結晶の証言者 —監視の都市—
アルカネアの街は、夜になっても決して闇に沈むことはない。七つの運河に沿って張り巡らされた監視結晶の青白い光が、街全体を無機質に照らし出しているからだ。市民たちはその光の下で日常を送っているが、誰もが無意識のうちに、結晶の死角を避けるように振る舞い、本音を隠していた。街全体が巨大な檻のように感じられる。
王宮の丘に立つ巨大な建物、王国安全保障院(RSO)本部。その最上階にある広大な監視室には、何百、何千もの映し鏡が壁一面を覆い、街のあらゆる場所の映像をリアルタイムで映し出している。部屋の中央に設置された高座には、一人の男が座っていた。銀髪を短く刈り上げ、左頬に古い傷跡を持つマグナス・レイン長官だ。彼の目的はただ一つ、完璧な秩序による国家の維持だった。部下のエリクソン大佐が近づいてくる。
「本日の監視結果報告です、長官。不審行動検出は12件ですが、すべて調査済みです」
マグナスはわずかに頷いた。
「良い数字だ。だがまだ足りない。安全のためには、100%を目指さなければならない」
エリクソンは従順に頷いたが、その眼差しには少しの疑念が浮かんでいた。マグナスはそれを見逃さなかった。
「何か意見があるようだな」
エリクソンは言葉を選びながら続けた。
「いえ、ただ、これ以上の強化は市民の不満を招くのでは」
マグナスは冷たい視線を向けた。
「不満より恐怖の方が問題だ。十年前の政変前、この街は無秩序だった。あの日々を忘れたのか?」
エリクソンは黙って首を振った。マグナスは立ち上がり、映し鏡に近づく。
「見ろ、この秩序を。この平和を。これらはすべて我々の監視があってこそ維持されている。そして......」
彼は低い声で続けた。
「まだ見つけられていない者たちがいる。古い力を持つ者たちが」
エリクソンは首を傾げた。ふとしたときマグナスが話していたことを思い出した。
「もしかして、記憶術師のことですか? 彼らはもう400年前には居なくなったはずでは?」
マグナスは窓の外、遠くにある旧市街の方を見つめた。
「歴史書にはそう書かれているがな。真実は、常に歴史の裏に隠されているものだ」
彼の言葉には、何かを知っているかのような響きがあった。
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小さな雑貨店「クレイモア商店」は、アルカネアの中環区、七つの運河の一つに面した静かな通りにあった。レオン・クレイモアは38歳。中背痩せ型だが、日々の仕事で鍛えられた筋肉質の体つき。短く刈り込んだ茶色の髪と、観察力に優れた鋭い灰色の目を持つ。彼はかつてアルカネア有数の名門商会「クレイモア商会」の嫡男だったが、十年前の政変で全てを失い、今は小さな店を営む一商人だ。店の奥から妻のエラが声をかける。彼女は36歳、長い黒髪をきっちりと結い上げたスマートな女性で、レオンの雑貨店の経理と家事を完璧にこなす賢妻だ。
「レオン、今日の仕入れリストができたわ」
レオンはリストを受け取り、一瞥しただけで内容を頭に入れた。彼の記憶力は常人離れしており、商売においてそれは大きな武器となっていた。
「ありがとう、エラ」
彼はリストをテーブルに置き、すぐに気づいた。
「昨日と比べて、魔導インクが3ルーナ、光結晶が2ルーナ値上がりしてる。為替の変動かな?」
「よく覚えてるわね。昨日のリストは一度だけ見たはずなのに」
エラは驚きの表情を浮かべた。レオンは照れくさそうに笑った。
「商人の基本だよ。価格変動を覚えておかないと、損をしてしまう」
そこへ飛び込んでくるように店に入ってきたのは、彼らの10歳の娘リリー。明るい茶色の巻き毛と、父親譲りの鋭い灰色の目を持つ活発で好奇心旺盛な少女だ。
「パパ、ママ、おはよう! 今日も学校で結晶理論の授業があるの。先生がね、『リリーちゃんは理解が早いわね』って言ってくれたの!」
「さすが我が娘だ。勉強は大事だぞ」
レオンは微笑んで娘の頭を優しく撫でた。
「でも授業中はちゃんと集中するのよ。昨日先生から聞いたわ、あなたがまた窓の外を見ていたって」
「だって、窓の外の監視結晶がパパの店の方を向いてたんだもん。気になっちゃったんだもん」
エラはリリーの服装を整えながら言うと、リリーは不満そうな顔をした。レオンとエラは顔を見合わせた。レオンが静かに言う。
「リリー、監視結晶のことは気にしなくていいんだ。悪いことをしていなければ、心配することはない」
レオンの言葉は娘を安心させるためのものだったが、彼自身は内心、増え続ける監視結晶に不安を感じていた。息苦しさが、街の空気のように常にそこにあった。
朝食を終えると、リリーは学校へ向かい、レオンとエラは店を開けた。最初の客は、いつものように市場組合のデイビッドだった。50歳のシルク商人で、豊かな黒髪に少し白髪が混じる豪快な男だ。彼は市場の情報通でもあった。
「おはよう、レオン! いつもの上質インクが必要なんだ」
レオンは笑顔で対応しながら、棚から特定のインクを取り出した。デイビッドは周囲を確認してから、声を落として言った。
「昨日、中環区で取り締まりがあったらしい。監視結晶の映像から『不適切な集会』と判断されたとか。まったく、息苦しい世の中になったもんだ」
「そうか、気をつけないとな」
レオンは表情を変えずに応じた。デイビッドはさらに続けた。
「ああ。それと、キャロル貴族の動きに注目が集まっているらしい。改革派の中心人物だからなRSOが目を光らせているという噂だ」
デイビッドはそれ以上言わなかったが、レオンには彼の懸念が痛いほど伝わった。ジェラルド・キャロルは、監視強化に反対する数少ない有力貴族の一人だった。レオンの父アルバートも、かつてはキャロル貴族と共に改革派に属していた。そしてそれが、十年前の「護国改革」と呼ばれる政変で彼の家族が没落した原因だった。父は「王国への反逆」の罪で処刑され、商会は解体、家財は没収された。レオンは一夜にして全てを失い、残された母と妹を養うため、持ち前の商才で小さな雑貨店を開業したのだ。父の友人だったデイビッドは、それから何かと気にかけてくれている。
デイビッドが去った後、店に入ってきたのは黒い制服を着た二人の男だった。RSO工作員だ。彼らは冷たい目で店内を見回し、レオンに近づいた。
「定期検査だ。結晶登録証を見せてもらおう」
レオンは平静を装いながら、カウンターの引き出しから小さな結晶カードを取り出した。男はそれを受け取り、手持ちの装置にかざした。
「クレイモア......ああ、あの商会の」
もう一人の男が意味ありげに言った。彼らはレオンの過去を知っている。その視線に、レオンは内心で緊張が走るのを感じた。RSO工作員たちは店内を一通り検査した後、特に問題を指摘することなく立ち去った。彼らが出て行くと、エラが心配そうにレオンに近づいた。
「最近、検査が増えているわね。何かあったの?」
「いや、何も。ただの定期検査だろう」
レオンは深く息を吐いた。彼は右手首の家紋の痕を無意識にさすった。政変後に刺青は消したが、跡はまだ薄く残っている。それは失われた過去と、拭いきれない屈辱の証だった。彼は窓の外に目をやった。通りの向こうでは、監視結晶の青い光が点滅していた。まるで、常に自分を見ているかのように。
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閉店時間が迫る夕暮れ。レオンは最後の在庫チェックを済ませ、明日の仕入れ計画を立てていた。その時、店の扉が勢いよく開き、一人の男が飛び込んできた。血まみれの姿で、息も絶え絶えだった。尋常ではない様子に、レオンは驚きと警戒心を抱いた。
「助けてくれ......」
男は倒れこむように言った。レオンは驚いて駆け寄った。
「大丈夫か? 怪我人だ、エラ! 応急処置キットを!」
エラは素早くカウンターの下から魔法薬の入った応急キットを取り出した。男は30代半ば、かつて結晶術師だったことを示す制服の名残がある服を着ていた。
「私はファビアン・ノリス......キャロル貴族の」
男は周囲を警戒するように窓の外を見回した。
「彼らが来る、黒服の連中が......」
「RSO? 何があったんだ?」
レオンが問いかけると、男は懐に手をやった。何か重要なものを取り出そうとする素振りだった。
「これを......あの日の真実が」
彼の言葉が途切れた時、店の外から黒い車が急停車する音がした。RSOの車だ。ファビアンは恐怖に目を見開いた。
「彼らが来た! 後ろ口から逃げる」
ファビアンは素早く立ち上がり、店の裏口へと走り去った。彼の足音はすぐに遠ざかった。ほとんど同時に、店の表口からは黒服の男たち、RSO工作員が数人、荒々しく入ってきた。
「先ほどここに入った男を見なかったか?」
彼らの声は冷たく、質問というより詰問だった。レオンは平静を装った。
「お客さんなら何人か来ましたが、特別な人物は覚えていません」
彼らのリーダーらしき男が不審そうにレオンを見た。
「本当か? キャロル貴族の側近で、危険な反逆者を匿うのは重罪だぞ」
RSO工作員たちは許可も取らず、店中を探し回った。彼らは壁や床に埋め込まれた監視結晶にも注意を払っていたが、ファビアンの姿も見つからなかった。
「何も見つからなかったな......」
リーダーは不満そうに言った。彼らはレオンを睨みつけ、威圧的な態度で告げた。
「今回は見逃すが、不審な男を見かけたら即座に報告するように。それが市民の義務だ」
彼らが立ち去った後、レオンとエラは荒らされた店内を眺めて呆然としていた。リリーが学校から帰り、店の状態を見て驚いた顔をしている。
「パパ、ママ、何があったの?」
「何でもないのよ。ちょっとした検査があっただけ」
エラはリリーを抱きしめた。彼女は夫を心配そうに見た。
「大丈夫だよ、リリー。ちゃんと片付けるから心配しないで」
その夜、リリーが寝静まった後、レオンとエラは小さな居間で向かい合っていた。レオンは事の次第を妻に説明した。
「黒服に追われた男が店に飛び込んできて......何か重要なものを持っていたようだった」
エラは警戒の目でレオンを見た。
「危険よ、レオン。私たちには関係のないことよ。政治の争いに巻き込まれたら。家族の安全が第一よ」
レオンはうなずいたが、彼の心の中では別の感情が芽生えていた。キャロル貴族—かつて父と共に改革派に属し、政変で命を落とした父の同志。ファビアンが持っていたという「あの日の真実」とは一体...そして、なぜファビアンは自分に何かを伝えようとしたのか? 彼の異常な記憶力と何か関係があるのだろうか? 疑問と好奇心、そして父の無念を晴らしたいという思いが、レオンの心を揺さぶっていた。
「そうだな......」
レオンはそう答えたが、彼の心は決断をためらっていた。
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その夜遅く、荒らされた店の商品整理を続けていたレオンは、棚の奥から見慣れない結晶を発見した。それはファビアンが持ち込んだ「記憶結晶」だった。レオンは警戒しながらも、強い好奇心に駆られてその結晶に触れた。瞬間、結晶から映像が流れ出した—まるで目の前の空間にホログラムのように投影されたかのように。映像は豪華な執務室。立派な机の前に立つのは高齢の紳士、ジェラルド・キャロル貴族だ。彼は誰かと対話しているようだった。相手は銀髪を短く刈り上げた厳格な男性、左頬に古い傷跡がある。RSO長官マグナス・レインだった。
「マグナス、この法案には断固反対する。これ以上の監視強化は市民の自由を奪うものだ」
キャロル貴族の声は毅然としていた。マグナスは冷たく応じる。
「キャロル、時代は変わったのだ。自由よりも安全が求められている。無秩序な時代に戻るわけにはいかない」
「それは幻想だ。真の安全は監視からではなく、市民の信頼から生まれる。恐怖で縛られた社会に未来はない」
キャロルは反論する。そして明日の議会で、この法案に公然と反対し、市民にも真実を伝えようと告げる。
「君たちRSOが密かに進めている『完全監視計画』についても、全てを明らかにする」
マグナスの目が鋭く光った。その表情から感情が消え、冷たい殺意が宿る。彼は静かに机の引き出しから何かを取り出した。それは小型の闇の魔力塊だった。
「残念だ、キャロル。君と長年の友情があったことを考えると...」
マグナスの声は低く、感情がこもっていなかった。
「マグナス! 何をする気だ?」
キャロル貴族は後ずさる。
「歴史を正しい方向に導くだけだ」
マグナスがキャロルに向かって闇の魔力塊を発射する瞬間、レオンは思わず結晶から手を放した。映像は掻き消えるように消えた。
「これが、真実なのか......」
レオンは震える手で再び結晶に触れた。今度は映像がさらに鮮明になり、まるで自分がその場に立っているかのような感覚に襲われた。マグナスの冷たい声、キャロル貴族の恐怖に歪む表情、闇の魔力塊の乾いた発砲音、そして床に崩れ落ちる体。あらゆる詳細が、レオンの記憶に異常なほど鮮明に刻み込まれていくようだった。結晶を落としても、映像はまるで脳裏に焼き付いたように鮮明だった。いや、映像以上の情報が頭の中に流れ込んでくる。自身の頭に異変を感じていた。これは単なる記憶力ではない。
「レオン? どうしたの?」
エラの声に我に返った。彼女は物音に気づき、寝室から出てきたのだ。レオンのただならぬ様子に、彼女は心配そうに眉をひそめている。
「エラ、この結晶......」
レオンは動揺を隠せなかった。手に持った結晶を見せる。
「なに?見てしまったの? 中身を」
エラは結晶を見て顔色を変えた。レオンは頷き、キャロル貴族がマグナス長官に暗殺されたこと、監視強化法案に反対したためだと説明する。エラは恐怖の表情を浮かべた。
「そんな......でも、それがどうして記録されているの?」
レオンはファビアンが何らかの方法で撮影したのだろうと推測する。
窓の外の監視結晶を見つめながら、レオンは呟く。
「この結晶は危険すぎる。どこかに隠さなければ」
「危険よ、レオン。私たちには関係ない争いじゃない。政治の闇に巻き込まれたら、家族が。家族の安全が第一よ」
エラはレオンの手を取った。レオンは妻の言葉に頷きつつも、彼の心の中には別の感情も芽生えていた。キャロル貴族—かつて父と共に改革派に属し、政変で命を落とした父の同志。その死は、十年前の父の死と無関係ではないはずだ。そして、自分がこの映像をあまりにも鮮明に記憶してしまう能力は一体何なのか? 疑問と真実への渇望、そして父の無念を晴らしたいという思いが、レオンの心を強く突き動かしていた。彼は決意する。
「明日、店を閉めたら旧市街に行く。かつての師匠ブレインに相談してみよう。彼は古代結晶学の権威だった。この記憶結晶について、何か知っているかもしれない」
エラはその決断に不安を覚えたが、夫の強い意志を感じ、尊重することにした。
翌朝、街中に触れ回る噂では、ジェラルド・キャロル貴族の「自殺」が広く触れ回っていた。街には通常より多くの黒服、RSOの巡察兵が巡回していた。レオンの店には「禁制品取引の嫌疑」により店仕舞いの沙汰が下され、財産は差し押さえられた。街中の監視結晶の青い光が、いつもより鋭くレオンを追跡しているように感じられた。もはや、一刻の猶予もない。
「荷物をまとめるんだ。今日中に家を離れるよ」
彼らの逃亡生活が、こうして始まった。
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旧市街の片隅にある、蔦に覆われた古い建物。そこが骨董品店「時の欠片」だった。薄暗く、埃っぽい店内には、古びた書物や奇妙な装飾品が所狭しと並べられ、独特の静寂が漂っていた。レオン一家は、その奥にある小さな部屋でブレイン老人の元へ身を寄せていた。ブレインは白髪と長い髭を持つ、穏やかな雰囲気の老人だが、その目は鋭く知性に満ちている。彼はかつて王宮付きの学者で、古代結晶学の権威だった。レオンが持ち込んだ記憶結晶を慎重に調べ終えた老人は、静かに顔を上げた。
「これは、触れた者の記憶を保存・再生する禁断の技術品だ」
ブレインの言葉に、レオン、エラ、リリーは息を呑んだ。部屋に緊張が走る。
「そして、レオン君......君のその異常な記憶力は、単なる商才ではない」
ブレインの視線がレオンに注がれる。
「君は、古代の『記憶術師』の血を引いている」
「記憶術師?」
レオンは戸惑いを隠せない。そんな存在は、歴史の教科書にも載っていない。
「記憶術師は、歴史の真実を記憶し、伝える役割を担っていた」
ブレインは遠い目をして語り始めた。
「だが、約四百年前に権力者によって危険視され、大弾圧を受けてほとんどが滅ぼされた......悲劇的な歴史だ」
ブレインが語る、失われた古代の力と、その悲劇的な歴史。レオンは自身の能力が、単なる特異体質ではなく、遥か昔から受け継がれる血筋によるものだと知り、強い衝撃を受けていた。
「レオン......」
エラが不安げに夫を見つめる。リリーもまた、両親のただならぬ雰囲気に、小さな体をエラに寄せた。ブレインはレオンの目を見据えた。
「君のその力は、失われた古代の力だ。そして、君の父君の死も無関係ではないだろう」
その言葉は、レオンの心臓を鷲掴みにした。父の死の真相。記憶結晶が示した「あの日の真実」。そして、自身の能力。全てが一本の線で繋がっていく感覚。
「父さん、やはり!」
レオンの脳裏に、十年前の父の最期の姿がフラッシュバックする。自身の能力が、失われた古代の力であると知り、戸惑いと同時に、父の死との関連性を確信する。
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RSO工作員の追跡は日に日に厳しさを増していた。街中の監視結晶ネットワークは彼らの逃亡を困難にしていた。ブレインはレオンに、監視システムの死角や、結晶の光を欺く偽装術、そして記憶術師の基本的な能力である「記憶の整理と再現」を教え始める。
「記憶術とは、ただ覚えることではない。それは、真実を紡ぎ出す技術だ」
ブレイン老人は静かに言った。隠れ家の奥、埃っぽい部屋には、古い書物と結晶が並んでいる。窓の外からは、遠く監視結晶の青白い光が漏れ込んでいる。
「真実ですか?」
レオンはブレインの言葉を反芻した。商人として培った彼の記憶力は、あくまで商取引や商品の詳細を覚えるためのものだった。それが「真実を紡ぎ出す技術」と言われても、まだピンとこない。
「そうだ。歴史は勝者によって都合よく書き換えられる。だが、記憶術師は、その歪められた歴史の裏に隠された真実を記憶し、後世に伝える役割を担ってきた」
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ある日、逃亡生活の中、レオンは偶然、市場の裏路地でかつての取引先だったシルク商人のデイビッドと再会した。デイビッドは、レオンの父アルバートとは長年の親友であり、ビジネスパートナーでもあった。十年前の政変でクレイモア商会が没落し、アルバートが命を落としたことを、デイビッドは誰よりも深く悲しみ、そして王国のやり方に憤りを感じていた。
「レオン! 生きていたのか! 無事だったか!」
デイビッドは驚きと安堵の表情を浮かべ、レオンの手を強く握った。その手は、かつて共に商談をまとめた頃と同じ、力強いものだった。レオンはデイビッドに、これまでの逃亡生活の経緯、RSOに追われていること、そしてブレイン老人の元に身を寄せていることを簡潔に話した。デイビッドはレオンの話を真剣な表情で聞き、深く頷いた。彼の目には、レオンの父への思いと、現在の王国への強い不満が宿っていた。
「そうか......アルバートの息子が、こんな目に。心配するな、レオン。俺が必ず力になろう。アルバートのためにも、お前たち家族を守る」
デイビッドの言葉には、かつての友人への誓いと、レオンへの強い信頼が込められていた。
その後、彼は危険を顧みずにレオン一家を匿い、食料や物資の調達を手伝ってくれた。そして、デイビッドはまた、RSOの監視の目を掻い潜るための情報を提供してくれる小さな支援ネットワークの一員でもあった。そのネットワークは、かつてアルバートが築いた改革派の繋がりや、RSOの監視強化に不満を持つ市民たちによって構成されていた。RSOに対抗する地下組織「影の商会」について、デイビッドはレオンに教えた。
「影の商会ですか? 闇市場の連中と関わるなんて......」
レオンは思わず眉をひそめた。商人として、彼は常に合法的な取引を心がけてきた。闇市場の人間は、彼にとって最も遠い存在だった。
「危険なのは承知の上だ、レオン。だが、奴らはRSO内部の情報を持っている。それに、君のその力、記憶術師の力を理解し、活用できるのは、奴らしかいないかもしれない」
デイビッドの言葉に、レオンは葛藤した。家族の安全、父の無念。そのためには、どんな危険も冒さなければならないのか。
「分かりました。紹介をお願いします」
「覚悟を決めたようだな。」
レオンは意を決し、頷いた。デイビッドはレオンの肩を叩いた。RSOへの警戒のため、影の商会と会える日は限られているらしく、それから数日が経った......
デイビッドに導かれ、レオンは薄暗い階段を降りる。地上の喧騒は遠のき、代わりに湿った地下の空気が肌を刺した。香辛料の匂いと雑多な言語が混ざり合う中、露店が並び、ローブ姿や顔を覆う客らが低声で取引している。危険な気配が濃い。それでもレオンは立ち止まらない。家族を守り、真実を掴む――その決意だけが彼を支えていた。
「デイビッド、この男が?」
声のする方を見やると、黒いローブを纏った一人の女性が立っていた。顔の半分はフードで隠されているが、鋭い眼光がレオンを射抜く。
「ああ、ナディア。こいつが例の......記憶術師の血を引く者かもしれん」
デイビッドが答える。ナディアの視線がレオンの手に握られた記憶結晶に向けられる。
「見せなさい」
ナディアの声には有無を言わせぬ響きがあった。レオンは躊躇しながらも、結晶を差し出した。ナディアは結晶を受け取り、じっと見つめる。結晶が微かに光を放つ。
「これは古いものだ。そして......強い記憶が宿っている」
ナディアは顔を上げ、レオンを見た。
「お前、この結晶の中身を見たのか?」
レオンは頷いた。
「そして全てを記憶してしまった」
ナディアの目が驚きに見開かれる。
「触れただけの結晶の内容を完全に記憶し、さらに映像に映っていない細部まで把握しているだと? これは初級を超えた能力だ。お前は......特別な存在だ」
ナディアの声に、かすかな興奮の色が混じる。
「その記憶、我々に役立てられるか?」
ナディアはレオンに問いかけた。レオンはナディアの真剣な眼差しに応えるように、強く頷いた。
「家族を守るため、そして父の無念を晴らすため......俺は、この力を使う」
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その時、「影の商会」の隠れ家が、RSO特殊部隊の急襲を受けた。突然、隠れ家の扉が爆音と共に吹き飛んだ。黒い制服のRSO工作員たちが、闇の魔力塊を構えてなだれ込んでくる。
「RSOだ! 全員、抵抗するな!」
「レオン! エラ! リリー! 裏口だ!」
怒号が飛び交い、闇の魔力塊の光が閃く。隠れ家は一瞬にして戦場と化した。ブレイン老人が叫び、素早くエラとリリーの手を引いて裏口へと走る。レオンは一瞬躊躇したが、家族の安全を優先し、ブレインの後を追った。しかし、裏口にもRSO工作員が待ち伏せていた。
「逃がすか!」
「パパ!」
工作員の一人が闇の魔力塊を放つ。レオンは間一髪でエラとリリーを突き飛ばし、自身は壁に叩きつけられた。リリーの悲鳴が聞こえる。レオンは痛みに耐えながら立ち上がろうとするが、別の工作員が彼に飛びかかってきた。もみ合いになる中、レオンが肌身離さず持っていた記憶結晶が、工作員のブーツに踏みつけられる。鈍い音と共に、結晶は粉々に砕け散った。
「しまった!大事な証拠が!」
ブレインの機転により、エラとリリーは間一髪で別の安全な場所に避難できたが、レオンが肌身離さず持っていた記憶結晶は、RSO工作員との激しい攻防の中で破壊されてしまう。
「もう終わりだ。証拠が......」
レオンは絶望に打ちひしがれる。しかし、ブレインは静かに言った。
「結晶は失われたが、内容は失われていない。結晶の内容はすでに君の頭の中にある。君の記憶術師としての能力を引き出せば、結晶以上の、誰にも破壊できない証拠になる」
ブレインの言葉に、一筋の希望を見出した。ブレインは、レオンの額にそっと指を当てた。
「記憶術とは、ただ覚えることではない。それは、真実を紡ぎ出す技術だ。君の頭の中には、結晶が破壊されても消えない、生きた記憶がある」
ナディアが鋭い視線でレオンを見つめる。
「過去の記憶と向き合うのは、容易ではない。特に、君のような強い血筋を持つ者は。忘れたい苦痛な記憶が、君の心を乱すだろう」
訓練は過酷だった。レオンは目を閉じ、暗殺シーンの記憶を呼び覚まそうとする。豪華な執務室、マグナスの冷たい声、キャロル貴族の恐怖......しかし、それと共に十年前の政変の記憶がフラッシュバックする。
「うっ!」
「無理をするな、レオン」
レオンは思わずうめき声を漏らし、頭を抱えた。ブレインが優しく声をかける。
「過去の苦痛は、君の力となる。それを乗り越えた時、君の記憶術は真に覚醒する」
ナディアは冷静に分析する。
「商人として培った君の記憶力は、この訓練の基礎となる。商品の在庫、顧客の顔、それらを記憶するのと同じように、過去の出来事を詳細に、正確に再現するのだ」
レオンは歯を食いしばり、再び記憶に潜る。商人としての記憶術を応用し、断片的な記憶を繋ぎ合わせていく。暗殺シーンの映像が、少しずつ鮮明になっていく。執務室の家具の配置、壁の絵のタッチ、マグナスの微細な表情の変化...そして、映像には映っていなかったはずの、机の引き出しにあった書類の内容までが、五感を伴って蘇る。
「机の中に何か計画書が......『記憶術師根絶計画』!」
レオンは目を見開いた。それは「記憶術師根絶計画」という恐ろしい計画の概要だった。計画には、記憶術師の血筋を持つ者を特定し、社会から排除するための詳細な手順が記されていた。そして、十年前の「護国改革」と呼ばれる政変が、この計画を実行するために仕組まれたものであることが示唆されていた。父アルバートがその計画に気づき、抵抗しようとしたために「王国への反逆」という濡れ衣を着せられ、殺されたのだと悟る。
「彼らは記憶術師を恐れていた。真実を記憶し、伝える我々を。だから父は......私たちは標的だったんだ」
父の死の真相を知り、レオンの心に復讐と、記憶術師として真実を暴き、守るという強い使命感が固まった。レオンは「影の商会」の協力を得て、大胆かつ危険な反撃計画を立てることにした。ブレイン老人の隠れ家で、レオン、ブレイン、そしてナディアが向かい合っていた。テーブルの上には、アルカネアの地図が広げられている。
「目標はRSO長官、マグナス・レイン」
レオンが静かに言った。その目は、以前の商人レオンのものではなく、真実を求める記憶術師の鋭さを宿していた。
「奴を捕らえ、キャロル貴族暗殺の真実を白日の下に晒す」
「そして、記憶術師根絶計画の存在を世界に知らしめる」
ナディアが腕を組んで言うと、ブレインが静かに付け加えた。
「そのためには、君の記憶の力が不可欠だ、レオン。君の頭の中にある真実こそが、奴らを打ち倒す唯一の武器となる」
ナディアの言葉に、レオンは強く頷いた。彼の心には、家族への愛、父への思い、そして真実を求める強い意志が燃え上がっていた。
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決戦の舞台は、アルカネア最大の交易場「銀の橋市場」だった。朝の喧騒が始まる前、計画通り、市場に向かったレオンはRSO工作員に身柄を拘束された。抵抗はせず、静かに連行される。市場の人々は遠巻きにその様子を見ているが、監視の目を恐れて誰も近づかない。レオンはRSO本部の尋問室へと連れて行かれ、そこでRSO長官マグナス・レインと対面する。冷たい視線を向けるマグナスに対し、レオンは商人として培った交渉術と、記憶術師として覚醒した能力で心理戦を仕掛けた。
「マグナス長官。あなたが隠蔽しようとした真実を、私は知っています」
レオンは静かに、しかし確信に満ちた声で語り始める。
「ジェラルド・キャロル貴族の暗殺も、そして十年前の私の父、アルバート・クレイモアの処刑も」
マグナスは一瞬、動揺を隠せない。しかしすぐに冷徹な表情に戻る。
「何を言っている? キャロルは自殺だ。お前の父は反逆罪で処刑された。証拠の結晶は破壊された。他に証拠はないはずだ!」
言葉と反対に、マグナスの言葉には焦りが滲んでいた。レオンはゆっくりと頭に手を当て、マグナスの目をまっすぐに見つめた。彼の瞳には、記憶術師特有の鋭い光が宿っている。
「記憶術師の能力をご存知ですか? 私は見たものを完全に記憶し、五感を伴って再現できる。そして、あなたの記憶結晶に記録されていた真実も、私の頭の中に完全に再現されています」
そして、彼は暗殺現場の詳細を語り始める。執務室の壁に掛かっていた絵の絵柄、マグナスの制服の襟元にあった小さなバッジの模様、ガラスの水差しに反射していた光の具合、部屋の空気の匂い、マグナスの微細な表情の変化......あまりにも正確で鮮明な描写に、マグナスは顔色を失い、震え始める。
「これは魔術だ。ありえない」
レオンはさらに圧力をかける。
「そして机の引き出しにあった書類、『記憶術師根絶計画』—それが十年前の政変の真の目的でした。記憶術師の血筋を根絶やしにし、真実を隠蔽するための計画。父はそれを知ったから殺されたのですね」
追い詰められたマグナスは、過去の栄光と現在の窮地の間で激しく葛藤する。彼の冷徹な仮面が剥がれ落ち、焦燥と恐怖が露わになる。そして、ついに暗殺と計画の存在を自白する。
「そうだ! 秩序のためだ! 無秩序な真実など、必要ない!」
その瞬間、銀の橋市場中に密かに仕掛けられていた小型結晶が、影の商会の手により一斉に光を放ち始めた。たった今したマグナスの自白と、レオンが記憶術で再現した暗殺シーンの映像は、市場の広場に設置された大きな映写結晶や、街の辻々に置かれた伝達結晶を通じて、瞬く間に街中に広まった。映像は鮮明で、マグナスの自白は明確だった。真実を知った市民は動揺し、街は混乱に陥った。
王宮は混乱の収拾に追われ、RSO内部でも、マグナスの非道な行いを知ったエリクソン大佐ら一部の幹部が「守護の名の下の殺戮は許されない」とマグナスに反旗を翻し、事態の鎮静化に動き出す。長年マグナスが王の信任を得て築き上げてきた権威に亀裂が生じ、その支配が揺らぎ始める。
騒ぎの中、拘束を解かれたレオンは影の商会の手引きでブレインの隠れ家へ向かい、そこでエラとリリーと再会した。家族は無事だった。
マグナスは逮捕され、RSO改革の動きが始まる。監視結晶の使用制限や市民の権利保護が進められる兆しが見える。社会は少しずつ、良い方向へ向かっているように見えた。しかしブレインは、権力の本質は変わらないと警告し、「記憶術師の血を引く者よ、真の戦いはこれからだ」という謎めいた言葉を残して姿を消していった。彼の言葉は、レオンの心に深く刻まれた。
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数ヶ月後、レオンの店は再開され、街には日常が戻りつつあった。監視結晶の数は減り、市民の表情も以前より明るくなったように見える。社会は確かに変化している。しかし、レオンの記憶術師としての能力は強まり続け、時に街を歩く他者の記憶の断片を感じ取るようになっていた。そして、街の目立たない場所に、新たな形の監視結晶が静かに設置され始めていることに気づく。監視社会の問題は、形を変えてまだ存在しているのだ。レオンはブレインから受け継いだ古代の書物を読む。そこある「記憶の守護者」の一節をレオンは胸に刻んだ。。
「真実は抹消されることなく、必ず記憶の中に生き続ける。それは記憶術師の血に刻まれた宿命である」
リリーが学校から帰り、父の元に駆け寄る。今日学校で習った記憶術の話を興奮気味に話し始めるリリー。彼女の目にも、記憶術師特有の、真実を見抜く鋭い光が宿り始めていた。レオンは静かに微笑んだ。監視の目はまだ街を見つめているが、今や彼の中には新たな使命が芽生えていた—記憶と真実を守り、未来へと繋ぐ「記憶の守護者」として。