九命の猫
無事に憤怒の指輪の事件が解決した後。
「本当にありがとうございます。彼がこのとおり元の優しい夫に戻ったのも、ロレンスをこの家から追い出せたのも、全てミコトさんのおかげです」
晴れ晴れした笑顔のレティシアさんの隣で、マティアスさんも控えめな笑みで
「私からも礼を言わせてください。あなたが居なければ私が家族を失うだけでなく、妻と子どもたちが卑劣な男の手に落ちるところでした」
2人の感謝の言葉に、私は笑顔で首を振りながら
「いえ、そんな。私は何もしていません。すごいのは悪魔の力に惑わされても、本来のマティアスさんを信じ続けたレティシアさんです」
マティアスさんの別人のような怒りようを見ながらも、レティシアさんは周りの助言に逆らって、夫婦の縁を守り続けた。
憤怒の指輪を回収することは、私たちだけでも可能だった。だけど家庭が壊れずに済んだのは、明らかにレティシアさんのおかげだった。
「ええ、本当にレティシアは私にはもったいない女性です」
愛しそうに妻を見下ろすマティアスさんに、レティシアさんも少女のように頬を染めて
「そんな。ここまで私に愛することを教えてくれた、あなたが稀有な男性なのよ」
本当に仲のいいご夫婦だな。素敵だなぁと私の胸までくすぐったくなった。
このご夫婦と幼い子どもたちに幸せが戻って本当に良かった。
私は「何かお礼を」というレティシアさんの申し出を断って、憤怒の指輪だけを手にこの家を去ろうとしたけど
「お待ちください。よければ、あなたに差し上げたいものがあります」
そう言ってマティアスさんが持って来てくれたのは
「これは私が冒険者時代に手に入れた不思議なお守りです。これを身に着けていると、死を覆せるとか。実際に試したことはありませんが、今回の悪魔の指輪のように、もしかしたらこれにも不思議な力があるかもしれません」
彼が私にくれたのは、首の周りに7つの玉をつけた黒猫のマスコットだった。
可愛いけど『死を覆す』なんて、すごい能力があるようには見えない。
ところがフィーロによれば
「ご主人の言うとおり、それは『九命の猫』という神の宝だ。首についた玉の数だけ所有者の死を取り消せる」
「なんと、今の声はどこから?」
私はレティシアさんたちにフィーロを紹介した。
実は占い師というのは嘘で、この家で起きた事件も全て、彼の全知の力で知ったのだと。
「あなたはつくづく不思議な方。きっとこれまでも、いくつも不思議な事件を解決して来たんでしょうね」
「でしたら、この九命の猫も、やはり私よりカンナギ殿が持っていたほうがいいでしょう。あなたはこれからも悪魔の指輪や不思議な道具と関わって行くご様子。フィロソフィス殿の全知の力を持ってしても、避けられない危険もあるでしょうから」
確かに海賊に襲われた時や、最強の剣との戦いで死の危険を感じた。
そもそも死ぬほどの重傷を負いたくないけど、何かあっても復活できるなら、すごくありがたい。
ただ
「命の危険なら日常にもありますよね? いざという時のために、ご主人か奥様か、子どもたちが持っていたほうがいいんじゃ」
「お気遣いありがとうございます。ですが家族の誰に、いつ何が起こるかは把握し切れるものではありません。大切であるがゆえに、誰に持たせるか決め切れませんから、これはやはりあなたの旅にお役立てください」
改めて勧められて、やはり九命の猫をもらうことになった。
「九命の猫は飛び出す絵本に仕舞わないで、常に身に着けておくといい。俺が傍に居る限り、君が死ぬような目には遭わせないつもりだが、何が起こるか分からないのが現実だ。用心するに越したことはない」
私はフィーロの助言に従うと、服の下に隠すように九命の猫を首から下げた。
全てが終わった後。
私はクリスティアちゃんのご両親に、無事に憤怒の指輪の事件を解決できたと報告に行った。
ついでにクリスティアちゃんに貸していた自在のブラシを返してもらおうとすると
「見てください、旅人さん! このブラシ、お人形の髪やペットの毛も変えられるんです!」
クリスティアちゃんは笑顔で、虹色の髪を持つお人形や、空色の毛を持つ犬を見せてくれた。
クリスティアちゃんは名残惜しそうにしながらも、私に自在のブラシを返してくれたけど
「「犬の毛まで梳かさせるなんて!」と自在のブラシがご立腹だ。クリスティアを失望させないように、その場は言うことを聞いたようだが、実際は不本意だったようだな」
自在のブラシの意思を代弁するフィーロに、私はハッとして
「そうだよね。最強の剣や葬送の笛に心があるなら、自在のブラシだっていろいろ思うよね? 不本意な使い方をしちゃったこと、どうしたら許してもらえるかな?」
「「いい匂いの石鹸で綺麗に洗って! ふかふかのタオルで丁寧に拭いて!」とのことだ。お姫様じゃあるまいし、我が君が優しいからって足元を見すぎだ。水洗いで我慢しておけ」
フィーロはつれない態度だけど、私は自在のブラシの要望どおりにすることにした。
「別にそこまで気を遣わなくても、道具は怒ったからって主人の命令に逆らえない。いちいち機嫌を取らなくても、いつもどおり命じれば魔法は使えるのに」
フィーロはそう言うけど
「この子たちは自分では動くことも話すこともできないけど、心があるなら人と同じだから。大事にしなきゃ可哀想」
むしろ強引に使うこともできてしまうからこそ、うっかりこの子たちを傷つけないように、大事にしなきゃと思った。
「そうやって君が人のように扱うから、無限のような時の中で極限まですり減った自我が、良くも悪くも生き生きと主張し出したんだろうな」
フィーロは苦笑いで言うと、パッと話を切り替えて
「まぁ、我が君がそう言うなら、屈辱に耐えてクリスティアを喜ばせた『自在のブラシ』をお姫様のように扱ってやろうじゃないか。まずはこの子がうっとりするようないい香りの石鹸を、魔女の万能鍋で作ろう」
それはいい考えだと、私は魔女の万能鍋で、自在のブラシのためだけの特別な石鹸を作った。
それで綺麗に洗って、柔らかいタオルで丁寧に水気を拭うと最後に
「クリスティアちゃんを喜ばせてくれて、ありがとう」
胸に抱いて丁寧にお礼を言った。
残った石鹸は自在のブラシを洗う時の専用にすることにした。
ところがなぜか、その翌日から
「なんか私の髪から、すごくいい香りがする。自在のブラシに使った石鹸の香りが移ったのかな?」
自在のブラシで、また黒髪ショートに戻した後。髪が揺れるたびに、いい香りがした。
「いいや、それは自在のブラシに使った石鹸の移り香じゃない。君のお姫様扱いに気をよくした自在のブラシから、自分のケアには無頓着な我が君への贈りものさ」
自在のブラシは本来、所有者に命じられるまま髪の色・質・長さや毛量など、見た目を変えるだけだ。
けれど自分に特別な配慮をしてくれた私に自在のブラシもまた特別な好意を返そうと、素敵な香りを髪に纏わせてくれたらしい。
私は葬送の笛と同様、言葉は交わせなくても心で通じ合える不思議な道具たちが、いっそう大切になった。




