90.伝えたいこと、伝わること
心底不満そうな顔を見て、私は少し可笑しくなってしまった。
「そんなことはないよ。自分なりに解釈したものを表現しようとすることが大事なんだよ。これは師匠の受け売りなんだけど、作り手が表現したものを見た側がどう受けとるかはその人次第だから、作り手側は考えを強制してはいけないんだって。それが芸術の面白いところだって」
詩苑は眉根を寄せて考え込む。
何か分かりやすい例はないかと私も一緒になって考え込んで、つい最近自分が歌ったことを思い出した。
「例えば…私が母親から教えてもらった歌があるんだけど。明月の民の民謡らしくて、この大陸の言葉じゃないから意味は分からなくてね。でもなんとなく、母親の歌う姿を見ていると、優しい気持ちになれるんだよね」
「もしかして、あのとき歌っていたのってそれ?央智に閉じ込められたときの…」
そうそれは、閉じ込められたときに眠らないように歌っていたあの歌だ。助けを求める意味もあり、外に聞こえるように歌っていたのだ。誰かに聞かれていても不思議ではない。
「き、聞こえてた…?」
「ちょっとだけ」
しかし歌の上手な詩苑に聞かれたと思うと、急に羞恥が込み上げてくる。顔に熱が集まるのを感じて、どうにかして詩苑の視界から消えられないかと、練習場の隅で膝を抱えた。
「…あの歌、もう一度聴きたい」
詩苑は懐かしむように、目を細めた。まさかそんなことを言われると思っていなかった私は、対照的に目を見開く。
「…………下手だよ」
羞恥心から歌うことを逃れたい私は、子どものようなことを口走るしかなかった。
「下手でもいいよ。言葉が分からなくても伝わる何かが、俺にも分かるかもしれないよ?」
どうしてそこで可愛らしく小首を傾げるのよ。詩苑がそんなことしたって可愛く……ないわけがない。正直に言って可愛い。
ねえ、私が詩苑の顔に弱いこと知ってるよね、知っててやっているんだよね。
「……後でちゃんと、忘れてよね」
詩苑の理解の助けになるなら、私に出来ることをしてあげたい気持ちはある。してあげたいが私にだって人並みの羞恥心が存在する。相反する二つの気持ちに揺れたものの、やっぱり詩苑の歌は出来る限り良い状態で世に出したい。
詩苑が表現を理解するためならば、私の羞恥心など取るに足らない。薄布に針を通すのと同じように、大したことではない。そう自分に言い聞かせた。
それから真っ直ぐこちらを見ている緑色とは目を合わせず、私は渋々口を開く。
「”おてんとさぁまはかくれぇんぼ、さあゆうげはぁみぃんなでぇ、ござぁしいてぇ”」
明月の民が使う言語を私は知らない。だから、母様が口ずさんだ通りに真似をして覚えた。一度だけ意味を訊いたときには、「私たちの歌よ」と言われた。
「”さかぁずきぃかわぁしてぇまぁいおどぉれぇ、よぞらぁのかしょぉくにぃてらぁされぇてぇ”」
緊張に震える声もそのままに、たどたどしい私の歌を、詩苑は目を瞑って静かに聴いている。
本当はこんな拙い歌を耳に入れたくもないのに、そんなに真剣な顔で受け止められては、途中で止めるわけにもいかない。
「”われらぁとこしえにぃ、おおぉごんのぉ、ひざぁもとぉ”」
歌い終わったあとの何とも言い難い沈黙に、私は両手で顔を覆った。絶対に耳まで真っ赤だ。
「……どうですか」
ついに耐えきれなくなって、うっかり自分から感想を求めるという暴挙に出た。
「萌稀の歌、いいね」
…何がでしょうか。今は私の歌の質とかそういう感想は特に求めていないのですが。
「なんていうかこう、あったかい音で、お母上との思い出があるんだろうなって思った」
「伝わることがあったなら良かったです」
あったかいのは詩苑の声音の方だと思う。どうしたらいいか分からなくて、何故か丁寧な言葉遣いで返してしまった。
その時、ガチャリと扉が開いた。
「おう、まだ詩苑だけ…萌稀もいたか、今日は早いな。どうした、そんな隅で」
そんな二人の生温いやり取りを終わらせてくれたのは、縹さんだった。本当に助かった。
「お疲れ様です」
一向に顔を覆ったままの私を訝しみながら、縹さんはいつも通り準備を始める。
伴奏の代わりを避けようとしただけなのに、どうしてこんなことになったのか。完全に失敗した。
このあとは自分のことだけ考える。そう誓って練習を遠目に観察した。
*
それから数日後、私は意匠案を提示した。
「つまり展開に沿って三回衣装替えをするみたいなことよね。始めは肌着、その上にシャツを着て、いったんマントのようなものに包まり、最後にマントを脱いで上着を羽織る。それぞれに、キャンバスと同じ絵を澄麗先輩に描いてもらうの」
「え?それ有りなの?」
「なんかずるくない?」
「ずるくないですー。私に文句言っていいのは締め切りをちゃあんと守った人だけですー」
クロッキー帳を見せた私に対し、意義を唱えたのはもちろん、詩苑と山蕗である。
やっと私の番が回ってきて嬉々として考え始めたは良いものの、どう考えても時間に余裕がない。
「主旨には沿っているし、衣装の発想としては面白いと思うがな。それが例え既製品だとしても、主旨を理解した上での演出であれば、衣装担当の仕事としては正解だろう」
縹さんは当然の如く了承してくれた。しっかりと主題を分析して、澄麗先輩の絵を山蕗の曲とともに自分の中に落とし込んだ結果、この方法が最善だっただけだ。
別に決して楽をしてやろうとかそういうことではない。時間短縮になるなとは少しだけ思ったが。
「私の絵を萌稀ちゃんのお衣装に描けるのね。服に描くのは初めてだけれど、なんだか楽しそうだわ」
澄麗先輩も喜んでくれている。私はしたり顔で文句を言った二人を見た。
「これでやっと縹さんがまとめに入れるんだから、私の発想力に感謝してほしいくらいだけどね!」
余裕を持って始めたはずの後期発表準備も、気づけば残りひと月を切っている。
私が今見せているのもあくまで案としての画であるからには、制作はこれからなのだ。学科の課題で仕立てることに慣れてきたとはいえ、元々作業の遅い私は夜までミシンと向き合い続けなければならないだろう。
さらにこの人たちは知らないだろうが、私にはこれから学年末の少し大きめの課題もある。定期発表だけに追われているわけではない。
「さて、演出計画は考えるが、いったん全体は一週間後に集合でいいか?萌稀はそれまでにどの程度出来そうだ?」
「一週間あれば概ね形にはなると思います。完全に縫ってしまってから澄麗先輩に着彩してもらおうと思うので、澄麗先輩には個別に相談しにいきます」
「楽しみに待っているわ。空き時間はなるべく絵画科の教室か、談話室にいるようにするわね」
「お願いします」
*
そうして私と縹さんの作業も進んでいくが、結局最後まで悩み続けているのは詩苑なのであった。一人、苦手なことと戦っているので仕方ないといえば仕方ない。
何度目かの衣装合わせでも、詩苑は歌う度にうんうん唸っている。
後期は様々な障害により楽しく課題をやったり出来なかったり、乗り越えるべき壁にぶち当たってきた末に、今の私には少しだけ心の余裕がある。
詩苑に着せた衣装をいったん脱がせたので、細かい補正をしているが、これが終わったら少し相談にのってもいいかもしれない。
「スキャットに感情のせるの難しいな…」
椅子に座った状態で手足を投げ出し、虚空を見つめながら詩苑はぼんやりと言った。
「苦手だねえ」
「ううん…」
いくら絵と曲の解釈をみんなでやろうと、歌部分を実際にどうするかは詩苑が頑張らないといけない。
未だにスキャットの感覚が掴めないらしい詩苑は、本番まで残り一週間となった今日も、歌っては悩むを繰り返していた。




