花ぐるま
カードに「YOUR SOUL」という言葉が添えられ、親しくしている人から洋菓子を頂いてその名称が『ブラウニー』だという事を知った。意外にも山の方にある温泉街に新しく出来たという足湯付きの施設で買ったというお土産らしい。
「喩えようもなく見事な乳白色の温泉の惚れ惚れするような硫黄の匂いを嗅いでいたら、なんだか君を思い出してね」
「それはありがとう」
と長年の付き合いで培われた謎のやり取りをしながら飲んだビールが格別に美味しかったことは言うまでもないが、その時の彼は確かに肌艶の良さが際立っていたような気がする。
「そういえば知ってるかい?市役所近くの喫茶店のこと」
朗らかな表情のまま少し唐突に彼は切り出した。反射的に「なんのこと?」と訊き返したところ、
「レトロな趣の喫茶店があるんだよ。この間そこでクリームソーダを飲んできたばっかり」
という説明がある。地元の話題に精通しているだけあって<ハイカラなことをしているな>と感じたが、『何周か回った上での』ハイカラという言葉だったと後で気づく。今どき喫茶店でクリームソーダはしなくなっている風習のような気もしなくはないが、【逆にするのかも】と思い至った時の感心のようなもの。その場面では、「へえ」としか言わなかったが軽くリサーチしてみて市の広報に文章が掲載されていることを知り、読んでみてむくむくと興味が湧いてくる。
<地元で喫茶店ってあんまり行かなかったよなぁ>
ぼんやりと浮かんできたのは、渋めなファッションの男性がハードカバーの本を読みながらコーヒーを啜っているイメージ。歳は取っても一向に洗練されずじまいな男が喫茶店になど行って良いものかという逡巡はあったが、裏を返せばそれは憧憬なのである。個人的には「偵察」という名目で土曜の暑い盛りに車を走らせ難なく駐車場までやって来れた。
なるほど
車を降りてのその呟きには幾許かの緊張が滲んでいた。外観は想像以上に年季が入っているが、白いだけではない壁にはシックな趣もあるように見える。時代を感じさせる『フォント』が店名を記している。恐る恐る入店すると、外観から感じるものとはまるで違う内装に驚かされた。まずもって『調度品』がどれも美しい。明らかに年代物であるはずなのに保存状態もよくしっかり磨かれている為か、往時の印象をそのまま保っているのではないかと思われた。
「いらっしゃいませ」
軽やかな女性の声。すぐに親しみを感じてしまうような笑顔も印象的だった。
「今日初めてなんですけど、席はここで大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
奥の方が見渡せる入り口付近の席にさっさと座り、メニューを眺め間髪入れず「それじゃアイスコーヒーを」と注文してしまう。お冷が運ばれてきてから<クリームソーダにすればよかったかな>などと思ったが、流石に初手でその勇気はない。運がいいのか客は自分だけだったので上等なシャンデリアとか、カウンター席の様子とかしばらく観察してみて、全体的に「茶色」だからなのか自然と心が落ち着いてくるのを感じた。
「あれ?カラオケの機械ですか?」
ふと目についたので質問してしまう。
「はい。今の時間はカラオケできますよ。一曲200円です」
なるほど。人前でカラオケをするのはかなり勇気が要ることではあると思うが、スナックの感覚と似ているのだろうか。すぐに銅のマグカップに注がれたアイスコーヒーが運ばれてきた。ミルクも砂糖も入れずそのまま味わうことが正しいことのように思われ、味わってみると夏を思わせる日々にはこれ以上ないような格別のうまさである。
そんな自分を『オードリーヘップバーン』の瞳が微笑を浮かべて見守ってくれている。比喩ではなく位置的に絵の中の彼女が目に入るので。『レトロな趣』という彼の言った言葉の意味がだんだんと了解されてゆく。もともとレトロな街並みが残る田舎ではあるけれど、その中でも時代を錯覚させてくれる度合いは高い空間だと感じる。広報に書かれていた内容によれば目の前の店主が場所を借りて新たに再出発した喫茶店ではあるらしいのだが、もともとあったものの良さが活かされているのだろうと思う。店内に流れるBGMも軽やかだからなのか、心がなんとなく湧き立つ。
今度ここで読書してみようかな
憧れの姿は意外にも容易に実現しそうな具合である。そんな事を考えていたら入り口のドアが開いて、その辺りでは目にしないような若い女性が「こんにちは」と入店してきた。完全に油断していたので緊張してしまったが、結果的にこの日の出来事は結構いい思い出になっている。慣れた様子で女性はこちらにも軽く会釈をして、奥の方のテーブルに一人で座る。派手さはないが見るからに都会的な装いなので、地元の人ではないなと感じたが「バナナジュースをお願いします」という言葉を聞いて、さらに只者ではないなと感じた。アイスコーヒーを飲み終わったタイミングだったので店を後にしようと思ったりはしたが、なんとなく店主手製でおすすめだという『チーズケーキ』を注文してみた。
するとおもむろに女性客は立ち上がる。そして店主の方に近付いてゆくとこんなふうに話を切り出した。
「あの、わたし『純喫茶巡り』をしている者でして。ぜひブログで紹介させていただきたいなと」
「え?そうなんですか。是非是非」
どうやら世の中には年齢など関係なく『レトロな魅力』に取り憑かれた人がいるらしい。席に座っていると会話が全て聞こえてしまうのでそこで知った情報としては、
・女性は県外から日帰りで来た
・純喫茶巡りが趣味でさまざまな場所を訪れている
・時間的にあまり長居はできない
という事らしい。それで『バナナジュース』なのかとは思ったが、アクティブな方だなと感心してしまった。どこかあどけなさを感じさせる女性ではあるものの好きなことには真っ直ぐなのと行動力があるのだろう、そこからの展開も怒涛だった。
「ここ、カラオケできるんですか!?」
店内の張り紙を見て驚いた様子の女性。「へぇ…そうなんだ…」と呟いた女性とその瞬間に思わず顔が合ってしまったので、
「歌ってもいいですよ」
と謎の言葉を投げかけてしまった。実は「私にはお構いなく」と言うニュアンスで伝えたつもりだったのだけれど、どちらかというと「歌ってみて下さい」という意味に受け取ってしまったらしい。喜んだ様子の彼女は、
「それじゃあ、一曲歌わせてもらいますね」
と店主に声を掛け、カラオケ用のリモコンを受け取った。正直<え…どうしよう>と動揺している自分ではあったがレアな場面に立ち会っている感覚に切り替わっていた。そして彼女が選曲したのは中島みゆきの「糸」であった。
♪♪♪
澄んだ柔らかな歌声を聴きながら味わうチーズケーキは自分の中にある情熱のようなものを呼び覚ますには十分過ぎるもので、『一期一会』とはこう云うものなのかなぁなどと思ったりもした。曲が終わり、歌声に店主と共に拍手を送り、満足した様子の女性。その後少し滞在して、帰る時間もたまたま重なったので咄嗟に持ち帰り用のアイスコーヒーを頼んで、
「歌を聴かせてくれたお礼です!」
と彼女に手渡した。思ってもみないことだったのか、ことのほか嬉しそうにしていて。
と…そんな感じであの日の事を滔々と語ってしまったが、あの場所に入り浸る自分の未来がなんとなく見えるのである。