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II わたしはチューリップを胸いっぱいに抱きしめてる

お読みいただきありがとうございます。

 ハーゲンのルーティンの一つは、夏に行われる祭りに参加することだ。

 特に今訪れている、小規模だが活気のある祭りには毎回参加している。


 理由はただ一つ。この祭りは踊るからだ。


◇◇◇


 抱えられるくらいの大きさの太鼓を叩き、それに合わせ笛の音が鳴る。加えて広場の中央で踊る人たちの腕についた鈴が、音を奏でていた。

 軽装のハーゲンも、一緒になって踊る。

 ここでは夫婦同士や友と一緒に踊る人もいるが、一人で踊る人も少なくない。したがって、あいつ去年も見たなと思われはしても、悪目立ちをすることはなかった。


 夜会などとは違い、時折跳ねたりと軽快なダンスは心地良い。

 ハーゲンはこの祭りを何よりも愛していた。

 ここでなら、自分のために踊れるからだ。


 いつかの友を思い出す。

 

「どうしてお前の肌は若々しいんだよぉ」


 彼は不摂生過ぎるのだ。

 ぼやくアルドにも、今度祭りに参加したら良いという趣旨の手紙を考えよう――そう思いながら曲が終わる。

 人々と一緒にポーズを決めたハーゲンは、一際大きな拍手に引かれ、そこにいるエリーゼに驚いた。


 なぜいる。考えはそれだけになる。


「すごーい。凄いです!」

「お嬢ちゃん、そこはブラボーだよ」

「ブラボー!」


 軽装の彼女に近づく。


「君がどうしてこんな所にいるんだ」


 声を潜めれば、彼女の声も小さくなる。


「わたし、アリアシネ侯爵様なら絶対この祭りに来ると思っていたんです。安心してください、ちゃんと護衛もおります」

「――……そういう問題では……」


 がっくりと項垂れるハーゲン。周りの人々は野次馬と化し、二人の動向を見守っている。


 ぱぱーん。エリーゼが桃色の花を掲げた。

 どよめきが起こる。


「……おい、まさか」

「どうか、わたしと一緒にお祭りを回っていただけませんか?」


 掲げられた花の意味に気づいた時にはもう遅い。この祭りの風習である「花渡し」――女性が男性に誘いをかけ、花を受け取った男性と共に祭りを回れたら添い遂げることができる――をエリーゼは実行していた。

 すぐに断ろうと思ったが、いくつもの目がハーゲンの背中を突き刺す。


「あんな可愛いお嬢ちゃんを、まさか振る気?」

「いやいやさすがにないでしょ。男として信じられないわ」

「もし断られてたら、俺が代わりに誘っちゃおうかなぁ」


 最後の言葉が決め手となった。

 関わりのある女性が毒牙にかかるのは本望ではない。


 顔を仏頂面にしながら花を受け取ったハーゲンは、胸元に挿す。


「まぁ……っ」


 顔を華やかせる彼女と対照的にため息をついた。


「まずどこに行きたい?」

「お肉が食べたいです」

「……君は、豪快だな」


 右腕を数度擦りながらエリーゼは、えへへとはにかむ。

 褒めてないのだが。恨み言を飲み込んだ。


「では、行くか」

「はい!」


 エリーゼの左側に回った彼が腕を差し出すと、嬉しそうに腕を絡ませた。

 しかし、不意に不安そうな顔をする。


「アリアシネ侯爵……」

「待った。君はこの場で私をそんな風に呼び続けるつもりなのか?」


 たしかに。エリーゼは慌てて口を閉じ、困った顔をした。


「ではどうお呼びすれば――」

「ハーゲンで良い」


「よろしいの、ですか?」


 紫の瞳がまん丸く、光を反射する。コクリと頷けば、彼女は何度も名前を反芻した。

 さっきより血色が良い。呼ぶ度にツヤツヤしている気がする。


「改めまして、ハーゲン様は護衛の方はいらっしゃらないのですか?」

「いない。私は、たとえ死んでも構わないからな」

「……それは、誰にとっても淋しくて、無責任な言葉な気がします」


 儚く笑ったエリーゼは、とりなすように「串肉の露店はあちらのようですね」指さした。

 ゆっくりとした歩幅で歩くが、人が多く小さい彼女は苦しそうにしている。胸に抱き込むようにすれば、幾分か楽になったようだった。代わりに、こちらを見上げはくはくと口を開けたり閉じたりさせている。

 そのまま移動し、露店の前について体を離した時にはもう、耳まで真っ赤だった。


「うぅ〜……」


頬に手を当て熱を冷ました彼女は、ずいと小さな袋を取り出した。


「で、では早速買いましょうか……」

「思ったが、君は変わった嗜好を持っているんだな」

 てっきり果実飴やらを真っ先に選ぶと踏んでいたのに。


「わたし身体が弱くて、お祭りに行けないのは勿論、食事制限もあったんです。……だから決めていました! お祭りで一番にお肉を食べるぞ、と!」

「なるほど」


 短い返答にもエリーゼはめげない。


「教えてもらったんです。美味しいお肉に齧り付くのは至上の幸せだと!」

「お、そりゃ嬉しいねえ」


 店主が相槌を打ちながら、何本と尋ねる。


「二本お願いします。わたし、お小遣いももらってきたのでハーゲン様の分も買わせてください。……その、迷惑料、ということで」


 上目遣いにこちらを見上げるエリーゼに、深いため息をつく。


「迷惑だとは思っていない。私が払おう。店主、いくらだ」

「二人の仲を祝福して、これでいいよ」

「…………そうか」


 指を二本立て歯を見せ笑う店主に、苦いものを噛み潰した顔でハーゲンは払う。


「ほら」

「ありがとうございます」


 きらきらと頬を紅潮させ、よく息を吹きかけてからエリーゼは齧り付いた。

 貴族令嬢は齧り付くという行為に躊躇するかと思っていたハーゲンは目を細めた。


「……!」


 噛んだ所からジュワリと肉汁が飛び出し、香辛料がよく効いた肉が口いっぱいになる。

 よく噛んでから飲み込んだエリーゼは、頬を押さえうっとりとした。


「し、幸せです……とっても美味しい」

「良かったな」


 小さい口でちまちま食べる彼女だったが、脂で苦しくなってきたのか更に小さい口でついばむように肉を食べる。

 先に食べ終わったハーゲンが手を差し出した。


「私が食べよう。無理をするのはよくない」

「いえ、わたしが食べたいと言ったのですから……」


 顔を曇らせる。ハーゲンは咳払いをした。


「私は君より身体が大きい。その分、腹が減るんだ。遠慮することはない」


 まだ躊躇った様子だったが、串を渡すとハーゲンは一息つく間に全て食べ終えた。

 口を拭き、またエスコートする。


「次はどこに行きたい?」

「わたし、本の市に行ってみたいです」


 そうか、と言った気がする。

 

 夜が更けていく。


◇◇◇


 本の市では、見渡す限りに本が並べてあった。


「素敵、素敵です……! まあまあまあ、これは絶版になった……っ」

「少し落ち着きなさい」

「はい!」


 ニコニコと、話を聞いているのかいないのか。エリーゼはハーゲンの下を離れ本を見て回っている。


 ふう、本を一冊手に取る。パラパラとめくれば、エリーゼが共に覗き込んだ。


「まあ、これは勇者様が旅に出るお話ですよね。わたしは最後の……っと、ネタバレは厳禁でした」

「君は本をよく読んでいるんだな」


 関心したようなハーゲンに、嬉しそうにえへへと頬をかく。


「ベッドの上での生活が長かったので」


 誰もが自分に付きっきりになれるわけではない。その寂しさを埋めるために、よく本を読んでいた。

 エリーゼは、物語を愛していた。文字を辿ればいつだって、勇者にも聖女にも、料理人にだって王様にもなれたから。


 体の調子が良かった日。大好きな本の観劇に、兄が連れて行ってくれたことを思い出す。

 スポットライトに照らされて演じている人たちを見た時、心が揺さぶられた。

 いつか、あんな風に自分も演じてみたい――


 

 いや、できるはずがない。

 

 ぱっと顔を上げる。


「だから誰よりも本を読んでいる自信がありますよ! 大抵の本は分かります。なにか、本のタイトルを言ってみてください。中身を当てちゃいますよ」

「そうか。……では『水蜜桃が実る日』」

「王女と執事の、叶わない恋のお話ですよね……切なくてとても好きな本の一つです」


 ハーゲンが露店に並んだ本を見ながらいくつかタイトルを挙げるが、すらすらと答えていく。

 ふふん、と鼻を鳴らした。


「――では『花のゆりかご』は?」

「……知りません」


 エリーゼの顔が赤くなり、目に涙が溜まる。


「あの、でも……嘘じゃなくて……」


 慌てる彼女に、ハーゲンがくっと笑みをこぼした。


「意地悪な質問をした。君が知らないのは当然だ。この話は、在学中にエルドウィンが書いた話だからな。今度、読ませてもらうと良い」

「そうだったのですね。はい、今度借りてきます」


 初めて笑う彼に見惚れる。

 この間怖い思いをしたんだ。これくらいは許される。ハーゲンの軽口に、くすぐったい気持ちになって、この時間が続くことを願ってしまう。


 

「今日は、ありがとうございました。とても楽しかったです」

「それは良かった」


 一冊の本を携えながら、エリーゼは礼をする。


「……あの、ハーゲン様。良かったらこれからもわたしと、」

「エリーゼっ」


 矢のような女の声に呼び止められた。振り向いた彼女は「お母様……」と呟く。

 ()()()? 茶髪茶目の女に、ハーゲンは目を眇めた。


 それから、納得する。

 彼女は後妻だ。たしか、病気で亡くなってしまった前妻の代わりに、子供たちの世話を頼まれたと聞いている。


 眉をつり上げながら、エリーゼの母親――ヨハナは近づいてくる。


「一人で十分と言っていたけど、やっぱり心配だから来たのよ……」

「そうだったのですね」


 自身頭を押さえ、彼女は吠えた。


「そんなことはどうでもいいの、エリーゼ、これはどういうことなの。騎士たちは一体何をしているの。知らない男と二人きりなんて――!」

「お母様。彼は知らない男性ではありません。アリアシネ侯爵家のハーゲン様です」

「このような姿で失礼いたします。そちらの御令嬢とは、偶然お会いいたしまして」


 説明をするが、暗い瞳が射抜く。


「偶然会って、どうして行動を共にするんですか? わたくしの娘に、何をする気だったのですか!」

 ここまで敵意を向けられれば、もう自分から言えることはない。


 そう引こうとしたが、エリーゼが身を乗り出し言い返した。


「わたしの方から、一緒に回らないかと誘ったのです。ハーゲン様は何も悪くありません……!」

「……名前」


 ユラリとヨハナが呟いた。


「なんで、名前で呼んでいるの? まさか、貴女がこの間言っていた好きな人って、彼?」


 ハッと口を押さえるがもう遅い。ハーゲンは額に手を当てた。


「えっと、その……」

「……ッ、こんな変人と名高くて、しかもわたくしと年齢が十程しか変わらない人とだなんて、絶対駄目に決まってるじゃない!」


 ハーゲンは自分が貶されているのに思わず同意してしまった。やはりエリーゼはおかしいのだ。

 この際、彼女の失礼な言動には目をつぶることにする。


「…………」


 黙るエリーゼに、ヨハナは詰め寄る。


「貴女にはもっと相応しい人がいるはずなのよ! さあ、帰るわよ!」


 助けを求めるようなエリーゼの瞳にも、無言を返す。

 傍観を貫こうと思っていた。


 しかし、彼女の手がエリーゼの右腕に迫っているのを見て、思わず二人の間に体を滑り込ませてしまった。


「……っ、なんですか! これ以上邪魔をすると言うなら、侯爵卿でも――」

「彼女は右腕を怪我している。引っ張れば、痛いはずだ」


 ヨハナの顔が引き攣った。

 震え、エリーゼに目を向ける。エリーゼも、呆然とした表情を形作っていた。


「いつから、気づいていたんですか……」

「最初からだ。右腕を執拗に擦っていたからな」


 ――『右腕を数度擦りながら』

 『エリーゼの左側に回った彼が腕を差し出す』


「……はい。ハーゲン様に出会う前に、打つけてしまって……」


 うそ……。蒼白な顔で、細い声を出したヨハナは、それでもハーゲンを睨みつけた。

 左手を取り、騎士を連れ足早に去っていく。


 何度も後ろを振り返り、頭を下げるエリーゼにひらりと手を振った。


 嵐が過ぎ去り、空を見上げる。

 真っ黒な世界に、銀色の星が瞬き一等大きな満月が煌々と光を放っている。


 湿った空気が頬を撫で、夏の終わりを知らせていた。


◇◇◇


 ヨハナが乗ってきた車に半強制的に乗らされる。隣に腰掛け、車が音を立て動き始めた。

 ヨハナは苛立たしげに拳を握る。


「エリーゼ、分かった? 彼とはもう会っては駄目。関わっている所を見られては、貴女の結婚相手を探す時にも障害となるわ」

「でも……」

「貴女はわたくしの言う通りにしていればいいの」


 エリーゼは体を小さくさせた。

 ヨハナの言葉は止まらない。


 窓ガラスが、エリーゼの冴えない表情を夜空に映し出していた。


「まったく……良い歳をして独身で、挙げ句には一人で踊る『変わり者』。一緒にいることを知られたら、それだけで悪評が立つわ。これからは関わっては駄目よ」


 散々な言われように、むっとしてしまう。

 その通りではあるが、実際の彼は全然違う。『変わり者』という言葉一つで、ハーゲンという人間をまとめないでほしい。


「……ハーゲン様は、お母様がいうような人ではありません。昔、言いましたよね? 初めての夜会で気分が悪くなったわたしを助けてくれた人がいると。それがハーゲン様なんです」

「だとしても、彼は変わり者よ? 関わるべきではないわ」


 ワンピースをキツく握りしめる。紡ぐ言葉全てが否定されるのは初めてだった。


 一歳の頃に母になってくれたヨハナは、いつもエリーゼをとびきりの愛で包んでくれた。

 抱っこをねだれば、いつだってしてくれたものだ。


 車が止まる。屋敷の前に着いたのだろう。


 エリーゼは瞳を潤ませながらも、強く母親を見据えた。


「……お母様が、否定するのですか? 体調を崩した人間を介抱してくれる人の善性を」


 エリーゼが吐いた時には率先して服を着替えさせてくれたり、熱を出せば一晩中付きっきりで看病してくれた人が。

 それを当たり前じゃないとエリーゼは知っているから。


「お母様は、わたしが辛い時側にいてくれました。とても、嬉しかった。だから、そんなお母様が見た目や噂だけで、ハーゲン様を判断しないでください……!」

「……エリーゼ」


 堪えきれず、涙が一滴拳を叩く。


「他の誰でもない、お母様にだけは……ハーゲン様の優しさを否定してほしくなかったです」


 自分で車を降りたエリーゼは、涙を零しながら屋敷に吸い込まれていく。

 ただ見守ることしかできなかった。



 暫く放心した後に、エリーゼの部屋に訪れる。勇気を出し扉を叩くが、返事は返ってこない。メイドに尋ねれば、既に就寝済みだと聞かされた。


 今日はもうどうすることもできない。

 寝室で電気もつけぬまま、眠りやすくなるハーブティーを飲む。泣き言に似たため息が漏れてしまった。



 ――エリーゼは、親友の子供だった。


「私たち、ずっと親友。約束よ?」

「勿論よマリー」


 学生時代から仲が良かった。ヨハナは、風に吹かれるマリーのすみれ色の髪が好きだった。

 夢見がちな彼女は、よくヨハナに未来の話をする。

 

「私の子供にはね、女の子ならエリーゼと名付けるの。男の子ならブレンよ。素敵でしょ?」

「ええ、とっても」

「ヨハナは? ヨハナは、どんな名前にする?」

「そうね、わたくしなら――」


 将来の話をする時、なんだか心臓が痛いけどとても幸せな時間だと思った。


 両親が仮面夫婦で冷え切っていたヨハナにとって、マリーは光の象徴。希望そのものだった。


 マリーは、いつもふわふわした女の子だった。掴みどころがなくて、わたくしがしっかりしなければと考えたことは数え切れない。

 だけどヨハナが落ち込んだ時、いつも一番に気がつくのはやっぱり彼女だった。

 いつだって、隣に腰を下ろし深くは聞かず笑ってくれる。


「これあげる。ポプリよ、良い香りでしょ?」

 お揃いのポプリは、肌見放さず持っている。


 絵を描くのが上手だった。代わりに文章を書くのは苦手そうにしてたけど。

 二人で花の絵を描いた、朝露に濡れたチューリップ、深紅に色づく薔薇、日に照らされたすみれ。

 ヨハナはいつも上手く描けなくてしょぼくれるけど、コロコロ笑う彼女を見れればそれだけで幸せだった。


 

 学園を卒業すると共に、マリーは結婚した。

 結婚式。金髪の美丈夫の隣で一等幸せそうに微笑むマリーに涙が頬を伝う。

 彼女の夫に対する妬みだけではなかった。マリーが幸せであることをただ願った。


 それから時は流れて。ヨハナも結婚し、領地が離れている二人が会うことは、格段に減っていた。それでも交流はなんとか続けていたけど、手紙が苦手なマリーのせいで文通は思った通りにはいかず、またヨハナも忙しかった。

 会えない時間が続いた。


 ――その間に、マリーは死んだ。


 二十八歳。マリーが死んだ年。彼女にとっても、激動であったはずだ。だけどヨハナにとっても目まぐるしい日々だった。とだけ墓の前で弁明した。


 ヨハナが子を成せない身体だと分かったのは、いつの頃だったか。興味を急速に失うみたいに夫は愛人を持ち、愛人が懐妊し建前は双方同意という形で離婚となった。


 全てが噛み合わなかったのだと思う。


 夫に慰謝料と共に屋敷から追い出され、向かったのはマリーの所だった。

 助けてほしい訳ではなかった。彼女の顔を、一目見たいだけだった。

 だけど屋敷に彼女の姿はなくて、喪服に身を包んだ彼女の夫が出迎えた。


「……産後の肥立ちが悪く段々体調を崩していってね。先日、旅立ったよ。今は葬式の準備をしている」

「そう、ですか……」

「君宛てに手紙を預かっていた。すまない。忙しくて、中々送れなかった」


 そっと手紙を受け取る。開けば、見知った筆跡で綴られていた。


『ヨハナへ

 永遠に、大好きだよ。ずっと私の味方でいてね』


「……手紙書くの苦手なのは、変わらないね」


 ポタ、手紙に灰色のシミが一つ。

 慌てて手紙を閉まった。


 ねえ、わたくし貴女のためになにができる? 貴女のためになること――


 疲れたように眉間を揉む彼女の夫が、目に止まった。


「新しい妻は、もうお考えですか?」


 さっと顔色が変わる。


「……っ考えているわけないだろう!」


 怒声にも怯むことはない。


「でしたら、わたくしを後妻に迎えてはいただけませんか? そうすれば、貴方も煩わしい誘いはなくなるでしょう」


 ヨハナの真意に気づいたのか、君は、と呟いた。


「わたくしは子を成せません。貴方の愛を望みません」


 強い視線で射抜く。


 そこで、扉の向こうから声が聞こえた。

 ままぁ、ままぁ、母を求める泣き声だった。

 彼が腰を浮かした。同時にメイドが子を抱いて入室する。

 ぐずる子は、マリーと同じすみれの瞳だった。


「一歳の娘のエリーゼです。マリーがいなくなったことを、まだ理解できないのでしょう」


 しゃがみ込んで手を伸ばす。

 ソファに下ろされたエリーゼは、ぼんやりヨハナを見つめる。



 鼻をすすりながら、拠り所を見つけたようにヨハナに縋り付いた。


「……どうして」

「わたくしが、マリーと同じ匂いのポプリを持っているからだと思います」


 背を叩いてあやせば、泣き疲れたのかすぐに眠ってしまった。


「どうでしょうか。わたくしに、この子たちの母親役をさせてもらう、というのは」


 彼は、初めて笑った。


「ぜひとも、お願いしたい」



 最初、屋敷に眠るマリーの面影をよく探していた気がする。


 けど、段々探す暇はなくなっていった。

 エリーゼの身体は、それほどまでに弱かった。


 一度熱を出せば、心配で夜も眠れなかった。咳をすればすぐに医者に掛け合った。


 子どもである二人を、心から愛している。



 だからこそ思う。自分はいつ、彼らの本当の母親になれるのかと。誰に言われた訳でもないのに、いつだって疎外感がある。

 この痛みは、いつになったら癒えるのだろう。


「ヨハナ、まだ起きていたのか」

「旦那様」


 いつの間にか帰ってきていたらしい。慌てて表情を取り繕うが、次第に上手くいかなくなる。


「灯りくらいつければ良いのに」


 頭上の電球が暫し瞬いてから光った。


 ぽんやりと今日あったことの話をする。

 ハーゲンとのことを聞く頃には、口調は責めるものに変わっていた。


「エリーゼとアリアシネ侯爵卿のこと、貴方は知っていましたか?」

「ああ、この間の夜会で話している姿を見た。調べさせていただいたが、やはり怪しい人ではないな。むしろ貴族としては珍しいくらいの人格者だ」

「……どうして、言ってくださらなかったのですか!」


 いけないと分かっているのに八つ当たりしてしまう。


「だって君は、きっとエリーゼの口から聞きたかっただろう?」


 冷静な声に、我に返った。

 そうだ。エリーゼを心から愛しているから、きっと自分で聞きたかったと思うだろう。


 ハーブティーをもう一口飲む。


「わたくし、駄目ですね。いつまで経っても良い母親になれない」


 いつだって不完全。偽物の母親の限界は、きっとここなのだろう。

 自嘲気味に言えば、静かに否定された。


「そんなことはない。僕は、君がいなければきっととっくの昔に駄目になっていた。息子と娘を遠ざける、嫌な父親になっていたかもしれない」


 でも、そうはならなかった。


「君が、二人を母として愛してくれたから。不安定だった我が家の舟のオールを、君が漕いでくれた。他の誰かでは駄目だったよ」


 手をそっと握られる。

 泣いたのは、母になると決めた日以来であった。


「それに知ってる? エリーゼの笑顔、ヨハナにとっても似ているんだよ。柔らかくて、素敵な笑顔だ。そんな君に似ているあの子が選んだ人なら、きっと大丈夫」


 心がふっと楽になった。

 体の底に溜まった重いものが、消えていくような心地だった。


「巣立ちの時だ。見守ろう、子供たちの行く末を」


 ソファに座り、隣に腰を下ろした夫――べモートに体を預ける。

 二、三度欠伸が漏れ、そのまま目を閉じた。



 ――温かい陽の光を受けながら、マリーがいる。放課後よくカフェでお茶をした。

 こちらが顔を顰めてしまうくらい紅茶に砂糖を入れる彼女は、ミルクまでも大量に入れている。


「ねえ、ねえ。ヨハナはどんな名前をつけたい? 私だけなんて、不公平だよ」


 ぷうと頬を膨らませ抗議する彼女に、くすくす笑みが漏れた。

 無糖で、レモンの輪切りが浮かべられた紅茶で喉を潤す。


「……この間も言ったけれど、わたくしは、特にはないわ」

「えぇー。本当に?」


 軽くまぶたを閉じた。


「うん。――だって、生まれてきてくれれば、後には何も望まないもの」


 目を瞬かせた彼女も、優しくはにかんだ。


「そうね、たしかにそうだわ」



 そう。生まれてきてくれたことが何よりも幸福だった。

 眠れない夜だって苦ではなかった。笑うエリーゼの小ちゃい手を握り、ブレンを抱きしめるだけで、疲れなんて吹っ飛んでしまった。


 子を成せないと知った日の虚無感を埋めてくれたのは、間違いなく二人だった。


 いつから、その気持ちを忘れていたのだろう。

 ずっと隣にいて、当たり前になっていたのだろうか。


◇◇◇


 朝。

 エリーゼはむんと意気込んでいた。


「もっとアリアシネ侯爵様の素敵な所を話したら、きっとお母様だって分かってくれるはず。えっと。アリアシネ侯爵様の素敵な所は暫定百七十八個見つかってるけど、特に好きな所は――」


 食堂に向かう道で、指折り数える。

 

 辿り着いた食堂には、既に父親と母親が待っていた。兄は外交官として働いているのでいない。


「お、おはようございます!」

「ええ、おはようエリーゼ」

「今日も早いな、エリーゼ」


 穏やかな反応に首を傾げる。もっと昨日のことを言われると思っていた。

 それでも一応反抗してみる。


「あの、アリアシネ侯爵様のことですが……っ」

「エリーゼ」

「は、はいっ」


 ついピシリと背筋が伸びてしまった。

 エリーゼは母と喧嘩したことがないのだ。ソロリと、薄目でヨハナを窺う。


 ――彼女は、微笑んでいた。


「侯爵卿との関わりを絶ちなさい、と言ったのは撤回するわ」

「お母様……」

「だけど! 安易に二人きりにならないこと、そして何かあればすぐに相談すること。……全てが終わった後に知るのは、辛いのよ」


 素直に頷く彼女を、席から立ち上がり優しく抱きしめる。


「わたくしが、エリーゼのどれだけの力になれるかなんて分からないわ。だけど心配くらいさせて。わたくしは、お母様なのだから」

「……はい。はいっ」


 その様子を、満足そうに父は見つめる。

 

 歪な形の家族は、何かに打つかる度に段々角が取れていく。

 きっと今日、歪は丸になったのだろう。




 次の夜会。ミラからの情報提供によって、ハーゲンとエリーゼは邂逅していた。

 言いつけを守れるように、アルドとミラも共にいる。


「こんにちは」

「フェンテッド伯爵夫人から謝罪の手紙を貰ったから予想はしていたが、もう話しかけても良いのか?」

「はい。わたしの愛の勝利です、とだけ言っておきますね」


 アルドが二人に絡む。


「フェンテッド嬢の家は、少し珍しいくらい家族仲が良いからね。愛娘に言われたら、どれだけ無愛想な男でも認めるしかないな」

「アリアシネ侯爵様は無愛想な男ではなくとっても素敵な男性ですが、とりあえずそうですねとだけ」

「どうだよハーゲン。そろそろ観念して結婚したらどうだ……?」


 顔を背けた。


「その気はない。……終わりを知りながら、それでも人を愛せるだなんてどうかしてる」


 刻一刻とエリーゼの寿命は減っている。尽きるのは時間の問題だ。

 今だって、数字は動き続ける。

 

 エリーゼが、できますよと笑った。


「いつか、きっと人を愛せると思いますよ。……その相手がわたしだったら、とても嬉しいですけど」

「……そうか」


 アルドとミラが飲み物を取りにその場を離れる。


 二人きりになって。ハーゲンが彼女の耳に口を寄せた。


「――私には、寿命が見えているとしても?」


 エリーゼが耳を押さえ見返す。

 ハーゲンの青い瞳はどこまでも凪いでいる。


「はい、それでもです。何も心配なんていりません!」


 なるべく強く見えるように、精一杯笑みを形作った。


「人と、もっと関わってみませんか? 悲しみだけではない終わりは、沢山ある筈です。わたしに、アリアシネ侯爵様が見つけるためのお手伝いさせてください」


 ハーゲンは眩しさから逃げるように目を伏せた。

 五年後の君もそんな殊勝なことを言えるのだろうか? 皮肉が出そうになるが、すぐに自責の念に駆られる。

 彼女は未来を知らない。今を精一杯生きているのだ。未来を知った気になって達観している自分とは違って。

 一転して素直な気持ちが湧き上がった。


 本当にそうであるなら。少しだけ、知ってみたいと思ってしまったのだ。


「よろしく頼む」


 気づけばそう口にしていた。


 これがただ、迫りくるお別れを辛くさせるだけだと知りながら。


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