78.氷の部屋
*
しとしとと降り注ぐ、雨の音がする。
ぼーっとする視界に寄せ木の床が見えた。
私ったらまた師匠のお店の作業場で寝てしまったのね、と考えたところで違和感に気づいた。
師匠の店の床ってこんなに洒落た模様だったっけ?そもそも私は今、師匠のお店にいるんだっけ?
…違う、また教室で寝たんだわ。つーちゃん先輩に怒られる前に起きないと。
じわじわと覚醒し始めた頭でよく周りを観察すると、他の学生もいなければ作業台もない。そこは知らない部屋だった。
起き上がろうとしたところで、両手が動かせないことに気づく。
「あら?」
上体を捻り肩越しに後ろを確認すると、両手首を何やら怪しい術で拘束されていた。まともに魔術も使えない私に、魔力を封じるものを施しているらしい。
「一体どこのご令嬢かしらね」
自分の状態を把握し、のそのそと床から起き上がる。部屋の天井近くに小さな窓があり、辛うじて今の時間を推測することができた。空は分厚い雲に覆われているものの、灯りのないこの部屋の中が視認できるくらいには明るいので、まだ昼間だ。また寝過ぎてうっかり日付を超えていなければ、意識を失ってから数時間が経過したというところだろう。
わざわざ私が一人でいるところを狙って、仕掛けてきたというのか。何でこういうときに限って椹火はいなかったのだろうか。間の悪い男だ。
教室棟の裏に差し掛かったところで、後ろから何か衝撃を受け、気を失った。
まさか敷地内でそんな過激なことが起こるとは、予想だにしていなかった。完全に油断した。悪口やご指導程度だからといって、ご令嬢を煽りすぎたのだろうか。
否、それでも今まで接触してきたご令嬢を逆上させるほど、言葉を交わした記憶もない。あの様子を見るに力づくで私をどうこうしようという気概はないだろう。急に気を失わせるほど私に恨みを持っているだなんて、犯人はあのご令嬢たちとは別なのだろうか。
身体のどこかが痛むような気がするけど、恐らく外傷はない。不自由になっているのは両手のみ。ただし中途半端に寝たからか、頭は重く瞼は半分しか開かない。
このまま外に出られなかった場合、課題に必要なものが届かず不審に思われるはずだから、永遠に見つからないことはないが…。
不可抗力で授業に出られなかった場合って、無断欠席扱いになるのかな。無断欠席したときってどうなるんだっけ?初日に説明を聞いた気がするけど思い出せない。
まったく、詩苑のせいで私の幸せ学院生活がとんでもない方向に来始めた。入学式の段階で薄々、本当に薄々予見してはいたものの、こうも絵に描いたように嫌がらせを受けることがあるだろうか。
この国で何の身分も持たない私が、ひっそりと生きていく術はないものか。まあだからといって、詩苑の衣装担当を降りるという選択肢はないのだけれど。
もう少し肉食獣たちが大人しくなるように、別の餌があればいいのでは?そうはいってもそちらの方面には興味が無さすぎて、別の餌が何も思い浮かばないのが痛い。
色々と考えなければならないことは多いけれど、それでもとにかく、今は外に出る方法を探そう。こんなしみったれた場所でじっとしていたくはない。
顔を上げるとふと、頬に冷たいものがあたった。昨晩から降り続いている雨が時折、中に吹き込んでくる。窓だと思ったものは、ただの穴だったらしい。一体何のための小屋なのだろうか。
石造りの壁に木製の扉というこの部屋からは、扉を蹴破るしか出る方法はなさそうだ。雨が吹き込む穴は高すぎて背伸びをした程度では届かない。私はよろよろと立ち上がって一つしかない扉に近づいた。
ガンっと大きな音を立てて、二回ほど木製の扉を蹴っ飛ばしてみるものの、何か魔術がかけられているのかびくともしない。たかが女一人を閉じ込めるだけなのに周到なことだ。
風が強くなってきたのか、吹き込む雨の量が増えてきた。素材を取りに行くために外に出て、既に濡れていた白衣が、少しずつ冷たくなっていく。
「この手首の拘束だけでも、どうにかならないかな」
踏み台が無くとも壁を登ることが出来れば、あの穴から出られるかもしれない。
まともに魔術が使えるはずもない私に、この術の壊し方なんて分からないけれど。
いつものように適当に魔術を使ってうっかり拘束が解けること期待して、ぼんやりする頭で手首に集中した。
しかし闇雲に魔力を流して後悔したのは直ぐのことだった。恐らく寝不足も相まって、そもそもの体調が良くないことも影響したのだろう。
窓から吹き込んだ雨は室内を濡らし、それが制御が曖昧で漏れ出た、私の適当な魔術によって凍り始めてしまったのだ。室内の水分が、ぴきぴきと音をたてながら私を中心に固まっていく。
「……寒い」
いくら冬が終わったからとはいえまだ春先。雨に濡れただけならまだしも、氷に囲まれてしまえばいくら丈夫に定評のある私だって風邪を引くだろう。何もかもが上手く制御出来なくて、私は襲い来る頭痛と眠気に必死に抗った。
立っていられず床に座り込むと、また一段と冷えが全身に伝わる。身体中を駆け巡る悪寒からどうにか意識を逸らせないかと思案するが、頭痛のせいで思考が上手く働かない。
――嫌だ。こんなところで死にたくない。
野山を彷徨っていたときだって、こんな命の危険を感じたことはないのに。何が悪影響を及ぼしているのか、必死に考えても原因が分からなければ手の打ちようもない。
そうこうしている間にも室内の温度は下がり続け、濡れたところから徐々に凍結が広がっていく。紛れもない、私の魔力の暴走だ。最早、室内は冬の山小屋のような寒さになっている。
ああ、このまま見つかったら、流石に学院の人たちには気づかれるだろうな。でももう、この魔力を引っ込める方法も分からない。
寝たら死ぬ、それだけは避けなければいけない。朦朧としてきた頭をなんとかするため、唇をきつく噛み締めた。
――そうだ、歌おう。
じっとしていれば体温は下がる一方だ。声を発し続けていれば誰か気づいてくれるかもしれないし、寝ずに済むかもしれない。頭痛は正直しんどいが、何かをしなければ。
なるべく楽な姿勢を取りたくて、横になって蹲ったまま、小さく歌を口ずさむ。
「”おてんとさぁまは、かくれぇんぼ…さあ…ゆうげはぁみぃんなで、ござぁ…しい、てぇ”……ごほっげほっ」
息を吸う度に冷気が喉を刺す。逆に冷たい空気は頭を冷やすようで、朦朧としていた意識は少しマシになったかもしれない。
「”さかぁ、ずきぃ、かわぁしてぇ…まぁいおどぉ、れ……よぞ、らぁの、かしょぉ…くにぃ……てらぁされぇ、て……”げほっ」
こんな状況で思い出すのが、母が歌っていた歌だなんて、私にも殊勝な情緒があったんだな。
「”われ、らぁ、とこ…しえにぃ……おぉごん、のぉ…ひざぁ…もとぉ……”」
ああ、眠い。
*
「女同士の嫌がらせってどう対応するのが正解なの」
「男が下手に手出すと拗れるけどね」
そう思ったから相談しようと思ったのに、呆気なく山蕗は一蹴した。
萌稀たちが来るようになってからも、第三談話室に集まるのは縹と山蕗、そして俺の三人であることが多い。最近ではそういうときに、萌稀が話題に上ることが増えていた。
話題が尽きないのも、萌稀の特技と云えるかもしれない。
「萌稀なら嫌がらせすら後のネタにしそうだけどな」
「ふふ、ありそう」
縹、それは言い過ぎじゃ、と言うよりも早く山蕗は笑い始めた。俺自身もあながち否定出来ずに言葉を引っ込めた。
「先に萌稀を誘っておいて正解だったな」
縹は茶器に口をつけながらぼそっと呟いた。




