62.進んでもいい
ひたと縹さんを見た。そんな縹さんは私の言葉を受け、一瞬目を眇めたあと、視線を宙に泳がせた。
「……そうだな」
「え?」
間抜けな声を出したのは詩苑だった。虚をつかれたような顔をして、私と縹さんを交互に見ている。
まさかとは思うがこやつ、一緒にいる縹さんの気持ちに、全く気づいていなかったとでも言うのか。
合理的に生きていそうな縹さんが諦めなかったことから考えても分かりそうなものなのに、詩苑は縹さんの何を見ているのやら。
山蕗は涼しい顔をしているから、概ね把握しているとみていい。
「弟の椹火が言うにはあの婚約者、子爵家の長男とはいえ、事業に対する勘が良くないみたいで。澄麗さんを良いように使うことしか、考えていないらしいですよ」
くすねてきた料理を口に運びつつ私は続けた。
「遠戚だかなんだか知りませんけど、そんなに近くもないなら、義理立てする必要も無いんじゃないですかね。というより、縹さんのお母様あたりが澄麗さんの絵の後援にでもなってくれたらいいのでは?」
いくら澄麗さんがやる気になったからとはいえ、あの赤毛お腹出っ張り男が婚約者である限り、澄麗さんの将来が保障されることはないだろう。
四年生である澄麗さんは、今年度で卒業してしまったら直ぐに結婚でもして相手方の家に入ると思われる。そうなってしまえばきっと、もう二度と絵なんて描かせてもらえないのだ。
つまるところ、澄麗さんが今後も絵を描くためには、何とかして婚約を無かったことにする、婚約者が文句を言えないくらいに澄麗さんの絵に価値を生み出す、などといった対策が必要ということだ。
縹さんの実家が芸術を好んでいることは、琳先輩たちの噂から調査済みである。
伯爵という地位を持っている家に生まれた縹さんであれば、いくらでもやりようはあるはずなのだ。例え縹さんが次男で、いずれは家を出なければいけない身だとしても。
「出来れば頼りたくなかったんだけどな」
遠くを見つめながら縹さんが呟く。
「これは知り合いが言っていたことですけど、『使えるときに使え、実家の金と権力』らしいですよ。今のうちに使っておかないと、そのうち使えなくなるんですから。それに、グズグズしていると機会を逃します」
いずれは家を出て身を立てなければならないのであれば、家の人を使っても憚られないうちに使ってしまえとけしかけた。
「……覚悟が足りないのは、俺の方だったか」
自嘲するように笑ってから、縹さんは片手で顔を覆った。
一時的にでも澄麗さんの画家としての地位を守ることが出来れば、その後は縹さんがなんとかするだろう。この人も馬鹿ではない。それなりに、詩苑たちも含めて将来を考えているはずだ。そうであってくれ。
一歩踏み出す勇気と、踏み出し方を知ることが出来れば、あとは頑張るだけなのだ。
「分かった。これは俺が責任を持って預る」
前髪をかき上げて、縹さんは決意してくれた。
詩苑の顔には疑問しか浮かんでいないが、まあいいだろう。詳細は後で、男同士で語り合ってくれたまえ。
「しかし絵を描く練習とはな。萌稀の考え方には学ぶことが多い」
縹さんと澄麗さんの関係がいつからかは知らないが、短くない時間、縹さんも澄麗さんの力になるために頭を悩ませていたことは想像がつく。
「それに気づかないとは、縹さんも大概『天才』の部類ですね」
「萌稀に言われて一番嬉しくない褒め言葉だな」
「ええ、褒めてませんから」
肩を竦める縹さんに、私はしたり顔で言ってやった。固定観念に囚われてしまうことは往々にしてあるが、打開策は意外なところに落ちているものだ。
私とて努力が全て報われるとは思わない。あるのは「正しい努力」と「正しくない努力」なのである。私たちはその努力が正しかったと言えるように、精一杯、必死に努力の方法を考え続けるしかないのだと思う。
――だからこのあとは、努力が正しかったと言えるよう、縹さんが頑張ってくださいね。
*
「それで、何をやるかなんだが」
縹さんは大量の本を前に腕を組む。創立記念祭で縹組に澄麗さんが加わることが決まったので、第三談話室でいよいよ前期発表の打ち合わせだ。
私も打合せに全くの始めから参加するのは初めてなので、とても嬉しい。
題材を決めるために縹さんは学院の図書館に寄ってきたそうで、卓子の上にはずらりと借りてきた本が並んでいる。
私の目の前、縹さんの隣に澄麗さんが座り、お誕生日席に山蕗が座った。縹組も五人になると「組」っぽさが増す。
「澄麗さんの絵を活かしたいですもんね。どんなことが出来るかな」
縹さんが用意した本は小説や戯曲、詩集から、随筆、戦記、絵本など領域が多岐にわたる。
その中の一つ、詩集を手に取り開いてみる。
「『紫戯』いいですよね。情景の表現が繊細で、澄麗さんの絵に雰囲気がぴったり」
紫戯はここロトフォル大陸の西側、クレプスアウランという国の詩人で、風景や天気に絡めつつ心情を表現するのが得意なのが特徴である。澄麗さんの優しい絵に良く似合う。
「絵を活かして絵本を題材にしても面白いよね」
山蕗は色鮮やかな表紙の絵本を手に取り、パラパラと頁を捲る。
「因みに澄麗さん、描いた絵を意図的に動かすことは出来るんですか?」
澄麗さんの絵は、本人が意図しないところで動いてしまうのが問題だった。雲や動植物、水なんかも動くし、人を描けば瞬きをする。踊りだしたこともあるらしい。
「やったことはないけど、出来そうな気がするわね」
澄麗さんは頬に手を当てて考える素振りをしてから、サラサラと絵を描き出した。ものの数分で蕾をつけた植物が完成すると、澄麗さんは指先で持っていたペンをちょいちょいとつついた。
すると徐々に蕾が膨らみ、やがて綻んだ。見事な菫の花だ。
「わあすごい!」
「案外、やってみたら出来るものね」
やった本人も驚いたのか、首を傾げて目を丸くしている。
「これはどう使うか悩みますね!」
一連を眺めていた縹さんは腕を組んだまま、じっと紙の上の菫を見つめている。段々眉間に皺が寄ってきた。
「詩苑の歌と動く絵……詩苑の歌…絵…歌で絵を表現。背景、小道具…」
何やらブツブツ言っている。私は考えるとき閉じ籠るが、縹さんは考えていることを口に出す人らしい。
「いつもはどんな流れで題材を決めてるの?」
縹さんが考え込んでしまったので、隣に座る詩苑に訊いてみた。
「その時々によって色々だけど…俺が取り組んでいる課題から決めたのが去年、その前のオルガンのやつはたまたま倉庫から発見されたものを、使ってみようって話になって…」
「手回しオルガン用の楽譜に、穴開けるの大変だったよね」
「山蕗がどうしても編曲するって言ったからだろう」
「今となってはいい思い出」
絵本を捲る手を止めないまま山蕗がカラカラと笑うのに対して、詩苑は疲れた表情をしている。手回しオルガン用の楽譜に穴を開ける三人を思い浮かべたら、なんだか可笑しかった。
「詩苑は今、授業で何歌ってるの?」
何か思いつくことは無いかと、別方向から攻めてみる。二冊目の紫戯を手にして、本人が描いた挿絵で手を止めた。
紫戯は絵も上手いのよねえ。
「俺?今は少人数で合唱してる。主旋律じゃない部分で苦戦してるところ」
「独唱以外も扱うんだね」
「まあね」
詩苑は少しだけ苦い声で返事をした。いつも周りにお膳立てされている詩苑が主旋律以外を歌うなど、なかなか想像しづらい。和声を構成する一部になる詩苑。うん、似合わない。似合わないのだが。
「もういっそ詩苑が背景になっちゃえばいいんじゃない?」




