65.青と紫の種子
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「『絵の練習』とやらの進捗はどうだ?」
小さなキャンバスを前にした澄麗の傍らに立って、その絵を覗き込んだ。
「この大きさのキャンバスに、無心で何かを描くのには慣れてきました。なんだか修行をしているみたいです」
こちらを向いて微笑む澄麗につられて、自然と頬が緩んだ。
「絵を描くための努力って初めてなのですけど、真剣に絵についてだけ考えるのって、絵に対して誠実になれる気がして何だか嬉しいんです。そのことに気づかせてくれただけでも、萌稀さんには感謝しきれないです」
「そうか」
「縹さんも…いつも気にかけて頂いて、ありがとうございます」
真っ直ぐにこちらを見つめる視線に、少しだけ居心地の悪さを感じてしまう。
「俺は結局何も力になれていない。お礼を言われるようなことなんて…」
「いいえ、萌稀さんに会わせてくれたのだって、私のためでしょう?」
それには答えずに、笑顔のまま片眉を上げた。本当は俺一人で解決させたかったなんて、今更言えない。
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二年生の創立記念祭、詩苑と出会う前の俺は特に意味もなく、学科の友人に誘われて絵画科や彫刻科の展示を観に行った。舞台演出を考えるにあたって参考になりそうなネタを拾えればいい、その程度の気持ちだった。
それまで美術品に大した興味はなかったものの、ここは王立魔法学術院。ただの美術品には収まらない、独特の面白さがあったことをよく覚えている。
そんな中でも優しい色合いの絵の、空に浮かぶ雲が徐々に変化していたのが特に印象に残った。こんな絵もあるのだとひどく感心した。
この年の後期に詩苑と出会った。才能に惚れこんだ俺は直ぐに定期発表に誘い、変人が多いと噂の被服科の中でも、群を抜いて変人だった達華に衣装を依頼し舞台を作った。初めて自分で手掛けた舞台作品となった。
翌年、三年生になった俺は詩苑を芸術クラスに引っ張ってきた責任から、何か新しい発想の舞台を作ってやろうと誓い、面白い人材を探すべく芸術クラスの各学科を覗いて回っていた。
彫刻科の友人と話し込んだ帰り道、絵画科の教室の前を通ると、暮れかかった日に女学生の横顔が照らされていた。癖の強い長い黒髪を後ろで一つに結い、前掛けをしているのは絵具で汚さないためだろうか。
彼女の目線の先には描きかけの油彩画。
大木と空の絵はたまに葉が揺れ、直観的に雲が流れていた絵と同じ作者だと思った。
キャンバスいっぱいに枝が広がった木は、力強い筆跡とは裏腹に浮世離れしたように曖昧な色だった。
そして真ん中に描かれた木の実だけが奇妙に鮮やかだった。真っ赤な卵型の木の実を見つめたまま、筆は赤と黒の絵の具をかき混ぜている。何かに取り憑かれたように筆を動かす様子に、このあと何を描き足すのか気になって目が離せなかった。
しかしその絵は、その赤黒い絵の具を乗せられることなく、白く塗りつぶされてしまった。
画家が自分の絵を気に入らず作品を壊したり燃やしたりするのは、ここにいればよく聞く話だ。芸術家とは自分が満足のいく作品を生み出せてこそ、他人から評価されることにも価値を見出す。
勝手なこちらの言い分で「何で消してしまったんですか、もったいない」とは口が裂けても言えない。そうして追い込まれた友人を知っている。
自分の作品に悩むのは良くあること。そう折り合いをつけて、その日はそこを立ち去った。
――だというのに、彼女のことは忘れられなかった。忘れさせてくれなかった。
美術系の学科に用があって教室の前を通りがかる度に、同じ様子でキャンバスに向かっているからだ。
時折苦しそうに筆を止め、それでも真摯に作品に向き合っている。何かと戦っているような、何かを我慢しているような。そんな彼女の力になりたいと思ってしまった。
絵については全然詳しくなかったが、詩苑をこちらに引きずり出した経験からか、何かしら力になれることがあるんじゃないかと傲慢にも思った。
しかしながら、普段であれば先輩後輩関係なく気になることがあれば話を聞きに行ってしまう行動力を持っていたはずの俺が、このときばかりは話しかけるきっかけが掴めず、しばらくの間は行動に起こせないでいた。
この年の創立記念祭は先輩たちの舞台の手伝いをしていたこともあって、絵画科の展示を観に行くことは叶わなかった。
だが後期に願ってもない転機が訪れた。
舞台科の課題発表のため、大道具の背景に協力してくれる人がいるからと、友人に頼まれて絵画科まで呼びにいくことになった。
間違いなく確実に、彼女との接点が出来ればいいと思っていた。
絵画科の教室を覗こうとしたとき、まさにそこから出てきたのが黒髪の彼女だったのだ。
「失礼、絵画科の人を探しているのですが、協力をお願いしても?」
「ええ。どなたをお探しでしょうか?」
その日はそれだけで終わったが、後日また遅い時間帯にひとりで教室にいるのを見かけ、お礼という名目で話しかけた。
「こんばんは」
扉を叩いてから声をかけると、彼女は驚いたように振り向いた。
「この間はありがとう。お陰で助かった」
お礼を伝えると俺が誰か分かったようで、ああと立ち上がった。
「お力になれたようで良かったです」
覚えていてくれたことに、ホッと胸を撫で下ろした。
「舞台科、なんですか?」
先日呼び出してもらった、絵画科の学生から聞いたのだろうか。社交辞令だとしても、自分に少しでも興味を持ってもらえたことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「ああ。舞台科の三年生で、演出を専攻している」
「それで彼に依頼を?」
「大道具の担当からの紹介で。次の課題発表の背景に、助言をもらったんだ」
「そうだったんですね。…その課題って舞台科でなくとも観られるのでしょうか?」
そのとき俺は、自分が舞い上がっていることに気づいた。彼女が興味を持っているのは、俺でなく舞台の方かもしれない。そう思ったら胸がざわついたからだ。
しかしそんなことはもう気にしていられなかった。繋がりさえあれば、後はどうとでもなる。
「学院内の劇場で行うから、解放はしている。授業がなければ誰でも観られる。予定がなければ是非」
「そうなのですか。楽しみです」
それから絵画科の教室付近を通る度に覗いては、課題の進捗を話すようになった。しかし、いつ訪れてもキャンバスは白いまま。時折、思いつめたような表情をしては何事もなかったかのように笑顔を見せる。
何が彼女をそうさせるのか、この件についてどう踏み込むべきか、また頭を悩ませた。
四年生の創立記念祭は、ひとりで展示を観に行った。
期待通り、画廊内に彼女はいた。だが様子がおかしい。連れの男に作品の説明をしているようだが、父親にしては若すぎる。
落ち着いた印象の彼女とは対照的な、派手な装飾を身につけたその男は、目の覚めるような鮮やかな赤毛だった。
客を装って様子を窺い、男が帰ったあと受付に座った彼女に声をかけた。
「あの男が、君が絵を描けない原因?」
「え?」
彼女は弾かれたように顔を上げた。青ざめながら俺を見た瞳は淡い銀灰。
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