本立てる。
「一つ質問をしよう。人が変わるのはどんな時だと思う?」
「変わる……。後悔とか、ですかね。あとは……記憶喪失とか?」
「そうだな」
どうやら正解ではないらしい。
答えとまではいかなくても……とヒントをねだる。
「……彼の中にあるのは、後悔。だが、それに至る過程があったはずだ」
一層分からなくなってしまう。
――ガタゴトと馬車は進んで行く。目的の場所へ。
「そろそろだ」
日が高く昇っている。お昼はバスケットで持参したサンドイッチを美味しく食べ、眠気が押し寄せたエリーゼは肩を揺らしていた。
声に起こされる。
のどかな草原の丘が広がっている。
そこに、小さな屋敷が建っている。
「素敵な場所ですねぇ」
でもなぜここ?
疑問を呈せば、まっすぐに指をさされる、屋敷へ。
「先程の質問だが。私はこう考えるよ。――その人と同じ立場になった時だと」
思考が澄んではっきりする。
「まさか……」
痺れる体を叱咤する。
呼び鈴を鳴らせば執事が出る。
「わたしはエリーゼ・フェンテッドです。オーディス様に、お会いできますか?」
執事の顔に動揺が走る。
「……何人たりとも自室に通すなと仰せつかっております故」
「お願いします。このままお別れだなんて、嫌なんです」
顔を俯かせた執事は、屋敷へと帰っていく。
門を開けたまま。
「え、あの……」
「おや、閉め忘れてしまったようです。これでは、誰が入っても咎めることなどできませんね」
息を呑む。
「ありがとうございます」
「何も聞こえませんなぁ。……これは独り言ですがな。こちらこそ、本当にありがとうございます」
真っ直ぐに進む。
迷いはなかった。
だって自分ならそこにいるから。
庭が見える方角で、玄関から近い場所。
開け放たれた部屋があった。
中を覗き込めば、青髪の青年がベッドの上で本を読んでいる。
「エリーゼ!?」
彼の頬は少しコケていた。指もカサついている。
「どうしてここに……」
「アリアシネ侯爵様が、わたしを導いてくれました。オーディス様、お体の加減が悪いのですか?」
顔を背けられた。
「体を、酒で壊してしまってね。はは……いや、なんというかな。父上に見限られてから、全てが無気力になってね。酒に溺れたんだ。兄上たちがいるから、俺は絶対に必要だったわけではなかったし……」
長い独白。
彼の顔がくしゃりと歪む。
「敬愛していた父上から背を向けられて……。ままならない体の不調を抱えていた時に、ずっと頭の中を占めていた君がひょっこり目の前に現れた。……それで、俺は、」
エリーゼに、謝りたかったんだ。
か細い声だった。ともすれば落っことしてしまいそうな。
「酷いことをした。本当に、すまなかった」
「はい」
両の瞳から、涙がボロボロ溢れる。
シーツを斑な灰色に染めた。
「本当は、ずっと、ずっと前から……謝りかったんだ」
「知っていますよ。オーディス様は、とても真っ直ぐな方ですから。だからもう良いんです。良いんですよ」
まだ泣いているのに、朗らかに笑う。
子どもみたいな笑顔だった。
「ようやく、謝れた。今日は人生で、一番良い日だ」
「……どうか、オーディス様にとってこれからの人生が、今日よりもっと良い日でありますように。そう、祈らせてくださいね」
例え寿命が短くとも、諦めないでほしい。
「……エリーゼ」
「はい」
「本当に、すまなかった」
「はい」
オーディスの涙は、止まっていた。恥ずかしそうに目元を擦る。
それからも何度もすまないを繰り返すものだから、エリーゼは途中で遮った。
「オーディス様。わたしたちね、まだまだ子どもなんですよ。大人だからと、勘違いしているだけで」
「そういうものなのか?」
「えぇ。だから大丈夫です。そんなに自分を思い詰めないでください」
手を握る。細くて骨ばっていて、今にも折れてしまいそうな手だった。昔と全然違う。
手に馴染む温かさだけが一緒だった。
「エリーゼ、俺がこんなこと言う資格はないと分かっている。だが、君には幸せになってほしい。誰よりも」
思い詰めた顔からふっと力が抜けた。
「……なんて言う必要はなかったな。アリアシネ侯爵卿のことが好きだと言っていたろう? エリーゼなら大丈夫だ。きっと恋が実る」
「ありがとうございます。わたし、頑張りますね」
握りこぶしを作り笑ってみせる。
安心したように彼の顔も安らいだ。
「でも」
「ん?」
「わたしは、ずっと幸せでしたよ。オーディス様と過ごした日々も、かけがえのない幸福の思い出です」
雪が降る日。熱が出て外で遊べないエリーゼを気遣って、外側の窓に小さな雪うさぎを置いてくれた。
剣を持たせてくれた。
調子が良くて遊びに行ける時、兄と一緒に手を引いてくれた。
毎日が、とても幸せだった。
「だからもう、自分を卑下しないでください」
「……あぁ、約束するよ」
ドアノブに手をかける。
「今日は来てくれてありがとう」
最後にそう言われた。
◇
執事に見守られ、門をくぐる。
探せば、草原に彼は立っていた。黒髪が風に靡いている。
「……アリアシネ侯爵様」
「もう十分か?」
その言い方から、長くない寿命を知っていたのだと察する。
「見えていたんですね」
「付き添いで行った日にな。……あの時は驚いたよ。強い酒なども仲間から勧められ飲んでいたと聞いた。それで体を崩したのだろう」
あくまで彼の態度は飄々としている。
「どうだった。死に征く者、二人の最後に立ち会って」
「辛いことばかりでした」
はっきり明瞭に答える。
いささか予想外だったようで、ハーゲンは目を見開いた。
「特にアルヴァ叔母様は最初から聞かされていたので……辛くて、胸が張り裂けてしまいそうでした。誰に伝えるわけにもいきませんし……。こんな気持ちを、アリアシネ侯爵様も抱えていらしたんですね」
「……私は、そこまでではない」
嘘だと否定する。
思い詰めた顔をして、彼はまだ虚勢を張るというのか。
「いいえ。辛かった筈です。だから今回、わたしに伝えるのも悩んでいたんですよね? 自分が傷つくように、わたしも傷つくと思ったから」
無言を返される。
空に濃いスミレ色の帳が下りる。相反するように地平線は橙色に輝いていた。
薄く光り始めた星は、沈んでいく太陽を追いかける。
二人にも濃い影が覆い被さる。澄んだ冷たい空気が肌を撫でた。
「アリアシネ侯爵様。自分を追い詰めないでください。一人で溜め込むのはとても苦しいですけど、わたしが今はいます。どうか頼ってください」
「それでは君に迷惑がかかるだろう」
「役得ですよ」
――今日は君がいる。
脳にこびりついている。
彼は何度、一人で誰かの死に立ち会ったのだろうと考えるだけで心臓が壊れてしまいそうだった。
「わたし、貴方の力になりたいんです」
にこっと笑う。
「懲りないな、君は」
エスコートされ、馬車に乗り込む。
窓越しに屋敷を見る。動き出せば、どんどん遠ざかっていく。
もう彼には、二度と会えないのだろう。
「アリアシネ侯爵様。そう言えばいつになったらわたしを名前で呼んでくださるのですか? ずっと待っていますのに」
「では、そのまま一生待ってればいい」
「……意地悪です」
「なんとでも結構」
にべもない。頬を膨らませるエリーゼに、思わずとハーゲンは喉の奥で忍ぶように笑った。
「分かった。気が向いたら呼ぼう」
「絶対ですからね? 絶対ですよ?」
寂しさを乗せた馬車の車輪は回る、回る。
その景色を、無理やり体を起こした青年は見ていた。
「さよなら、エリーゼ――」
二ヶ月後、彼の訃報が聞かされた。
◇◇◇
あの後、両親にもオーディスと会ったことを話して。
少し経ってから。両親に、彼が亡くなったことを聞かされた。
ヨハナに抱きすくめられて、覚悟はできていたはずなのに涙が止まらなかった。
自室に戻り、すんと鼻を鳴らす。
今度花を供えに行こうと決意を新たにする。
静かな部屋で、衣が擦れる音や足音だけが鮮明に響く。
彼は今どこにいるのだろうか。
天国が本当にあるのなら。思い詰めることも、寂しさを埋めるように何かに耽溺するようなこともない、優しい世界に彼が身を置いていることを切に願う。
小鳥の鳴き声が耳朶を打った。
振り向けば、開け放たれた窓の向こうにあるベランダ――その手すりに青い小鳥がいる。
美しい鳴き声を二、三度エリーゼに披露し、満足したようにまた飛び立っていった。
強い風が吹き、レースのカーテンで視界が埋もれる。
次に目を開けた時、もうどこにも小鳥の姿はない。
それは自由の象徴だった。
あの日 世界が壊れてしまったと思いました
けどあなたの世界は 綺麗なままでした
嬉しくて 涙がぽろぽろ止まりませんでした




