56.感情の行きつくところ
あてもなくとぼとぼ歩いていると、森の中にひっそりと、四阿のようなものがある。物思いにふけるのに丁度いいと思い、何の気なしに腰を下ろした。
両肘を膝について、掌に顔を預ける。目の前で、風に木漏れ日が揺れている。聞こえるのは葉擦れの音と鳥の囀り。
目を閉じて瞼の裏に浮かぶのは、澄麗さんの力強く美しい絵。その世界に吸い込まれてしまいそうなほど写実的なのに、それでいてどこの世界でもないような不思議な感覚。思い出や記憶じゃなくて、ただ真っ直ぐに五感を刺激する魔力のこもった絵。
軽く伸びをして目を開けると、かさりと木の葉を踏む音がした。振り返ると、音の方には色素の薄い金髪。
「先客とは珍しい」
「詩苑…どうしてここに?」
目が合うと詩苑は消していた気配を僅かに滲ませながら、真っ直ぐこちらに近づいてくる。
「どちらかと言えばそれは俺の台詞なんだけど…ここ、最近の俺の逃げ場なんだよね」
「ああ、それはごめん。考え事してたら迷っちゃって、なんとなく辿り着いたんだ。私、戻るよ」
知らないうちに詩苑が一人になれる場所に侵入してしまった申し訳なさから立ち去ろうとすると、すれ違いざま手首を取られた。
「どこ行くの」
「どこって、詩苑の邪魔したら悪いでしょう?」
わざわざこんなところ…まあ気づいたら辿り着いてしまった私としては、ここがどの辺りだかあまり予想もついていないけれども…それにしたって明らかに森の中の忘れ去られた四阿なんかに来るくらいなら、きっと誰にも邪魔されずに一人の時間を楽しみたいのではないだろうか。そう思っての申し出だったのに、詩苑は眉を顰めて首を傾げた。
「何で?ここにいてよ」
いてよって簡単に言うけど、万が一誰かに、どこぞのご令嬢なんかに二人でいるところを目撃された場合に、面倒を被るのは絶対に私の方なんですけどね。分かっているのでしょうかね。そう思って食い下がる。
「それにほら、誰かに見られると色々面倒だし」
「こんなところ、道に迷っても滅多なことでは辿り着かないよ」
色素の薄い金のまつ毛が橄欖石の瞳に影を落とし、強請るように強い視線を寄越す。
詩苑に意識を絡め取られそうになって、慌てて視線を逸らした。
道に迷ってうっかり辿り着いてしまった私とは何なのか。訊きたいような訊きたくないような、微妙な気持ちは胸にしまうことにした。
因みに私の方向感覚が鈍い件については、まだ正式に認めていない。
手首を掴まれている以上、このまま言いあっていても埒が明かないと判断し、仕方なく詩苑の意見を尊重することにした。
「ではお構いなく…」
私が再び腰を下したことを確認し、手首を離した詩苑も自然に隣に腰を下した。
「考え事って?」
「澄麗さんのこと」
澄麗さん勧誘作戦は主に私と縹さんで立案、実行をしており、初回の紹介以降は詩苑は関わっていないのだが、恐らく進捗状況は縹さんから聞いているはずだ。
「あれから澄麗嬢のところ、通ってるんだって?」
「うん、何か出来ないかと思って」
「俺には会いに来てくれないのに」
その拗ねた声色に誘われて隣を見ると、不満そうに口角を下げる詩苑と目が合ってしまった。木漏れ日の中でも綺麗な顔をしている。
季節の変わり目を告げる風が、二人の間を通り抜ける。頬撫でる冷たさと、風が木々を揺らす音がやけにはっきり伝わってくる。
「……詩苑と一緒にいるところを見られたら、大変じゃない。主に私が」
「それはまあ、そうだね……」
先に視線を逸らしたのは詩苑だった。ふう、と息を一つ吐いてから、詩苑は片肘を膝に置いて頬杖をついた。
――また…まただ。私を試して何がしたいというのか。
詩苑はたまに私の意識を無理やり引っ張って様子を窺ったあと、私が意識を逸らそうとする瞬間にそれをやめることがある。その後は何事もなかったかのように雰囲気をすっかり元に戻す。
「それで、勧誘の進捗はどうなの?」
そんなことをしつつも一応、私の話を聞くつもりはあるらしい。意地でも詩苑に引っ張られたくなくて、私も何事もなかったかのように話題を続ける。
「澄麗さんって男爵家の長女らしくて、お家で決められた婚約者がいるんだって。ああ、そうそう、同期の椹火が澄麗さんの弟だったから話を聞いてみたんだけど、その婚約者がね、澄麗さんが絵を描くことをよく思っていなくて」
これまでに縹さんや椹火から聞いた情報を一つずつ整理しながらぽつぽつと話すと、詩苑は相槌を打ちながら静かに耳を傾けてくれている。
「絵を描くのを躊躇ってしまったりとか、絵を描くこと自体に罪悪感を覚えてしまったりとか、そういうことの原因がその婚約者のせいらしくて。澄麗さんのお家が商売をしていて、婚約者はその取引先の子爵家の長男なんだけど、絵を取り扱っているのに絵の価値も分からないんだって。そんな人と婚約を続ける意味が私には解らないんだけど、婚約者が嫌がるからって絵を描くことを諦めようとしていることも解らなくて」
詩苑が黙って聞いてくれるのをいいことに、私は抱えていた思いを次々に言葉にした。
「作品が自分の思い通りにいかないと投げ出したくなるのも分かるし、大切な人に自分のやりたいことが認められないと辛い気持ちも分かるんだ。でも、少なくとも澄麗さんは、絵が思い通りに描けるように努力をしたのかなって思っちゃって…それで『気持ちに左右されない絵を描けるように練習しませんか』って本人に提案したんだけど」
「萌稀らしいな」
詩苑は穏やかに笑った。
「でも…勢いで言ったのはいいけど…余計なお世話というか、ただのお節介というか。そんなこと私に言われなくても分かっているよねって、全部言ったあとに思って」
言葉が尻すぼみになるのに合わせて、頭を抱えて項垂れた。
「でもね、でもね。私だって師匠に拾ってもらうまでは、刺繍しかできなかったんだよ。詩苑たちに出会ってからも、師匠にいっぱい教えてもらって、やっと一年前に服が縫えるようになったんだよ」
「うん、知ってる」
「私がやってきたことなんて、師匠や椹火やつーちゃん先輩やその他のいろんな先輩方にしてみれば無駄なことばっかりかもしれないけど、でも私はやるしかなかったんだよ。何が必要か分からないから、とにかくやるしかなかったの。でもその結果、本当にやるべきことが見えたりするし、やったことが何かしらの経験になるんだとしたら、それは無駄なことじゃない。そう思ってるの」
「うん」
「ただ、全部が全部、澄麗さんが悪いわけじゃないとも思っていて。そうさせる周りの影響が一番大きいと思うし。ちゃんとした貴族のお家で育った人なら、予め親に将来が決められていることなんて普通だし、そうやって生きるものだと思うの。でもだからこそ余計に、やり方はあるっていうことを知ってほしいし、やってみたら意外と簡単だったってこともあるかもしれないじゃない。……でも私が一方的に努力自慢をしたところで説得力の欠片もないから、それ以上何も言えなくなっちゃって」
両手で顔を覆って天を仰ぐ。震える声を必死に堪える。
「やる気がなければ難しいよね」
そう言う詩苑の声は淡々としている。こんな独り相撲の愚痴を聞かされて面倒だろうとは思いつつ、私は思いを抑えることができない。
「やる気がないわけじゃないのよ。きっと努力の仕方が分からないだけで!」
今まで自ら進んで何かをしようとしても、許されない生活だったのだ。女性は特に意志を持つことが許されなかった時代を、未だに引き摺っている家は多い。
事実、結婚して家に入ったあとは、目立たず旦那を支えていくのが「妻」の役目になるのだろう。そうして自分の意志で努力することを知らないまま、死んでいくのだ。
琳先輩のように、固い意志で夢を叶えようとする人の方が少ない。「そういうものだ」は呪いの言葉。嫌な声が頭に反響する。
「萌稀はどうして、他人のためにそこまで一生懸命になれるの?」
私は認めていないんですけどいつの間にか7月でした。
7月は週2回(水、土)更新にします!




