57.それぞれのやり方で
「萌稀はどうして、他人のためにそこまで一生懸命になれるの?」
「え…?」
思いもよらぬ方向から飛んできた質問に、私の思考は一瞬止まってしまった。ゆっくり詩苑を見ると、あくまで真剣に、そして冷静にこちらを観察している。
「今までだって、誘って断られたことはあるんだよ。縹の舞台科仲間だって、やりたいのは演劇だったり演奏会だったりで俺の歌には興味ないって言われたし、それこそ達華にだって逃げられた。勧誘はするけど、全て受け入れてもらえるとは思っていないんだ」
詩苑は今、芸術クラスの三年生だ。私が関わる前は、縹さんと山蕗と三人で作っていた。師匠が学院に居た頃は師匠に衣装を頼んだこともあるらしいが、山蕗と師匠は活動時期が被っていないらしい。師匠が学院を辞めてから仲間に加わったと考えれば、私と山蕗は丁度一年ずれくらいで仲間になっている計算になる。その間、他の人を勧誘したことも当然あっただろう。
その人たちのことを知らないから、求められている答えになるかは分からないけれど。私としては詩苑の疑問にこう返すしかなかった。
「私は舞台芸術を取り上げられたら生きていく意味を失う。澄麗さんにそうなってほしくないんだよ」
何度も澄麗さんの様子を思い返して考える。
わざわざ試験を受けてまで、学院に入って絵を勉強している。使い込まれた道具たちを見るだけで、澄麗さんにとっての絵がどういうものなのか、分かってしまう。
きっと澄麗さんは私と同類だ。ただそれだけのことで、私はこんなに頭を悩ませている。一部、縹さんのこともあるが。
「大体、絵なんて何枚描いても人が死ぬわけではないんだから、何度失敗したっていいと思うのよね。ついでに婚約者のこともぎゃふんと言わせたらいいんだわ」
それでも本人がやる気にならねばどうしようもない。詩苑に思いの丈をぶちまけて少しすっきりした私は、また次の説得方法を考え始める。
そして帰りは詩苑に建物近くまで案内してもらってから、誰にも見つからないようこっそり別れたのだった。
*
目の前のキャンバスは、いつまで経っても真っ白なままだ。
『私と、絵を描く練習をしませんか?』
後輩の声が頭の中をずっと巡っている。
末端とはいえ貴族と呼ばれる家に生まれ育ったからには、自分の将来に選択肢など無いことは解っていた。だから、何も望んでいなかった。
婚約者は、私が油絵を描くことを良しとしない。婚約者にとって、私が描きたい絵が描けないことなど、どうでもいいこと。
では何故私は毎日、こんな時間までキャンバスの前にいるのか。どうして筆を握ってしまうのか。
大きく息を吐いて橙の絵の具を手に取る。後輩の綺麗な瞳は、真っ直ぐにこちらを見据えていた。あれ以来ここには来ていないが、次に会ったら私が言うべきことは何だろうか。
その時、教室の扉が開く音がして慌てて振り返った。
現れたのは、予想と違う人影だった。新月の夜空は星々の心許ない光しかなく、いつも以上に教室内は薄暗い。
そんな中でも、小さな灯りを反射させた艷めく金髪は月のように光り輝いて、正に彼こそが空から降りてきた月の精のようだった。
他の学生と同じ制服を着ていても、浮世離れした美しさを纏う中性的なかんばせは、数ヶ月前に観た後期発表を思い起こさせる。女神フヨウか、その御使いか…。
息を呑む私を真っ直ぐに見つめ、その人は暫くの沈黙ののち、口を開いた。
「どうも」
入り口に立ったまま軽く会釈するので、こちらも会釈を返す。
「…おひとりですか?」
縹さんか萌稀さんならともかく、まさか詩苑様までもがひとりでここを訪れるなんて、想像もしていなかった。
「まあ…萌稀に触発されたというか」
「私のせいで詩苑様にまでご迷惑を…」
立ち上がる私を手で制して頭をかく。
詩苑様がここに来る理由も私の勧誘だろう。未練がましく回答を保留にしているから、何度も足を運んでもらう羽目になっているという自覚はある。
「それはどうでもいいんだけど、萌稀の本質を知らないと、伝わることも伝わらないんじゃないかと思って」
詩苑様は一歩だけ中に入ると、壁に背中を預けて腕を組んだ。
「萌稀、何も考えずにただ毎日楽しいことをしているだけのように見えると思うけど、師と呼ぶ人にかなり扱かれて今ここにいるんだ。入学試験の対策と、店の手伝いと、俺たちのための衣装制作と、やると決めたことを全部、寝る間も惜しんでやって…やった末に倒れて三日間寝込んだけどな」
「え……」
萌稀さんの話は縹さんから聞いていた。舞台芸術が大好きで、舞台衣装を作りたくて縹さんのお知り合いに弟子入りをし、その方の勧めで学院の試験を受けたこと。本当に楽しそうに衣装を作ること。より表現を追及するために思いもよらぬアイディアを出すこと。
やりたいことに真っ直ぐな姿は少し話しただけでも好感が持てたし、自分が出来ないことをやっているように思えて憧れた。
直ぐに断れなかった理由の一つに、憧れの気持ちを抱いてしまった萌稀さんと親しくなりたいという思いがあった。
そんな萌稀さんがどういう思いで衣装を縫い、どんな生活をして、どのような努力をしてきたかなんて、想像したこともなかった。
「三日間も寝込むほどってどんな生活してたんだ、ってその師匠とやらに問い詰めたら、後期発表前の一か月は碌に寝台で寝てないって話だったな」
「そこまでして…?」
「そこまでして。舞台上の完成品を見ただけでは分からないだろうけど、俺たちのための衣装を作り始めるまで、いちから服の一つもまともに縫えなかったんだぞって、その師匠に言われたよ。確かに初めて見た自作のワンピースは今と比べると下手くそだったな」
そのワンピースを思い出したのだろうか。詩苑様はそっと笑みを浮かべた。
私にも、絵を描くのが楽しくて夜更かしをした経験がたくさんある。今だって、他の学生が寮に戻るような時間になっても教室に残っているくらいには、絵を描くことが好き。
でも本当にやりたいことを貫き通すために、全力で努力をしたことがあるかと訊かれれば、答えは否と言わざるを得ない。
急に今までの自分の発言を思い出して、恥ずかしくなった。
「それがあいつが選んだ道だから、なんだろうな。俺も負けていられないと思った」
詩苑様は入口に立ち、首だけ振り返って最後にこう言った。
「そこまでしてやりたいことなのかは貴女次第でしょうし、萌稀の行動は必ずしも真似すべきことではないでしょうが。まあ、努力の参考までに」
創立記念祭まではまだ時間がある。それまでに答えを出せるようにと祈りながら、私は未使用のキャンバスを漁った。




