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さまざまな短編集

雨と傘と雨靴と

作者: 仲村千夏


 六月の雨は、昨日より少しだけ優しい音をしていた。


 駅前のコンビニで透明なビニール傘を買い、歩道に出る。傘を開いた瞬間、ひとしずくが鼻先をかすめた。見上げた空は灰色で、雲の境界もわからないまま、世界の輪郭がぼやけて見える。


 歩道は濡れていて、アスファルトが鈍く光っていた。車のタイヤが跳ねる水音、人々がぱたぱたと急ぐ靴音、そして傘にあたる雨粒のリズム。


 ぼくはそれを、まるで誰かの生活音のように感じていた。


 会社には向かわない。今日は休みを取ったのだ。特別な用事があるわけでもない。ただ、どうしても「雨の日」に外を歩きたくなったのだ。


 理由なんて、自分でもよくわからない。だけど、きっと彼女のことを思い出していた。


 ひとりで雨の街を歩くのは、久しぶりだった。



 彼女と初めて出会ったのも、こんな雨の日だった。


 それは、ちょうど三年前の梅雨の始まりのこと。ぼくは同じようにコンビニでビニール傘を買って、駅のベンチに座っていた。仕事で失敗した帰り道。気が抜けて、立ち上がる気力もなく、濡れた靴をぼんやりと見つめていた。


「……靴、濡れちゃってますよ?」


 声をかけられて顔を上げると、そこにいたのは赤いレインコートを着た女の子だった。年は、ぼくと同じくらいか、少し年下に見えた。肩までの黒髪が、雨で少しだけしっとりとしていた。


 彼女は、にこりと笑って、足元を指差した。


「ほら、わたしはこれ。雨靴。あったかいですよ」


 見ると、彼女は黄色いレインブーツを履いていた。子どもが履くような、つるんとしたかわいいやつ。


「大人になっても、雨靴って意外といいんですよ? 靴下まで濡れないし、歩きやすいし」


「……そうですね」


「あなたも、履いてみるといいかも」


 不思議な出会いだった。でも、その日をきっかけに、彼女とは何度も偶然が重なった。駅で。喫茶店で。スーパーの傘立ての前で。


 そのたびに彼女は、必ず「雨の日」に現れた。


 ぼくたちは、傘の下でだけ話をした。


 名前も知らないまま、何度も何度も。



 雨の街を歩くと、世界の輪郭がやわらかくなる。


 乾いた日には気づかないこと――たとえば、アパートの壁に張りついた蔦の色、歩道の割れ目にたまる水たまり、コーヒー屋の看板が少し傾いていること。そういうものが、雨の中では、ふしぎと目につく。


 ぼくは昔住んでいた街へ、足を向けた。


 彼女と一度だけ「傘を貸した場所」が、まだ残っているか見てみたくなったのだ。


 あれはたしか、夏の終わりかけだった。大きな夕立があって、ぼくのビニール傘では二人ともずぶ濡れになりそうで、彼女は自分の小さな折り畳み傘を差し出した。


「こっちの方が、布地が強いから」


 そう言って、彼女はぼくの傘を受け取って、ふざけるように走り出した。


「じゃあ交換です! また雨の日に返してもらえればいいですよ!」


 そう言って笑って、彼女は駅の反対側へと消えていった。


 それが、彼女を見た最後だった。


 名前も連絡先も知らない彼女に、どうやって傘を返せばいいのか。あのときのぼくは、途方に暮れながらも「また会える」と本気で思っていた。


 でも、彼女は現れなかった。


 その後、何度雨が降っても。


 どれだけ傘を持ち歩いても。


 あれから三年が経っていた。



 昔のアパートはまだあった。クリーニング屋の看板は変わっていたが、道路の水はけの悪さは昔のままだ。


 彼女と出会った駅の改札口。あのとき話したベンチ。全部、すこしずつ色あせていた。


 ぼくはそっと、今も持っている彼女の傘を開いた。


 小さな、ネイビーの折りたたみ傘。布の端がほんの少しほつれていて、金具はうっすら錆びていたけど、まだちゃんと使える。


 彼女のにおいがする気がして、胸がちくりと痛んだ。


 もしももう一度会えたら、ちゃんと名前を聞こうと思っていた。


 もしも会えたら――そう、何度も何度も思いながら、それでも雨の日は過ぎていった。


 もう、会えないのかもしれない。


 そんなことを思ったとき、ふいに、耳に声が届いた。


「……やっぱり、その傘、持っててくれたんですね」


 振り返ると、そこにいた。


 あの日と同じ黒髪の、あの日より少し大人びた彼女が。


 そして、あの日と同じ、黄色い雨靴を履いていた。



 彼女は笑っていた。少しだけ泣きそうな顔で。


「……ごめんなさい、急にいなくなって」


「……引っ越したんですか?」


「うん。急に決まって……。家族のことで、ちょっと。あの時、連絡先を渡そうと思ってたのに、忘れちゃって……」


「ずっと、傘だけ残ってて。どうしたらいいかわからなかった」


「うん。でも……なんとなく、また会える気がしてた」


 ぼくらは二人、傘の下で立っていた。


 雨はまだ降っていたけど、さっきよりも優しくなっていた。


 世界は灰色のままだったけど、傘の中だけは、たしかに色があった。


 彼女は言った。


「ねえ、今日一日だけ、歩かない?」


「どこへ?」


「どこでも。たとえば、三年分の雨の街とか」


「……いいね」


 傘の中、彼女が微笑む。


 その足元には、変わらずあの黄色い雨靴があった。


 ぼくたちはゆっくり歩き出した。雨がふたりの肩をそっと包むように、静かに降り続いていた。



 傘の中は、小さな世界だ。


 外の音も、色も、湿気も、ぜんぶ少しぼやけて、小さくなる。


 でも、その中にもうひとりの誰かがいると、それは不思議と広がっていく。狭いはずの空間なのに、景色が変わっていく気がする。


 彼女は言った。


「わたし、雨の日って好きなんです」


「うん、なんか、わかる」


「濡れるのは嫌だけど、濡れていいって思える日は、ちょっと自由な気がしません?」


「……その言い方、いいな」


 ぼくはそう言って笑った。彼女も笑った。


 黄色い雨靴が水たまりを跳ねる音が、ふたりの間に広がった。


 この傘の中でなら、また、もう一度だけ。


 やり直せる気がしていた。

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