#7 野里川
伊丹参謀は浦上隊がそうも赤松に反撃できないことを悟っていた。
まずった哉。浦上隊の陣の付近には川がある。必ずや混乱の最中、碌に撤退路を確保できず、川に流される者も多数であり、壊滅するであろうと伊丹は細川師団の行軍に歯止めをかけた。
「参謀。薬師寺の思いを無碍にする気か。まさか戦線離脱という愚策を考えていないだろうな」
「閣下。作戦会議の場でもお話ししたように、浦上の付近には懸念していた野里川が流れております。混乱の末の挟撃など、まともに戦闘機能を発揮できるはずがなく、川が兵隊の足を止め、機動力を奪う。浦上は高い甲山に構える赤松師団には反撃できないでしょう。それに今……薬師寺隊は戦闘を終え、三好の前に潰えた様子。薬師寺中尉の戦死を認めます」
双眼鏡を手にした伊丹参謀は薬師寺隊消滅を確認。なにも浦上救援が薬師寺の思いではない。薬師寺の思いは唯一つ。主君細川高國中将を守る為であった。
であるからこそ、無駄死にしてはならないと伊丹参謀は指揮官を引き留めようとしていたのだ。
「ぬう……」
と声を漏らした細川高國は両肩を落とし、俯く。果たして、指揮官は思いを改めたのだろうか……。
「伊丹。俺にも考えがある。伊丹に部隊を預ける。貴様は浦上の救援へ向かってくれ。今日までこうも阿波細川と渡り合えたのは一つに、浦上の力があってのことだ。苦戦を強いられている味方を見捨てられんのだよ。武人の名が廃れるのだ。私は本隊を率い、三好と干戈を交える。伊丹、貴様は赤松を喰いとめてくれ。頼む」
なんということだろうか。自軍戦力を二分にすると云う。
「三好隊を避け、阿波卿の首を刎ねるが先決ッ! 阿波本軍への全軍突撃の御決断を」
指揮官は威勢を喪い、諦めの境地に足を踏み入れてしまったのだ。伊丹参謀は戦闘目的は阿波細川の撃退であるのに、三好への突撃と浦上救援に主軸を置いている指揮官に迫った。
「兵士の命を預かる身として、こうも右往左往しては定まらんといかんだろう。情けない指揮官で済まないが、頼むッ」
私情、そして武人としての面目を捨てきれずにいる細川高國は頭を下げたのだ。斯くも指揮官が懇願するのだからもう伊丹は何も云うべきことはなかった。むしろ苦しい決断を下すしかない程の補佐ができなかったと自らの未熟ぶりと悔しさとが相まった感情が伊丹の身を震わせた。
「閣下の御命令だ。私が赤松の襲撃を受ける浦上救援隊を率いる。閣下は三好撃破に向かわれ、阿波細川と交戦する。諸君、後顧の憂いを絶て。決して退くな」
伊丹少佐は声を上ずらせながら、師団兵に命じた。要は決死の作戦遂行に移行されたのだ。恐らく再び会うことは無いだろう。
「閣下……。永くお世話になりました。帝國日本の地で命運を共にするなど無上の喜び。喜んで行ってまいります」
と伊丹少佐は馬上の主君に挙手の礼をする。指揮官は口を一文字に結び、眼に溢れ出る思いを必死に堰き止めようとしていた。今生の別れだ。
「俺も幸せだ。いつの日かまた会おうぞ」
「では……。進軍せよッ」
参謀は指揮官に背を向けた。進軍ラッパが鳴り響くと伊丹隊は甲山方面へ動き始めた。
「平野の方から細川師団が動いた! 動きました。我が軍への救援です」
押されに押されている浦上旅団に僅かながらの朗報が伝わる。
「高國卿が動かれたぞッ。細川師団が援けに向かっている。踏ん張りどころだ」
と浦上村宗少佐は叱咤激励するが、敗色濃厚の形勢逆転はとても望めるような戦況ではなかった。手当たり次第に山から下りてくる鬼を防ぐしかなかったのだ。
(細川の動きが鈍い。今、兵を寄越されたところで赤松に背面から攻撃を受けた時点で、詰みに近い。しかし、防戦一方とはこれまさに……。想定外の状況に於いて、攻勢に転ずる程の体力は我が隊に無し。兵は離散し、何なら赤松に味方する者が現れるほどか。川がある、川で乱戦だ。赤松の勢いも削げる筈だ)
島村大尉は冷静さを保ちつつ戦況分析を終えると、浦上少佐に提言した。
「少佐殿。兵を下げましょう。下げざるを得ないですから」
(敵に背を向け、「敗走」の格好となるが、赤松に嘲笑されようが、されまいが関係なし。むざむざと混乱のうちに全滅して何になると云うのだ。武人の面目など捨ててしまえばいいのだ。少佐殿にもお分かりいただきたい)
「よし、分った」
全幅の信頼を置く大尉の提案を浦上は二つ返事で吞んだ。
しかし、視界の届かぬ背は急所である。背を向けて、川付近に退くうちにも赤松の恰好の標的となり、浦上の兵員は猶も数を減らしていく。
「野郎、川に下がるつもりだッ。足元が悪くなるぞ。それに、その先に細川の差し出した一隊が向かおうとしている。気をつけるのだ。浦上の撃滅までもう少しだ。追え、追うのだッ!」
赤松政秀少尉は叫び、追撃の兵に注意を促す。
「なっ……。なんと浦上が動いた。野里川だ。急げ。何とか赤松と交える前に浦上と合流するのだ」
細川師団伊丹少佐も浦上が野里川付近に移動したことを認め、早急に合流を目指した。