72.一年前期発表「泉、川、海、そして空」
――知っているだろうか、水の行方。
舞台に設置された泉の絵は、四枚のキャンバスを組み合わせている。少しずつずらしながら並べられた絵は、ピアノの伴奏が鳴り始めると、水面を揺らした。
舞台の下手には、ピアノと山蕗、そして語り手として椅子に腰かけている詩苑。照明を浴びるのは、泉の絵と語り手のみ。
澄麗さんは下手袖から絵を動かしている。
誰も踏み入れたことのない木々の合間に
ひとつの泉
空を写し 雲を写し 葉を浮かべる
水面に反射する空と雲。雲は流れて、水面に浮かんだ葉が風によって流れる。左上から右下へ、キャンバスを渡り泉をぐるりと一周したら水の流れは川となる。
照明は上手側にずれ、新たに六枚のキャンバスの川の絵が浮かび上がる。流れる川は奥から手前へと、木々をかき分け生命を運ぶ。
詩苑は程好く力を抜いて音を奏でる。時折首を揺らしながら、まるで風と戯れるかのように。
自然の雄大さ、川のせせらぎ、飛沫の繊細さを表現しながら、ただそこに揺蕩う空気のような必然さで、声が流れていく。
葉は進むべき道を行く
風に身を任せ 出会った友に誘われて
泉は流れる 細く輝く谷の合間に
少しだけ速度を上げたピアノと、木々の荒々しさと飛沫の繊細さの対比が臨場感を演出して、観客は皆、秘境を旅する小さきものになる。
そして川を下りきると、連なっていたキャンバスが扉のように開き、後ろからまた新たなキャンバスが現れる。キャンバス十枚分の大海原は、美しい青に染まり、魚が泳ぎ、水面が太陽を反射して宝石のように輝く。
魚が行き交う 風がぶつかる
飛沫は白く 混ざりあう潮の合間に
流れ出た先の大海原
海に出れば音の幅が広がり、ピアノの全てを包み込む低音と、反射する輝きの高音が鼓膜を揺らす。歌声はどこまでも気楽で飛んでいけそうな気さえする。
やがて大きくうねる 生命の本流
いつか還る 海よりも広い空
波が大きく揺れたかと思うと、照明は上に移動し、白い雲が浮かぶ空と、空を自由に渡る鳥が目に入る。解放される和音は空気に溶けてしまった。
山蕗はペダルから足を離し立ち上がると、お辞儀もそこそこに、次の居場所を探すように、歌い手とともに舞台から姿を消した。
余りにもあっさりと演奏が終了したものだから、観客は明転してから恐る恐る拍手を送ってくれた。それに応えるように澄麗さんを引き連れて、詩苑と山蕗は再び舞台に上がる。
「澄麗さん、やり切りましたね」
「ああ、そうだな」
舞台袖で縹さんと言葉を交わせば、いつになく嬉しそうな声音。縹さんがこの反応なら、きっとお母様にも気に入って頂けるだろう。
常設展示を行っている画廊の、澄麗さんの過去作品たちも輝きを増しているに違いない。
すっきりとしてキラキラ輝く澄麗さんの笑顔が見られたことが、私も何より嬉しい。表現することを諦めないでくれてありがとう、そんな気持ちを込めて私も拍手を贈る。
しかし感慨に浸る時間もなく、やはり撤収作業が始まるのであった。
「あ、縹さん、外の様子どうですか?」
舞台の撤収作業終了後、出待ちの危険性を想定して暫く楽屋に留まることにした。
詩苑の衣装は前回に比べると簡単なものだったので着替えも済んでいるが、澄麗さんと絵を運び出しつつ外の様子を見てくると言った縹さんを待っていた。
「ダメだな」
端的にそれだけ言った縹さんの表情は、疲労感が滲み出ている。
「今回も鍵締めまでは出られないだろう」
「ですよね」
仕方ないので今日受けた刺激を記憶に留めるために、クロッキー帳にペンを走らせる。本当なら期末の課題を進めたいが、作りかけの作品を持ち歩くわけにもいかなかった。
「なんか縹、疲れてるね」
山蕗の声につられて縹さんをもう一度見ると、前髪をぐしゃぐしゃとかき上げて壁に凭れていた。
「俺まで囲まれた」
「むしろ今まで放っておかれていたのが、おかしいんでしょ」
その山蕗の発言には私も同意だ。縹さんくらいの容姿と身分なら、ご令嬢に囲まれていても不思議ではない。
「縹さんは今までどうやって逃げていたんですか?」
「詩苑の陰に隠れて気配を消していただけだが」
「俺を盾にしてたの!?」
確かに詩苑の隣にいるときよりは、一人でいるときの縹さんの方が雰囲気がある気がする。詩苑は他人の輝きまで吸っているのだろうか。
「いい隠れ蓑ですね」
「隠れ蓑としての性能が高すぎるね」
「隠れ蓑の性能って何」
感心して悪ノリする私と山蕗に、詩苑は睨みをきかせた。
「母との相談も後回しになったし、いい迷惑だ」
「お母様とは会えたんですか?」
「一応な。ただゆっくり話す暇もなかったから、澄麗の紹介だけ」
縹さんは片付けで外に出たついでに、お母様と話をつけることになっていた。澄麗さんを紹介できたのなら及第点だろう。
「目標は達成ですね」
「まだこれからだ」
明日更新、その後毎週水曜日更新に戻ります。




