61.よく滑る口
振り返ると、そこには燃えるような赤毛をうなじで一つにまとめた、一人の男性が立っている。お世辞にも気品があるとは言えない、少しよれた服装がなんとも不快に映った。
澄麗さんは表情を強張らせて目を瞑り、音もなく深呼吸するとゆっくりと男を振り返った。
「ご機嫌よう」
とてもご機嫌とは思えない声音で、やや下を見つめている。
訊かなくても分かる。この赤毛の男こそが諸悪の根源、澄麗さんの婚約者だ。
「ふん、受付でなくこんなところにいると思ったら、君はまた性懲りもなく絵を描いたのか。そろそろ諦めたらどうなんだ」
「諦めるなんて…有り得ません」
「私の言うことが聞けないのか?」
「…」
赤毛の婚約者は不遜な態度で澄麗さんに近寄った。
顔を見て早々に絵を諦めろだなんて、こいつは一体何を言っている。高圧的な物言いに、私は一瞬にして表情をなくした。
「どうして澄麗さんが、絵を描くのをやめなければならないのですか?」
こんなの黙っていられるはずがない。澄麗さんの横に立ち、真っ直ぐに婚約者を見据えた。
「誰だ?君は」
「澄麗さんの絵が好きな後輩です」
作り笑顔で上目遣いに答えると、婚約者は澄麗さんの方を向いたまま横目で私を流し見て、不満そうな顔で片眉を上げた。
「何故君に、そんなことを言わねばならない」
「私は今後も、澄麗さんの絵を見たいからです」
「これの絵に何の価値があるというんだ。そんなことをしていても何にもならない。結婚したら家に入って家業の手伝いが忙しくなるんだ。描いている暇なんてない」
出会ってたったの数分で、この赤毛クソ野郎の為人を十分に理解した。こんな男に言われたままで黙っているなんて、私ではない。
「それは澄麗さんが決めることですよね?」
「これは私たちの問題だ。部外者は黙っていてくれないか」
「…っ」
部外者と言われて、師匠譲りの暴言を吐きかけたのを喉元で何とか堪え、言葉を探そうと息を吸うと、澄麗さんがかぶりを振る。
「萌稀さん…いいのよ…」
何がいいのか、いいわけあるものか。澄麗さんの制止を聞き流して、私は一歩前に出た。
「澄麗さんの絵が、価値のあるものだって分かればいいんですね?」
下腹に力を入れてよく通るように意識し、精一杯低い声を出して相手を鋭く見つめる。赤毛クソ野郎の喉が上下したのを確認して、私は敢えて目を細めて微笑んだ。
野郎は尚も強気に出た私に怯んだのか、眉を顰めて唇を歪める。
「………で、出来るものならやってみればいい。どうせ来年には卒業をするんだ。私は帰る。年末は領地で待っているぞ」
そう吐き捨てて、野郎はくるりと踵を返した。そして大股でバタバタと歩き出す。
あっさりとした退散に視線だけで野郎を追うと、入口に縹さんが腕を組んで立っていることに気づいた。
「画廊は絵を見に来る場所だよな」
真っ直ぐにこちらを見て言ったであろうそれは、野郎の耳にも確かに届いたらしく、一瞬足を止めたと思ったら盛大な舌打ちの音が聞こえた。
野郎が出ていってから、私は堪えきれずに笑ってしまった。
「ふふ…ははは!口程にもないですね、あの人!」
「も、萌稀さん…?」
そんな私を見て澄麗さんは困惑を露わにした。怒っていたと思ったら急に笑い出す女が、傍から見たら頭がおかしいことは分かっている。
しかしあまりの呆気なさに、むしろ驚愕してしまって笑いになった。遅れて到着した縹さんがこちらに近寄ってくる。
「見ました?自分より年下の小娘に睨まれて、口籠ってましたよ。ふふふふふふ」
「お前よくやるな」
腹を抱えて笑う私に縹さんは呆れ顔だ。弱者にしか強く出られない男は、正真正銘の小者である。相当オツムが弱いことを確信した。
「はぁ……面白かった。ところで澄麗さん」
堪えきれなかった笑いをとりあえずおさめて、改めて澄麗さんに向き直る。
「私は定期発表で、婚約者さんをぎゃふんと言わせてやりたいと思っていますが、澄麗さんは如何ですか?」
「…あの……」
澄麗さんは肩をびくりと跳ねさせて言い淀んだ。
「だって悔しくないですか?なんっにも分かっていないのに、話も聞かずにただただ否定するだけしてそれを押し付けて!信じられないんですけど!」
「ええっと…」
「大体何ですか、あの身なり。態度ばっかり偉そうですけど髪の毛はボサボサ、髭は中途半端に剃り残し、ジャケットは型崩れ、身体にあってない大きさ、ベルトに乗ったお腹の肉。とてもじゃないですけど二十代には見えないですし、澄麗さんと並んでほしくない。澄麗さんは本当に結婚相手があの人でいいんですか!?」
「萌稀落ち着け、一気に話し過ぎだ」
息をつく間もなく捲し立てていると、見かねた縹さんが頃合いを窺って止めに入った。
「いったん澄麗に話す時間をくれてやれ。皆が皆お前のように、思っていることを素直に口に出せるわけじゃないんだ」
真っ当な縹さんの忠告に閉口した。ついカッとなって脳直で話してしまうのは、私の悪い癖だ。
澄麗さんを困らせるつもりは無かったのに、少し怯えさせてしまった。自分のお口を縫い付けてしまいたい。
「すみません」
穴があったら入りたい。両手で顔を覆って涙声で謝罪すると、澄麗さんは姿勢を正した。
「……いいえ、萌稀さんのお陰で少しすっきりしたわ。あの人のあんな顔、初めて見たもの。なんだか私が思っていたより小さい人だったみたい」
そして両手をお腹の前で固く組んで、顔を上げた。
「萌稀さん、縹さん…私、あの人を見返したいです。私は何も出来ないのだと思い込んでいたのですけれど、皆さんとなら何か出来る気がします」
銀灰の瞳は真っ直ぐにこちらを射抜いた。今までにない、確固たる意志を感じる。
「創立記念祭が終わったら、直ぐに打合せをしましょう」
澄麗さんの意志が固まってしまえば、あとはやるだけだ。私は前のめりに提案した。
これにて画家勧誘作戦、閉幕である。
*
創立記念祭の締めは、学院の大広間で行われる夜会だ。被服科が新作発表会で使用した広間を夜会用に飾り付け、今年は舞踏会が催される。
中庭を挟んだ反対側の広間には、立食形式で学院の料理人が腕を奮った豪華な料理が並ぶ。
貴族家の子息令嬢は、盛装を身に纏い社交の練習をする。平民の学生は制服を着れば参加は出来るそうなので、何となく社交界の雰囲気を感じながら美味しい料理に舌鼓を打つ。そんな会になっているそうだ。
もちろん音楽を奏でるのは、音楽系の学科の学生たちだ。
そんな煌びやかな夜会に参加する…はずもないのが私たち縹組である。
「と、いうわけで件の画家、澄麗には協力を得られそうだ」
「うん、良かったね。粘り勝ち、お疲れ様」
夜会の料理をいくらか拝借し、集まっているのはもちろん第三談話室である。今日の成果報告をしたところ、山蕗が労いの言葉をくれた。
「これで前期定期発表としては一歩前進ですけど、澄麗さんの問題は根本的な解決になっていないですよね」
澄麗さんがやる気になってくれたことで、定期発表については気兼ねなく進められる。しかし私はもう一歩、この問題に踏み込みたいと思っている。
「そうだな」
読めない表情のまま、縹さんは頷く。
「縹さん程のお家なら、横槍を入れることなんて造作もないのでは?」




