52.画家勧誘
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それから間もなく私と縹さんによる、画家勧誘作戦が開幕した。
「失礼します」
私は慎重に扉を開け、相変わらず小さな灯りしか光源のない教室に足を踏み入れた。
波打つ黒髪を後ろで一つに纏めた女性が、手に筆を持ったままこちらを振り向く。
「絵、描くところ見学してもいいですか?」
「あら、萌稀さん。今日は一人かしら?面白いことなんてないと思うけれど、それでもいい?」
澄麗さんは画材に気を使いつつも、こちらを向いて優しく微笑んでくれた。
「作品が出来上がる工程を見るのは、なんでも楽しいので」
教室内は相変わらず画材の匂いでいっぱいで、描くための小さな灯り以外には、月の光だけが澄麗さんを照らしている。しんと静まり返っているけど、不思議と落ち着く空気だった。
「ここ、どうぞ座って」
澄麗さんは絵筆とパレットを避けて、隣に一つ椅子を用意してくれた。
「ありがとうございます」
なんだか澄麗さんの心の領域に招かれた気がして、頬が緩んでしまう。澄麗さんの独特な柔らかい空気は私の気持ちを癒してくれるから、つい吸い寄せられてしまうのだ。
足早に近寄り椅子に座ると描きかけの絵を覗き込んだ。キャンバスは白い。
「お忙しいのに無理を言ってしまってすみません」
「全然気にしないで。頼ってもらえて嬉しいわ」
縹さんと作戦を立てた結果、特待生として入学した私は知り合いもいないし頼れる人が少ないから澄麗さんと親しくなりたい、という理由でとにかく接触する機会を作ってもらうことにした。
まずは仲良くなってしまおうという魂胆だ。あんな素敵な絵を描く人に悪い人はいない。
「澄麗さんはいつ頃から絵を描いているんですか?」
「そうねえ、物心ついた頃には筆を握っていたのよね」
澄麗さんは左手を頬にあてて小首を傾げた。
「そんな小さい頃から油彩を?」
「家がね、商売をしていたのだけれど、美術品も多く取り扱っていて。作品を見ることもあれば画材を取引することもあって、その影響だと思うわ」
「身近な存在だったんですね」
つけている前掛けも使っている道具も、かなり使い込まれている。更に道具を触る手つきもかなり慣れている。澄麗さんは下絵用の木炭を手に取った。
「ええ。暇さえあれば筆を握ることが習慣になっていたけれど、まさか学院に入るなんてあの頃は思ってもみなかったわ」
「どういう経緯で入られたんですか?」
「だんだんと…恐らく色々な感情を知るごとに、私の絵が変化するようになってしまってね。それでも絵を続けるために両親と相談して、『入学試験に合格したら』という条件で入れさせてもらったの。一応父は男爵位を持っているのだけど」
「確かに学院なら、解決方法が分かるかもしれないですしね」
結果としては、同じような事象を引き起こす学生はいなかったらしく、何とか原因を突き止めても対策を知る人が見つからなかった。それ故に、何も改善せず今日まで来てしまったとのこと。
「勝手に期待したのは私だから、仕方のないことだけれど」
そう澄麗さんは力なく笑う。
「萌稀さんはどうして?」
その刹那、僅かに抱いた疑問は澄麗さんの質問で掻き消えた。
「私は師匠に騙されて、ですかね。衣装を作りたくて弟子入りした人がいて、その人が縹さんたちと知り合いで」
背もたれのない椅子に深く腰かけ、両足を交互にぶらぶらさせながら師匠の顔を思い浮かべた。
師匠は元気だろうか。私がいなくなって寂しがっていればいいのに、そんな姿は欠片も思い浮かばないところが悔しい。こっそり残してきた刺繍には気づいてくれただろうか。
「萌稀さんはすごいわね。あんな方たちと一緒に作品を手掛けているんだもの」
「どういう意味ですか?」
あんな方たちとは随分な言い方をされている。確かに自由奔放な人たちだな、とは思ったことがある。
「地位も実力もある人たちの演出に、自分の作品が役立てるなんて信じられないわ。万が一失敗したら、周りからどう見られるかも分からないし…」
「澄麗さんも十分素晴らしい実力をお持ちなのに?」
あまりの自信の無さに、ぶらぶらしていた足を止めた。
「私なんて精々、趣味程度の物よ。本気でこの道に将来があるとも思っていないし…」
「……私の目から見たら、あの人たちも大概同じようなものだと思いますけど…」
縹さんと山蕗はどうだか知らないが、少なくとも詩苑は歌うためにこの学院に入ったわけではない。よく考えれば将来のことをどう考えているかも未知すぎる三人だ。
「それに…私が絵を描くことを良く思わない人も、いるから」
澄麗さんは苦しそうに眉根を寄せて呟いた。後ろに並ぶ描きかけの絵はざわりと気配を変えた。
「…それって」
「ごめんなさい。突然こんなこと言われても困ってしまうわよね。聞かなかったことにしてちょうだい」
言いかけた私を遮るように、努めて明るい声を出しながら、澄麗さんは木炭を脇の机に置いた。
「そういえば、萌稀さんは被服科の一年生なのよね。うちの椹火がいつもお世話になっております」
澄麗さんはこちらに向き直って、座ったままちょこんとお辞儀をした。
被服科一年の椹火?私は直ぐにその姿を思い浮かべて首を傾げた。澄麗さんと椹火に何の関係が?
椹火、それは癖のある黒髪に、銀灰の瞳をした気だるげな、どことなく猫のような男。
――そう、癖のある黒髪に銀灰の瞳。
急に頭の中で二人の姿が重なって、私は拳で掌を叩いた。
「道理で既視感があると思ったら!!」
「気づいていなかったかしら?この間は言い忘れてしまったのだけれど、改めまして、椹火の姉です。弟と仲良くしてくださっているみたいで嬉しいわ」
中身が全然違うから、欠片もピンとこなかった。気づいてからよく見れば、目鼻立ちがそっくりだ。少しだけ椹火の目をくりっとさせて可愛くしたらこうなるのだろう。それに癖のある黒髪もまるで姉弟だ。
既視感の理由にスッキリはしたが、何とも言い難い悔しさが残った。どうしてこんなに可愛らしい方の弟が、あんなに捻くれてしまったのか。
また思考が顔に出ていたのだろうか、澄麗さんはクスクスと笑いを零した。
「性格はね、私が父似で弟が母似なのよ」
「な、なるほど…」
澄麗さん似のお父様と、椹火似のお母様が出会った経緯がとても気になる。世の中不思議なことばかりだ。
椹火にも澄麗さんの繊細さの一欠片でもあれば良かったのにと、私は密かに頭を抱えた。
そうして何度か澄麗さんの元を訪れては、他愛のない話をした。
*
「ちょっとあんた、いい加減起きないと置いていくからね!」
扉の向こうでつーちゃん先輩の声がする。寝台に腰掛けうとうとと微睡んでいた私は、漸く焦点が合ってきた視界で時計の存在を確認した。早く部屋を出ないとつーちゃん先輩に置いていかれてしまう。
置いていかれたくないという気持ちでなんとか着替えだけ済ませ、部屋を出た。
「ふわぁ…」
「夜更かしでもしたの?」
苛立ちを隠しもせず、つーちゃん先輩は隣で欠伸を堪えきれなかった私を横目に見た。
「ちょっと考えごとをしておりまして…」
澄麗さんのことを考えていたら、いつの間にか夜が更けていたのだ。
縹さんと作戦会議をし、澄麗さん本人からも多少話を聴いたが、どうにも釈然としないことが一つある。
――何故あんなにも澄麗さんは自信が無いのか。




