#1 禍根
帝國日本が超軍事國家期を迎えていた頃である。東京奠都の以前、帝都「京」を舞台に軍人と政治家、あらゆる怪物が野望を、大義を燃やしていた。
大日本帝國軍最高司令官たる「元帥」の座は代々、足利家に受け継がれていた。北関東を領有する男爵、源朝臣足利高氏陸軍少佐は畿内兵乱に乗じ、大日本帝國軍副司令官を歴任していた相模伯北条家に反旗を翻し、大日本帝國軍最高司令官の座を奪取。以来、元帥として君臨し続けていた。
ここ日本の軍事政権の祖たる源氏一門で固められた一大軍閥笹竜胆党の出である足利は権威主義者、復古主義者たちに崇められた。軍政組織の内部粛清に躍起になり、貴族文化とは乖離した血腥さを帯びた北条軍事政権期に比べ、血筋の良さに加え、生粋の高貴さと尚武の精神性が溢れ出ている足利家を帝都は歓迎したのである。
漸く戦争が終焉を迎え、平安が齎されると―――。
人々の願いに反し、恒久平和の願いは儚く、続くなかった。いつまでも英雄が統べる時代を欲せず、たまには常道から逸れた道から現れる野心家に時代の主導を握られてしまうのが世の常。元帥継承問題に常に悩まされる足利元帥家を利用した諸侯による政治的・軍事的衝突が枚挙にいとまがなかった。
要は、伝統的価値観からは存続して欲しいが、存在なくても思いの外、困らないという、ある意味扱いが容易ならぬ武門の最高位になってしまった。かといって、元帥家をのさばらせることに対しては諸侯は危機を憶えるのである。
足利の軍事政権の黎明期に功をあげて以来、足利一門として政府内で重鎮を為していた細川家は嘗て、本家の京兆家第十二代目当主の細川政元陸軍中将が子息を儲けなかった為、養子を迎えた。
しかし、家督継承を条件に名門九条家から迎えた聡明丸とは折り合いがつかず、政元は約束を反故し聡明丸の廃嫡を決めた。つぎに政元は阿波細川家から迎えた六郎に家督継承を確約。ここで手打ちすればよいものを政元は野州細川家からも高國を迎えた為に継承抗争を遺してしまった。
廃嫡された聡明丸は元服後に澄之を名乗り、細川京兆家の家督後継に細川澄之を擁立した一派の反逆に遭った細川政元は暗殺される。
細川の主を葬った九条家の者に京兆家を継がせる訳にはいかない六郎元服改め澄元を擁立する阿波細川派と九条細川澄之派による家督争いが次いで勃発。野州細川高國も一門である澄元と共闘し細川澄之を滅したが、今度は阿波細川と野州細川の京兆家の家督争いへ推移した。
細川政元は家督後継のほかに元帥家後継の問題を遺していた。
足利元帥家は第八代足利義政の頃より元帥後継問題を起因とした応仁年間凡そ十一年にも亘る日本を二分にした大内戦を引き起こしていた。内戦の結果、義政の息子・足利義尚が第九代目元帥を継承。しかし義尚が急死すると、失意の義政も子を追うかの如く没し、元帥の座は大いに揺らぐ。
細川政元は第八代目元帥足利義政の弟・足利政知の子で、禅僧の清晃を推挙。ところが息子と主人を亡くすも猶も健在である日野富子らの推挙により義政の弟・義視予備役陸軍大将の子息、足利義材陸軍大佐が第十代目の元帥に就く。日野富子は同時に清晃を自邸へ呼び寄せるなどして、あらゆるところまでに予防線を張り巡らせ、義弟の足利義視予備役陸軍大将に睨まれていた。
血を流さずとも元帥の座が目の前に転がり込んできた足利義材は、河内公爵畠山家の家督を巡り、畠山義就陸軍大佐と争う参謀総長畠山政長陸軍少将と連携。元帥、参謀総長というけれども名ばかりに等しく、実態は日野家や細川政元に支配されている軍政への不満がある畠山少将と足利義材元帥は、誰からも容喙を許さぬ支配体制の強化を図った。なお、政府は畠山公爵家の正当後継者は畠山義就であると認定していた。
畠山政長と足利義材の暴走に危惧を憶えた細川政元と日野富子は、元帥擁立を巡って衝突した過去の諍いを洗い流すこととし、手を組んだ。細川政元自身は畠山少将を殺害することで「参謀総長」の座を奪取する野望を抱いていた。
政府は畠山少将の殺害と足利義材元帥の排除を計画し成功。細川の政変により、元帥の解任並びに幽閉を言い渡された義材は暗殺を悟り、帝都脱出。越中へ亡命した。
細川政元が擁立していた清晃は還俗し「義高」と名を改め、第11代元帥の座に就く。日野富子死去後、政府の実権は参謀総長に就いた細川政元陸軍中将の一手に握られ、僧から突如として一國の武門を統べる最高位に就いた身としては面白くない状況であった義高は猶も「義澄」と改名した元帥と細川京兆家は対立を深めた。
脅しを試みた細川政元は敢えて参謀総長辞任の意向を示すと、足利義澄元帥は慌てだし慰留。結局、義澄も政敵でありながらも細川参謀総長という後ろ盾の喪失を恐れた。
ただ、義澄も一筋縄にはいかぬ者。同時に「ならば我こそも」と義澄は報復の意を以て、公務放棄し金龍寺に身を移した。宰相細川政元は困り、亡命中の足利義材ら反細川京兆政権勢力に隙を見せじまいと公務復帰を懇願し、頭を下げ続けた。
宗教世界に身を置いていた割には俗世の権力への執着ぶりをみせる足利義澄は、先代のように政元の粛清対象にされるやもしれないと慄き、自らの身を案じた。公務復帰の条件として、己以外の誰にも元帥の座に就けられぬよう、いざとならば後継候補に担がれるであろう足利義材の兄弟で実相院僧侶の義忠の暗殺を細川に命じた。
足利義材派の怒りを買う暴挙に過ぎぬものの、義材派の勢力を削ぐ利点もあると判断した細川は心を鬼にし、自部隊の陸軍歩兵に命じ、金龍寺に元帥の様子伺いに訪れた義忠を暗殺した。
斯くして例の細川京兆家で当主・細川政元の暗殺により後継争いが起こり、細川京兆家も揺れ動く。各地流転の間に帝都・元帥の座を奪還を目指していた足利義材は「義尹」と改名し、先の大乱で父・義視陣営として戦功を挙げた周防公爵大内義興陸軍少将を頼り、帝都京を攻めた。
帝都を追われる身となった足利義澄。帝都に返り咲いた足利義尹。阿波細川は義澄を、野州細川は義尹を其々擁立。元帥家後継と細川京兆家後継の大きな二つの問題が絡み合った元帥継承戦争は義澄の病死を以て、一先ず終結した。足利義尹は「義稙」と改名した。
やがて事態は間もなくして独裁志向の義稙と細川高國ら諸侯との仲に隔たりがみられるようになり、復権の功労者である大内少将が自領に帰還すると、好機を逃しまいと細川澄元中将は細川高國討伐に乗り出した。義稙は目の上のたん瘤である高國に悩まされていた頃に、細川澄元の再登場である。願ったり叶ったりの義稙は澄元と内通するや否や、討伐された細川高國は帝都を脱する。
ともすれば阿波細川の天下が永続するのか―――。
情勢は安定することを知らず、京を抑えた期間は僅かに過ぎなかった。すぐさま細川高國の反撃に遭った阿波細川澄元は自領に追いやられ、のち志半ばで没す。足利義稙は自力で細川高國の排除に着手するも後柏原天皇の即位式を控えた時期であった故に、天皇の怒りを買い、政権掌握した細川高國が擁立した義澄の遺児・義晴が第十二代元帥に就任に至った。
足利義稙は阿波に逃れ、再起を図るも帝都帰還できずに没する。京兆家当主は野州細川の出である細川高國となり、帝都は細川高國政権が築かれんとした。