優しい老夫婦と
私は全知の鏡に宿るフィーロを元の体に戻すために、異世界に旅立つことになった。
「じゃあ、さっそく冒険をはじめよう。俺を持ったまま、あの扉を開けてくれ」
転生ではなく転移を望む人は、神の宝を1つ手にした状態で宝物庫のドアを開けると異世界に行けるらしい。
フィーロの指示で扉を開けた瞬間、景色が切り替わり、冷たい風が吹いた。
開いたはずの扉は消えて、頭上には満天の星。目の前には夜の森が広がった。
さっきまでは魂の状態だったのだろうか。急に自分の体の重さを意識する。それと同時に
「あれ? なんかいつもと違う」
見た目や服装は死んだ時と同じ。パジャマと裸足のままだけど
「生まれつき重病だった君には、はじめての感覚だろう。それは元の世界の君の姿をもとに、新たに作られた体だ。体力的にはこの世界の女性の平均だが、ただ健康なだけで君にはずいぶん軽く感じるだろう」
私の本当の体は元の世界で死んだ。
死んだ体を転移させても、こっちでだって動けない。
それに元の世界では、死体が消えたと騒ぎになってしまう。
だから転移を選ぶと魂だけが移動して、こちらの世界で新しい体を与えられるらしい。
私のような傷病者には、病や怪我の要素を無くした健康な体が。
フィーロの言うとおり、あんなに怠くて重かった体が嘘のように軽くて、元気が溢れて来るようだった。
ずっと煩わしかった吐き気や、あちこちの痛みも無い。
今の私は健康になっただけで見た目は前世のまま。特殊な能力や魔法を得たわけじゃない。
だけど苦痛なく動けるだけで私には奇跡だった。
私は感激のあまり泣きながら
「すごい……すごい! すごい!」
そこら中、子どものように走ったり跳ねたりすると
「こらこら。嬉しいのは分かるが、君はいま裸足なんだ。あんまりはしゃぎ回ると、石を踏んで痛い思いを……ほら、言わんこっちゃない」
フィーロの忠告は少し遅かったようで、私は裸足で小石を踏んで悶絶した。
でも痛みは生きている証拠だ。これからは健康な体で生きられるんだ!
これだけでもう他に何も要らないくらい幸せだった。
有頂天になる私の代わりに、フィーロは冷静に話を進めて
「まずはその恰好をなんとかしよう。この世界で若い女性がそんな姿で歩いていたら、色んな意味で危ないからな」
確かに、いつまでもパジャマに裸足では居られない。
自分が恥ずかしいのもあるけど、周りから見ても奇異に映るだろう。
「でもお金も無いのに、どうやって服や靴を手に入れたらいいのかな?」
「もう少し歩くと村がある。村人に事情を話して、今夜の宿と服を恵んでもらおう」
私はフィーロの指示で、足元に注意しながら、小さな村に向かった。
当たり前だけど、街灯も無い夜の村は真っ暗で、しんと静まり返っている。
「こんな遅くに突然訪ねたら、迷惑じゃないかな?」
訪問を躊躇う私に、フィーロは「そんな君に朗報だ」と、ある家を指して
「ここに住む老夫婦は、たまに異世界の人間がこの世界に来ることを知っている。全く事情を知らない者に頼むより、君も話しやすいだろう」
「どうして会ったことも無い人のことが分かるの?」
フィーロは私が病気だったことも、何も話さなくても知っていた。
今さらながら不思議がる私に
「俺には全知の力があると言っただろう? 全知とは本に書かれている知識だけではない。この世界のどこに何があるか? この家には、どんな人が住んでいるか? 問いを持つことで、俺はその答えを知れる。だから前世の君のことも、この家の住人のことも分かるのさ」
「そうなんだ。話す前に相手のことが分かれば、安心して話せるね」
フィーロはすごいなぁと感心すると
「この家の住人は善人だから安心して訪ねるといい。ただノックだけだと向こうも警戒するから、君が若い女の子だと分かるように「すみません」と声をかけるんだ」
私は彼に言われた通りに、老夫婦の家を訪ねた。
深夜の訪問者を警戒してか、ドアを開けたのはおじいさんだった。
ご夫婦はパジャマに裸足の私を見て驚いていた。
事前にフィーロに言われたように、なんとか自分の事情を説明すると
「そうかい。元の世界から、いきなりこの世界に投げ出されたと。だから寝巻に裸足だったのか」
「それは大変だったねぇ」
本当にいい人たちみたいで、私を心配してくれると
「わしらも裕福ではないから、ずっとここで暮らしなさいとは言えんが、取りあえず今夜はここに泊まるといい。夕飯の残りがあるから、それも出してあげよう」
「あ、ありがとうございます」
取りあえず今夜の宿を得られてホッとした。
空いているベッドは無いので、私はソファと毛布を借りて寝床にした。
私は寝る前に、フィーロにコッソリと
「いろいろ助言してくれて、ありがとう。フィーロが居なかったら、どうしていいか分からなかったよ」
「そもそも君は、俺の問題に巻き込まれているんだがな」
転移じゃなくて転生を選んでいたら、私はなんらかの種族の赤ちゃんとして生まれる。
特に人間なら家つき親つきで苦労することは無かったと、フィーロは言いたいみたいだけど
「でも誰かの力になりたいとか、自由にどこまでも歩いてみたいとか、ずっと願っていたのはこの私だから。この私のまま、これから色んなことができるの、すごく嬉しいよ」
転生しても記憶はそのままらしいけど、違う自分になってしまうのは寂しい。
だからこのままの私で生き直せて良かったと言うと、フィーロは「そうか」と少し複雑そうに微笑んで
「じゃあ、俺は君の旅が少しでもよいものになるように助言しよう」
「今日は色々あって疲れただろう。もうおやすみ」と眠るように促した。
フィーロの見た目は21、2歳くらいの、とても美しい男性だ。
私は異性に免疫が無いので普通なら緊張してしまいそうだけど、彼は鏡の中で千年の時を生きているからか、まるで神様か何かと話しているようで、不思議と落ち着く。
フィーロが一緒なら、きっと明日からも大丈夫。そんな安堵と共に目を閉じた。
翌朝。ご夫婦は私に朝食を振る舞ってくれただけでなく
「村の者に頼んで、お嬢ちゃんが着れそうな服をもらって来たよ」
「靴もサイズが合うといいけど」
裸足でパジャマの私のために、進んで女ものの服と靴を用意してくれた。
ご夫婦は私が無一文で、なんのお礼もできないことを知っているのに。
だからこそ困っているだろうと、こんなによくしてくれる。
フィーロが言っていた以上に、すごく優しい人たちだ。
こんなによくしてくれたご夫婦に、ぜひ恩返しがしたい。
「あの、家を出る前に、何か手伝えることはありませんか?」
見たところご夫婦の家は、掃除が行き届いておらず、少し埃っぽかった。
フィーロによれば、おじいさんは75歳。おばあさんは73歳と、この世界ではかなりの高齢なので、日々の生活で手一杯なのだろう。
健康体を手に入れた私は元気がありあまっているので、ご夫婦ができないことを代わりにやってあげられないかと考えた。
私の申し出に、おじいさんたちは
「そうかい? じゃあ、ちょっと頼んでもいいかねぇ」
それから私は1日中、掃除や修繕に励んだ。
でもそれはいっぱい頼まれたのではなく、単に要領が悪かっただけだ。
前世の私は、ただ歩くだけでも大変なくらいだったので、家の手伝いもできなかった。
しかもここは異世界。私が居た世界のような文明の利器は無い。
特にここは田舎なので、火を点けるにも薪から準備しなきゃいけない。
だからおじいさんやおばあさんに、いちいち教わらなければできなかった。
「かえって迷惑をかけちゃったみたいで、すみません……」
掃除や修繕が1日がかりになってしまったせいで、なんともう1泊させてもらうことになった。
すると、ご夫婦は優しいので、寝床を貸すだけじゃなく食事も出すことになる。
恩を返すどころか、むしろ負担を増やしてしまったと落ち込む私に、ご夫婦はニコニコと
「何か返そうと思ってくれた気持ちが嬉しいよ」
「それに料理に使うふくらし粉を熱湯に混ぜて浸けておくだけで、鍋の焦げ付きがあんなによく落ちるなんて知らなかった。異世界の人の知恵はすごいねぇ」
おばあさんの言う『ふくらし粉』は、私たちの世界で言うところの重曹だった。
でも重曹が焦げ付き汚れにいいと教えてくれたのは、私ではなくフィーロだ。
確かに全知の鏡だと言っていたけど、生活のお役立ち情報まで網羅しているなんて、すごい。
ネットは自分で検索しなきゃいけないし、誤情報も紛れている。
だけどフィーロは常に最適解を教えてくれる。
フィーロは他の神の宝のほうがすごいみたいに言っていたけど、私は彼について来てもらって良かった。
掃除や修繕で丸1日潰れてしまったので、その日もご夫婦の家に泊めてもらった。
翌朝。朝食をいただいた後。
「あれからよく考えたんだが、これからしばらく旅をするなら、男の恰好のほうがいいだろう。女の子の1人旅は危ないからね」
おじいさんは新たに男物の服を用意して
「ミコトちゃんが構わなければ、ここで髪も切ってあげましょう。遠目には男の子に見えるように」
おばあさんは長かった私の髪を短く整えてくれた。
そして最後に
「少しだけど、昨日のお手伝いのお礼。路銀にしてね」
「そんな。こんなによくしていただいたのに、お金までもらえません」
私は咄嗟に断ったけど
「でもミコトちゃんは無一文なんだろう? 食事をするにも宿を取るにも、お金は必要だよ」
「でも私、おじいさんたちに何も返せてないのに……」
昨日は掃除を手伝ったけど、家が綺麗になる得よりも、教える手間のほうが多かっただろう。
掃除や修繕の仕方を教えてもらった分、むしろ私のほうが得してしまったかもしれない。
せっかく異世界に来たのに、また人の優しさに甘えて、与えてもらうだけになってしまっている。
しかし気に病む私に、ご夫婦は親切に微笑んで
「うちは息子がずっと昔に出て行ったきりで、それからは夫婦2人だけの静かな生活だったから、久しぶりに若い子と話せて楽しかったわ」
「君のおかげで家が綺麗になったし、わしらの心も明るくなった。だからこれは、そのお礼だと思って。遠慮せずに受け取っておくれ」
路銀をもらえたことよりも、ご夫婦の優しい言葉に、私は堪え切れず泣いてしまった。
ご夫婦はさらに、私が村の人の荷馬車に乗せてもらえるように頼んでくれた。
私はおじいさんとおばあさんの手を順番にギュッと握りながら
「いつか絶対に恩返しに来ます」
グスグスと泣きながら約束すると
「恩返しはともかく、もし近くに寄ることがあれば、顔を見せてくれたら嬉しいわ」
「じゃあ、元気で。危ない目に遭わないように気を付けて行くんだよ」
荷馬車が動き出した後も、私はご夫婦の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
私は荷馬車に揺られながら、コッソリ紫のコンパクトを開くと
「おじいさんたちに会わせてくれて、ありがとう。フィーロが言っていたより、ずっと優しい人たちだったね」
しかし私の言葉にフィーロは
「あの老夫婦はもともと優しい人たちだ。でも見ず知らずの君にこれだけ親切にしてくれたのは、君があの人たちの親切に、そうやって泣くほど感謝して、何も持たないなりに何か返そうとしたから。だから向こうもただの親切以上の思いやりを返してくれたんだ」
「現に昨日と今日では対応が違っていただろう?」と彼は続けた。
確かに、ご夫婦はわざわざ男装の用意をしてくれて、路銀を持たせて荷馬車の手配までしてくれた。
行為だけでなく、声や眼差しも、昨日より今日のほうが、ずっと温かく感じた。
「君もそうだろうが、ほとんどの人間は優しくされると嬉しくて、自分も親切にしたくなる。だから君はよき旅人であろう。そうすれば武器など無くても、君はこの世界の人たちと、助け合いながら生きていける」
フィーロの言葉に、私は深く頷いた。
この村のご夫婦には私が与えてもらうほうが多かった。
でも私はきっと、これからたくさんの人と出会うだろう。
フィーロの言うとおり、よき旅人になろう。
これから出会う人たちと温かな交流ができるように。
そんな明るい希望を胸に、私とフィーロは次の場所へ向かった。