6.芸術クラス
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私が舞台芸術に傾倒し始めたのは、家族で観に行った歌劇がきっかけだった。確か四つの頃だったはずだ。
その日は父と喧嘩して不機嫌だったのに、自宅から馬車に乗り辿り着いた劇場に、私の意識は全て持っていかれた。入口には女神の彫刻の大きな石柱が配置され、その大きさに圧倒されて口を開けたまま呆然と見上げた。それから劇場の何を観るのも楽しくて、キョロキョロしながら歩けば不機嫌なんて一瞬で忘れてしまった。
『前を見ないと危ないわよ』
優しい母の声と手に引かれて建物の中に入ってから、上手の個室に通されると、手触りのいいふかふかな椅子に座った。お気に入りのピカピカな靴がスカートの裾から見えて、もうご機嫌だった。
幕が上がるとわくわくしながら目の前で繰り広げられる歌劇に見入った。
物語の内容はほとんど覚えていないけど、鼓膜に届く振動も、網膜に焼き付く煌めきも、はっきりと記憶に留まった。今まで味わったことの無い、興奮と幸福感を覚えた。
その後、衣装を仕立てたいと思うようになったのは、いつの頃からだっただろうか。
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「はぁ……」
衣装制作を依頼された翌日、いつもの師匠の店の作業場にて。刺繍台の制作物に針を刺しながら見つめる空は青い。
「おい、いい加減手ぇ動かせ」
隣で師匠が何か言っているがそんなことはどうでもいい。
「私に……舞台衣装の……おし…ごと…………」
そう、確かに詩苑さんはそう言った。この、私に、舞台衣装を仕立てるお仕事を任せたいと……!
一体師匠があの方たちに何を吹き込んで、一体私の何を見て気に入ってくれたのか、私にはさっぱり皆目見当もつかないけれど、あの言葉は現実だったと信じたい。
「……現実、なのかしら…………」
あの見事な歌も併せていっそ夢だったのではと思うほど、私には願ってやまなかった状況である。
しかし私は何をどう頑張っても、先日やっとワンピースを一着仕立てられるようになったばかり。正確には型紙は師匠に用意してもらったので、仕立てられるようになったとも言い難いくらいのもの。
あの後どうやって帰ってきたかもあんまりよく覚えていないし、やっぱり夢だったのでは……?
「夢……?」
「いい加減夢から覚めやがれ!」
「いったあああああい!!」
惚けていた私の脳天に、天使を地に叩き落とすかのような衝撃が走った。
「乙女の大事な頭になんてことするんですか!今ので考えてた刺繍図案が四十は出ていきましたよ!!」
「ほう?頭に浮かんだ図案を描き起こさない方が悪いな」
「ぐ、ぐうの音も出ない……」
「いいから手を動かせ手を。それ今日中に仕上がんなかったらゴミ捨て場にお前を捨てる」
「殺生な!!ちゃんとやりますー!!」
ちょおおおおおおおっと夢の世界に飛び立つくらい許してくれてもいいじゃない。しかし捨てられるのは困るので刺繍は進めますごめんなさい。
「というかそもそもなんですけど、『定期発表会』ってなんですか?」
「ああそうだよな、聞いてなかったよな。意識飛んでたもんな」
あ、やばい。師匠の顔面の真ん中に皺が寄っている。どうやら無駄話が過ぎたらしい。
「夕飯までにそれ終わらせたら教えてやる」
悪魔が地獄から這い出てきたような空気を纏い、地の底を這いずり回るかのようなドスの効いた低い声で告げられた。
締切短くなったあああああああああああ!さっき今日中って言ったのにいいいいい!
「芸術クラスっつーのは、音楽、美術、演劇関連の専門学科があって、俺がいたのが『被服科』だな。意匠設計家とか針子とかを目指すやつらがいる」
「服飾について学べる学科があるんですね」
その後、急いで刺繍を終わらせ、師匠と二人、夕食の席についた。なんだかんだ言いつつ終わらせたご褒美に、説明をしてくれる気になったらしい。
「ほんであいつらは音楽系の学科だな。音楽系はしょっちゅう編成が変わるから定かじゃねぇが、詩苑は歌唱科だか声楽科だかだったはず……縹は何科だったか」
「全然覚えていないじゃないですか」
「興味ねえんだよ。…そんで芸術クラスは半期に一回の『定期発表会』が試験代わりだったりするわけだな」
「どうりでコンクールでもないのに審査員みたいな人がいたわけですね」
劇場の一階席の中央付近には、明らかに専門家然とした、書類を見ながら何かを書き込んでいる偉そうな人たちが陣取っていた。恐らくそれぞれの学科の審査員だったのだろう。
「大体の場合が卒業試験として使う場だ。卒業をかけた上級ばかりが出てるものなんだが、あいつらは何故か好き好んで毎回出てるんだよな」
今までの学院生活の総まとめを披露する場なのだとしたら、質の高い発表が多かったのも頷ける。そんな中で強烈に印象を残したのはやはり詩苑さんの歌であった。
「あれだけの実力があればすぐにでも卒業できそうですね」
お金を取っても差し支えない技術だったと思い返す。
「しばらくそのつもりは無さそうだがな。だから半年に一回、発表のために舞台衣装を仕立ててほしいんだと」
半年に一度の間隔で試験を兼ねた発表会のために、詩苑さんたちが作る舞台作品のための衣装を仕立てると。とりあえず依頼内容は理解した。でも…。
「昨日の話を聞く限りでは、その依頼は師匠のところに来てたんですよね……?」
「面倒くせえから断った」
「なんって勿体無いことを……!!」
驚きのあまり匙を手から落とした私に対しこの男、たんたんと夕飯のスープを口に運びながら何でもないことのようにしれっと宣った。
「だからお前にやるっつってんだろ」
「私には荷が重すぎませんか!?」
好きなことに一直線な私と言えど、自分の実力は流石に弁えている。
「どっちだよ面倒くせえな」
「そもそも被服科があるなら、その人たちに頼めばいいのでは?」
「今のやつらは貴族の盛装の意匠設計するやつばっかりなんだと。舞台衣装を作らせるには物足りないらしい」
「そういうものですか」
師匠だって被服科に在籍していたのだし、他にも実力ある人が近くにいるのではと思ったのだが、意匠設計家といえば貴族のドレスを手掛けた方がお金にもなるのだろう。「舞台上で映える演出としての舞台衣装」と「流行の最先端且つその人を美しく着飾らせる高級な盛装」は求められるものが違いすぎて、舞台衣装を専門にするような人はいないらしい。
「被服科自体、そんなに人数いねえしな」
基本的に貴族が多い学院において、芸術クラスは他のクラスに比べると学生数が少ないらしい。学生数は芸術クラスの中でも音楽系の学科に偏っている。とはいえ格式高い学校であることには変わりない。
「ますます何でそんなところにいたんですか師匠」
「俺のこたァどうでもいいんだよ。やるのかやらないのかどっちなんだ」
師匠の淡々とした問いかけに、拾い上げた匙をぎゅっと握りしめた。
「…………やり、たいです」
夢を叶えるために行動を起こしてはいたものの、未だに見ているだけの世界に急にぽんと放り込まれたところで、正直本当に出来るのか全く分からないけれど……自信は全くないけれど……。
「ならやってみりゃいいんじゃねえの?」
「師匠……」
「……これでやっと付き纏いから開放される」
「本音は最後までしまっといてください!!」