#5 闇夜の離脱
甲山より見下ろせる摂津大物の平地に野営中の浦上旅団。空はすでに暗くなりつつあり、焚火で視界不良を紛らわす。夏の焚火はより熱気を増進させ、寒冷極まる冬の時期に次いで夏の野営は将校・兵士問わずあまり好まれるような季節ではなかった。
そのような熱気に覆われた野営地の四方八方を囲む歩哨のうち、一人が旅団長の浦上村宗少佐の下へ駆けつける。
「旅団長殿。細川閣下がお見えです」
(まさか夜襲の打ち合わせではないだろうな)
浦上少佐は予期せぬ細川高國中将の電撃訪問を受け、たじろいだ様子をみせた。
細川卿が姿を現すと右手で盃を口元に近づける仕草をしていた為、軍議ではないことを浦上は悟った。
浦上少佐に近侍する島村貴則陸軍大尉は深入りせず「話さずともわかります。どうぞ。現場の指揮監督権は私に授けてください」と云う。
「この期に及んで将が尻を向けるのはなんとも情けないが、よろしく頼む」
浦上少佐は現場指揮権を授け、前線を離脱した。自身の右腕ともう云うべき、旅団の中核を担う老大尉に押されては、浦上はどうも前線を離れざるを得なかった。
「どちらへ行かれるのですか?」
野営地から外れた場所に自動車が待機しており、聞くとなんと細川邸に向かうのだという。摂津から京へという距離を移動する。戦闘を翌日に控えているのに細川中将は実に間抜けな程に悠長であった。
「長年の感から夜襲の恐れはない。阿波細川の戦の仕掛け方は読めている」
と云う細川中将は全く意に介さず、堂々と「さあ車を出してよい」と運転手に口にする。
(中将閣下は戦に疎いのか、それとも実力者だけあって大胆不敵なのか、分からぬな)
とても信じ切れぬ浦上少佐はどうも定まらぬ浮ついた印象を抱いたが、断り切れず細川邸に到ったのだ。
細川邸には細川高國中将の弟・細川晴國陸軍中佐、そして一門からの養子である細川氏綱陸軍少佐ら京兆家の人々が控えていた。
「兄上だ」
「父上殿がお帰りだ」
突然の主人の帰りに家中は大騒ぎ。
「まだ生憎、戦闘に至らず戻って参った。酒と肴が欲しい、君らの顔も見たくなったのだ。突然は突然であり、悪いが、客人も連れている。静かにしてくれまいか。さあ酒と肴の用意を料理番に伝えてくれ」
細川中将は家中の者を制した。浦上少佐は申し訳なさそうに頭を下げ続けながら廊下を進んだ。
「本当によろしいのですか? 不安でなりません。敵前逃亡に等しいではありませぬか」
細川邸の主人に和室に招かれても客人は一向に座ろうとしない。「よいから早く」と云う主人に引きずり込まれる形で、浦上少佐は漸く座した。
「そう云うでない。敵前逃亡だなんて忌々しいようなことを口にしないでくれ給え。楽にしてくれや」
酒と肴が女中により運び込まれると、主人は「ありがたいものだ」と感謝の意を述べ、女中は久しぶりの主人の顔に懐かしむような眼差しを向け、頭を下げた。
「なにからなにまで付き合って貰い、悪いですな。自邸に立ち寄りたくなり、そして貴公を招待してみたかった。ここ最近は戦続きで、家中の者とは碌に顔を合わせていなかった。そこで決戦を前に、我が家を懐かしくなったのだ」
「明日は約定通り、我が主の赤松が参戦になられるので、後顧の憂いは無用です。阿波候共に一泡吹かせてやりましょう。堺なぞに足利義維さまを擁立する無法者は成敗されるべきですから」
「さて、どちらが無法者かね? 貴君も無法者ではないか。先代の赤松侯爵殺しの主犯である君が云うことかね? 戦闘狂の君の野心、目を見張るものである。そうか、私も無法者か。いやア阿波細川も無法者だ。そうだ、この世は無法者が軍事力に物を云わせ、無法の限りを尽くすのだな」
細川は皮肉さを含んだ高笑いした。とてもではないが、共闘相手に言い放つ言葉ではない。頭を掻きながら浦上少佐は謙遜する素振りをみせるも、奥歯で舌を噛み、笑って許してやろうと耐えた。
「これは一本取られましたな。私も主人を殺めてしまいましたな。しかし、戦闘狂だなんて云われてしまいますとね、細川閣下は独特な表現を好まれるようだ」
「笑い話はこれまでにしておきましょう。この戦闘にて阿波細川を滅ぼした暁には貴君に爵位授与したいと考える。手始めに男爵でよいだろう。宮内省方面に働きかけてみるよ。阿波細川の敗退により、漸く安心して枕を高くして寝られるのだ。これ程の幸せはないのだよ。我が京兆家の一強体制になるのは間違いなしだ」
暑さを凌ぎたくなった細川は詰襟の第二ボタンまで外し、鉄扇で扇ぎ始めた。なんとも余裕を醸し出す所作であった。
爵位を有すものは領主軍人と文官貴族ら極一部の者に限られていた。つまり、細川中将の提示した条件は、浦上村宗中佐が実効支配している赤松侯爵領の一部を正式に「浦上男爵領」として認めるに等しかった。そもそも浦上が細川と手を組んだ理由でもあったのだ。元帥家の家宰である細川中将の権威を利用し、赤松侯爵領の支配を正当化したい思惑があったからである。
酒の酔いに嬉しさが相まった浦上少佐は顔を紅潮させ、日本酒を細川中将の盃に御酌した。「今宵の酒は程々にしよう」と云って、切り上げようとする細川に「そういえばよろしいでしょうか」と、浦上は待ったをかけた。
「やはり若しもの為、元帥閣下を戦場にお連れいただけないでしょうか? ご出馬されたら前線兵士の士気は意気軒昂となります。それに官軍である大義を得られる」
急に不安に陥った浦上少佐は頭を下げた。気が動転したのか、急に目覚めた浦上少佐の要望に細川将軍は憮然とした表情で、元帥出馬を否定した。
「成らんな。飽くまでも私の推測であるが、君のことをよく思われておられぬと感ずる。赤松義村殺しが影響している。元帥閣下の幼年期を支えた赤松侯爵を殺めたのは君だ。君に協力など以ての外であろう。私としても両細川の決戦には元帥閣下を巻き込むような真似はしない。死ぬのは我々だけでよい。それこそ元帥閣下に若しもの事あらば、阿波党は好機とみて、足利義維さまの元帥就任の見通しが立つ。我々で決着すべきだ。それに俺も細川が途絶えぬよう、このように晴國、氏綱には控えてもらっている。何もかもが死なば諸共の考えではいかんのだ」
ただただ浦上少佐は首を垂れた状態のまま己の過去に苛立ちを憶えた。主家赤松一族もろとも葬る完全なる「下剋上」ではなく、主君のみに限定した、中途半端な叛乱を今になって悔やむしかなかった。
(ならば勝つしかない、勝機を得て、黙らせるしかない。やがて俺が播磨一帯を支配するのだ)
「よいか。顔をあげろ」
細川中将は虚脱状態にみえた浦上少佐の両肩を摩った。享禄四年六月三日のことであった。