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君を君たらしめる手作りの魔法  作者: 天海 七音
     四幕 脇役の心得
74/243

69.発芽

 *


 今日もまた、絵画科の教室は画材の匂いに満たされている。大きめのキャンバスを前に下絵用の木炭を握る。

「新作か?」

 心地の良い低音に振り向くと、艶のある黒い髪をかき上げながら声の主は中に入ってきた。

「萌稀さんや縹さんに、たくさん勇気と自信を貰ったから。そろそろ学生の本分を全うしないと、卒業出来なくなってしまいますので」

 笑顔で返すと、縹さんは歩きながら「そうか」と小さく呟いた。

 ここ二年ほど、感情による絵の変化のせいで成績は思わしくなかった。末端とはいえ貴族であるからには、最悪お金で卒業出来ないこともないけれど、我が儘を言って入学させてもらった手前、そんな恥ずかしい真似はしたくなかった。

「四年生、だもんな」

 一般的な貴族令嬢は大方四年で卒業を選ぶ。曲がりなりにも婚約者がいる私も、今年度で卒業して結婚に至るのが自然な流れだろう。

 そう、それが当たり前であり、私に定められた将来なのだ。

 だから、精一杯の笑顔で縹さんに言った。もうこれ以上迷惑をかけないよう、私は大丈夫だと伝えたかった。

「卒業するのか…?」

「……え?」

 きっと縹さんは、優しい眼差しで応援してくれるのだと思っていた。なのに、その淡褐色の瞳は鋭くこちらを窺っている。質問の意図がまるで汲めなくて、私は言葉を詰まらせた。

 しっかりと視線を合わせたまま、縹さんは一歩、また一歩と近づいて、椅子に座ったままの私の前に立つ。

「帰ったら、絵は描けないだろう?」

 それは必死に考えないようにしていた事実だった。萌稀さんの提案のお陰で乱されることがなくなりそうな絵も、結婚してあの男に嫁いでしまえば再び描くことは許されないだろう。

 だからせめて、自由に描いて咎められないうちは、楽しく描こうと決意したのだ。

 ――だというのに、この人はなんてことを訊くのだろうか。

「油彩でなくとも、絵は描けますから」

 居たたまれなさに目を逸らして答えた。それが今出来る、精一杯の悪足掻きだった。

 絵が描きたければ油彩でなくたっていい。画材なんていくらでもある。ただ、あの発色と質感が好きなだけ。

 霞みそうな視界を瞬きで堪え、縹さんから目を逸らしたまま、前掛けの裾を握りこんだ。

「俺に、横やりを入れる機会をくれないか?」

 やっぱり意図が解らなくて、私は眉尻を下げたまま再び縹さんを見た。

「横やり…ですか?」

「今回の定期発表も、芸術全般に詳しい母が観に来る。澄麗の絵を気に入れば、伯爵夫人として支援をしてくれるかもしれない」

 唐突な話に理解が追いつかなくて、縹さんの言葉を一生懸命に反芻する。

「母は何人かの芸術家の後援をしていて、美術に造詣が深い。その母が価値があると言えば、子爵家程度の人間がそう簡単にやめさせることも出来なくなるだろう」

 こちらを見つめる淡褐色は、いつも通り淡々としている。希望や可能性というよりは、いつも通りの事実を並べるかのように。

 そして一瞬眉根を寄せてから、それまでより慎重に言葉を紡いだ。

「その間に俺は身を立てる算段をつけるから…まだ確約出来る状態でないのに言うのも、情けない話だが。あと二年…待っていてくれないか」

 息を呑んだ。呆気に取られている私の前に縹さんは片膝をつき、前掛けを固く握りしめたままの私の両手を優しく解いて包み込んでくる。

「初めて絵を見たときから、君にどうしようもなく惹かれているんだ」

 考えるよりも先に、堪えていたものが溢れた。

「今の婚約者よりは不自由な思いをさせないつもりだが、迷惑だろうか」

 掌で頬を包まれ親指で溢れ出る雫を拭われると、胸の真ん中からじわりと熱いものが込み上げた。滲む縹さんの顔は少し困っていて、早く何かを答えたいのに上手く声にならない。

 ただ頬を熱いものが伝っていくばかりだ。

「…う、あの…」

「悪い、そんなに泣かせるつもりではなかったんだが」

 ついに手巾を取り出され丁寧に拭われた。こんな風に他人にお世話されたのも何年振りかと思うと、恥ずかしさから余計に混乱を極めた。

 自分が望む未来など、願ってはいけないものだと思っていた。なのに。

「どう…して…」

「ん?」

 震える喉から何とかして言葉を絞りだそうとする私を、焦らず待っていてくれる。

「どうして…私のため、に…」

「絵を描く君が好きだ。絵を描く君ごと守りたい。それだけだ」

 余りに甘いその響きに、脳がくらりと揺れた。

 これは夢だろうか。何から何まで助けてもらっているのに、更にその上を望むことが許されるのだろうか。

「そうだな。君がもし、俺に対して今の婚約者よりも嫌悪感を抱いていないなら、前向きに検討してほしい。ただ、守るといっても君に我慢を強いることは変わらない。俺はディオニス伯爵家を継げないから君を養えるよう準備をしなくてはならないし、そうならないよう努力はするが、あの婚約者から何かしら邪魔が入ることもあるだろう」

 自嘲するように息を吐いてから、縹さんは再び私に向き合った。

「施しを受けるだけなのが申し訳ないと思うのであれば、俺と一緒に戦ってくれ」

 そして挑戦的な光をその瞳に宿して強気に笑んだ。

 いつだって隣に縹さんがいる空間は、居心地が良かった。絵を描く私を優しく見守りながら、他愛のない話をする。静かに淡々と話すその声音が、私の心を穏やかにしてくれた。

 何もせずに諦めるより、自分の望みのためにもう少しだけ足掻いてみたい。

 再び絵が描けるようになったことは、私に僅かばかりの自信と勇気をもたらした。

「…頼っても、いいですか」

 勇気をふり絞って、その手を取った。

「ああ。ありがとう」

 その声にほっとして顔を緩めると、暖かい両腕に包まれた。

「まずは定期発表を成功させよう」

 その言葉に返事をする代わりに、私はきつく抱き返した。


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