88.生みの苦しみ
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視界には、必死に楽譜に何かを書き込む男と、ピアノに向き合う男。
「ねえ詩苑、三十二小節目からちょっと変えたいんだけど」
「また!?俺今やっとそこの解釈終わらせたところなんだけど!?」
私は行儀悪くも左手で頬杖をつき、右手は握ったペン先でクロッキー帳をトントンと叩いた。
「ねえ、私はいつになったら衣装を考えてもいいの」
私の問いかけに、詩苑と山蕗は揃って肩をびくつかせる。詩苑は俯いたまま、山蕗はピアノを向いたまま、それぞれ私の声なんて聞こえなかったふりを貫き通す。
ここ一週間の第三談話室は、いつもよりピリピリとした空気が流れていた。
「縹さん、いくら私でも限度はありますからね」
「もちろん分かっている。そのつもりで予め最終的な期限は決めてある。それに俺だって、細かい演出を考えるのに時間は欲しい」
そう言って縹さんは優雅に茶をすする。
「まあまあ萌稀ちゃん、二人とも頑張っていることですし」
「甘い!甘いですよ澄麗先輩!こちらがいくら頭を捻ろうと、期限は待ってくれないのです!それが十割の力だろうと三割の力だろうと、期限に提出できたものがその人の実力なのですよ!提出出来なければ実力がないも同然です」
完全なる師匠からの受け売りを、宥める澄麗先輩に強く訴えかける。
「そもそも!二人して本来の期限を一ヶ月以上ぶっちぎるなんて有り得ないですから!」
べしんと卓子を叩くと、二人はまた揃って肩をびくつかせた。
やっとこさ邪魔物を排除し、安心して定期発表の準備に取りかかれると思っていた矢先に、問題は起きた。
縹さんが主題を決め、澄麗先輩がそれに沿った絵を描いたところまでは順調だった。
それなのに、三番目の作曲担当である山蕗は一度曲を出してきたものの手直しを繰り返し、四番目の歌担当である詩苑は解釈がまとまらず未だ通して歌えていない。
この二人の制作が行き詰まってしまうと、当然そのあとに控える私の衣装と縹さんの演出は、出発点にも立つことが出来ない。
闘技大会から早ひと月が経とうとしているという事実に、そろそろ私は煮えを切らしていた。
「何をそんなに悩んでいるか知らないけど、取り敢えず一回聴きたい!私も参加したいぃぃぃ……」
広げたクロッキー帳に意味の無い落書きを増やしつつ、私は二人に駄々を捏ねた。
「どちらにせよ二人とも行き詰まっているんだろう?一回くらい聴かせてやったらどうだ」
縹さんが余裕に構えているのは何故なのだ。いくら縹さんが考えた主題だとしても、みんなが的確にそれを表現できるかは分からないのだぞ?演出を考えるのに焦ってもいい頃なのではないのか?
「私も聴いてみたいです」
澄麗先輩までそう言うのであれば、もう二人に逃げ場はないだろう。
「俺のはまだ、仮だからな…」
詩苑は往生際悪く予防線を張ってきた。曲が出来てない段階で気持ちを込めるのも難しい話だろう。それはみんな分かっているから大丈夫だと思う。そして談話室で本気を出して歌われても困る。
「詩苑が解釈苦手なのは知ってるけど。山蕗も作曲苦手だったっけ?」
「詩に曲をつけるならともかく、こんなに少ない手がかりで作るのは初めてなんだよね」
「そうなんだ」
今まで定期発表でやってきた曲は既存の編曲か、詩に対する作曲だった。抽象的な絵から歌が乗る曲を書くのは難しいのね。
「はぁ……」
山蕗はでっかい溜め息を吐くと、大人しくピアノに手を乗せた。
そして珍しく緊張感の漂う山蕗から演奏されたのは、四部構成の展開が多い曲だった。
「どう?」
山蕗はふてぶてしくこちらを窺う。
「今の山蕗の曲、泳いでる気がする」
「『泳いでる』?」
私は腕を組んで椅子の背もたれに身体を傾けた。
「うーん、何て言うかな、気を張りすぎてなのか、漁師の手から必死に逃げ出そうとのたうち回っている魚、みたいな…?」
私が傾くのと同じように詩苑も顔を傾ける。
「もっと自由に泳ぐ山蕗は、綺麗なのに」
気負いのない山蕗の、ただ水が流れるように当たり前な、そんな音楽が好きだ。
「あれ?結局泳いじゃったな…」
山蕗の良いところを伝えたかったのに、説明が下手だった。
「自由、ね…」
私が必死に表現に悩んでいると、山蕗は少し考える素振りをしてから言った。
「ちょっとさ、一番始めに書いたやつ弾いてもいい?」
「一番始めのやつ?それは聴きたい」
山蕗の提案に、私は食い気味に答えた。それは是非とも聴かせてもらわねば。
「第一印象で心赴くまま弾いたの」
そう言ってから、先ほどの緊張感などなかったかのように弾き始めた。主旋律や全体の構成はそう変わらないものの、のたうち回っていた前の演奏より、単純で分かりやすい。
「自由だね」
「自由だな」
演奏が終わった瞬間、私は縹さんと声を揃えた。
「ははは!二人揃って同じこと言う」
言われた山蕗はピアノ椅子の背もたれにしがみつきながら、声をあげて笑いだした。
「だってこっちの方がいつもの山蕗だよ」
「そっかそっか。いつもの僕か」
山蕗は目尻に溜めた涙を拭いながら顔を上げた。
「僕さ、ピアノを弾くの、好きじゃないんだよね」
「え?」
徐に発されたその言葉に、その場にいた全員が凍りついた。
「ああ違う違う、そういう意味じゃなくて。なんていうかな、一生懸命練習して難しい曲を弾くのが、好きじゃないのかな」
ピアノ椅子の背もたれに頬杖をつく山蕗は、一人だけへらりと笑っている。
「頑張る萌稀ちゃんたちを見て真似しなきゃって思ったんだけど、僕には向いていなかったみたい」
「山蕗は頑張らない方がいい人なんだ?」
「人には向き不向きがあるからね、向いてないことはしない方がいいってことだよね」
勝手に納得した様子の山蕗は、今までの迷いを払拭するように楽譜を破り始めた。
「適度に力を抜いた方が僕らしいんだよ。うんうん。楽譜起こすのに一日ちょうだい」
そう言って山蕗はさっぱりと談話室を出て行った。
「一人で納得して行っちゃったね」
「まあ山蕗はそういうやつだよな」
普段からヘラヘラしている男ではあるが、あの自由さあってこその山蕗なのかもしれない。縹さんですら言葉をかける隙もなく、残された私たちは呆然と見送るしかなかった。
しかし曲が書けるならそれでいい。ほっとして一息つくと、横から恨みがましい視線を感じる。
「山蕗のあと俺がいるからね、萌稀」
「ああ、忘れてた。もう一人面倒な人いた」
山蕗が曲を書けても歌う人が迷えば発表は迷う。これはまた別に手を打たねば。
「縹さん、もう私も我慢の限界ですし、課題のやり方少し変えませんか?」
「どうしたいんだ?」
「それぞれがきっちり作ってから受け渡す、という流れを変えたいです。みんなで作ってこそ縹組だと思うので、澄麗先輩の絵の解釈から三人でしてもいいですか?」
「なるほど。それくらいなら有りかもしれないな。一応詩苑の担当講師と、こっちの先生に許可を取るから少し待ってくれ」
「ありがとうございます!」
私より先に、食い気味に返事をしたのは詩苑だった。そんなに解釈が苦手か。そうか。
*
全員協力体制の制作にはその後すぐに、条件付きではあるものの許可が下りた。澄麗先輩の絵を見て三人で考えるのは良いが、縹さんが考えた主題を聞くのはダメだそうだ。
しかし絵が見られるのであれば私に怖いものはない。さあどんとこい!
「今回は抽象画ということもあって、少し大きいキャンバスに描いてみたの」
そう言って澄麗先輩は練習場の壁際に、四枚のキャンバスを並べた。
前期発表では絵に不安が残るからと言って、小脇に抱えられる程度の大きさのキャンバスだったが、今回は両手を使っても抱きかかえるのがやっとくらいの大きさだ。舞台上でも十分見栄えがするはず。
「左から順番が決まっているわ。山蕗さんの曲もこれを追っていくの」
四枚の絵は左から、黄、緑、赤、橙を中心とした色使い。弾ける円、右上がりの曲線、渦、外側に向けて薄くなる何重もの同心円が描かれている。
縹さんが四枚描かせたということは、恐らく起承転結の物語にでもなっているのだろう。
何故ならそれ以上の解釈は、恐らく詩苑には無理だからだ。あ、待って、そこまで辿り着いていないかもしれない。
「この間から少しだけ修正したからそれで弾くね。詩苑の歌は仮だから。僕が先に言っておいてあげる」
「おう」
澄麗先輩の絵を見ながら二人の演奏を聴く。山蕗の音楽は軽やか、推進力、不穏、解決といったところだろうか。
詩苑の歌は現状あうあうもがいているだけなので割愛。まずは山蕗とイメージのすり合わせからかな。
「山蕗の解釈はどんな感じ?」
「僕は開花、鳥が飛び立つ、吐き気、陽だまり、かな」
「なるほど。詩苑はどう?」




