51.動く絵の画家
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「ここだ」
数日後、私と詩苑は縹さんと待ち合わせて、絵画科の教室までやってきた。
既に日は落ちきっていて、人気はほとんどない。この間もそうだったが、食堂が閉まるくらいの時間には寮に帰っている人が多いらしい。
絵画科は被服科の教室と建物は同じでも階が異なる。流石は絵画科というべきか、廊下にも独特な画材の匂いが漂っていた。
因みに山蕗は「口説くのは得意じゃないから勧誘が成功したら会うよ」と言って今日は不参加である。そういえば師匠の店にも来たことがないし、元々そういうのは苦手なのかもしれない。だから昨年後期の教会巡りは私を参加させたのだろうか。
「邪魔するぞ」
縹さんは慣れた様子で教室に入った。人が居るとは思えない薄暗さの中に、私と詩苑も後ろにくっついて入る。
「いらっしゃいませ」
小さな灯りに照らされた大きなキャンバスの前に座っていたのは、背中に流した波打つ黒髪が印象的な、おっとりとした美女だった。銀灰の瞳、通った鼻筋に既視感を覚えたが、この種類の美女には出会ったことがないはずだ。
会うのは初めてだと思うけど、どこかで見たことがあるような。どこで見たんだろう。舞台女優かな。記憶の中の黒髪美女を辿ってみる。
「初めまして、絵画科四年の澄麗と申します」
私が記憶の海に飛び込んでいる間に、澄麗さんは椅子から立ち上がって丁寧に礼をしてくれた。
「初めまして!被服科一年の萌稀と申します。衣装担当です」
私も慌てて丁寧に礼を返す。
「あなたが衣装担当の方なのね。去年は前期も後期も楽しく見させてもらったわ」
「ありがとうございます」
既に知られているとは思わず、気恥ずかしさと嬉しさににやけてしまった。
「声楽科三年の詩苑です」
私のにやけを他所に詩苑は至極落ち着いた声で名乗った。静まり返った人気のない教室に響く詩苑の中低音、なかなか良い。
「もちろん存じ上げております。よろしくお願いいたしますわ」
そして私は遅ればせながら気づく。美女にうっかり気を取られて、詩苑より先に挨拶をしてしまった。これが公式の社交場だったら、不敬で締め出されたかもしれない。
おっといけないという表情を作って隣の詩苑を見上げたが、本人は気にしていないようだったので気にしないことにした。細かいことにいちいち目くじらを立てるような人じゃなくて良かったと、心の底から思う。
改めて挨拶をしたばかりの澄麗さんを見る。縹さんの勧誘したい人が女性だったことには、少しだけ驚いた。詩苑の周りがなんやかんや賑わっていたから、勧誘を躊躇っていたのだろうか。
しかしながら肉食獣のように機会を付け狙ってうろちょろしているご令嬢とは違い、詩苑にさしたる興味はなさそうである。あったら勧誘なぞしないだろうから当たり前だが。
そう考えながら、澄麗さんの後ろに視線をずらすと、その壮大な絵にすぐ心を持っていかれた。我ながらチョロい思考回路だ。
「おお、おおお?おおおおお〜」
「何その反応」
詩苑は私の間抜けな感嘆に呆れた声を出しつつも、同じように澄麗さんの絵に目を奪われたようだ。
寮の寝台の半分くらいありそうな広さのキャンバスには、地平線から昇る朝日が描かれていた。爽やかな草原に力強い光が走り、鮮やかな色の鳥が空を飛ぶ。優しい色使いなのに生命力が漲り、風の音や草の匂いがしそう。
それもそのはず、澄麗さんの絵は俄かに草が揺れ、雲が動いていた。
「絵の具が生きているみたい」
澄麗さんの筆跡がそのまま蠢いている。温かな魔力を感じ、私は一瞬で絵に釘付けになった。
何しろこんなに創作意欲を掻き立てられる絵を見たのは初めてだ。縹さんが勧誘したいと言ったのも納得である。
「目が離せなくなりますね。本当に素敵…窓から外の景色を見てるみたい」
「そんなに素直に褒めてもらえると、なんだか照れるわね…いつも、驚かれることの方が多いから」
澄麗さんは伏し目がちに呟いて、顔の横の髪を耳にかけた。
「確かに何も知らずに見たら驚くかもしれないですけど…でもそんなことより、光や風や匂いを感じることが出来る魅力の方が、絶対に勝ちます」
絵を描いた本人に鼻息荒く力説するという何とも失礼なことをかましたが、当の本人は怒るでもなく喜ぶでもなく、驚いたように目を瞠ったあと、その大きな瞳を僅かに揺らした。
「えっ、あ、あの、私何か気に障るようなことを…?」
知らぬうちに傷付けてしまったかと思い、慌てて弁明をしようと目を泳がせながら言葉を探していると、澄麗さんは首を横に振って堪えるようにぎこちなく笑んだ。
「違うの。嬉しくて…ありがとう、萌稀さん……」
私の知っている「嬉しい」と違う様子に違和感を抱き視線を隣に移すと、そんな澄麗さんを心配そうに見下ろす縹さんに気づいた。
これはひょっとすると、ただの勧誘ではないのかもしれない。
「縹さんが『縹組』に誘いたくなるのも分かります」
様子を探ろうとして発した私の言葉に、澄麗さんはぴくりと肩を震わせた。
その時、澄麗さんの背後の気配が動くのを感じた。動いた気配を辿って視線だけを動かすと、先ほどまで美しい朝日が描き出されていた澄麗さんの絵に、影が差している。
「え?」
吸い込まれるように絵の前に歩みを進めると、立ち込めた暗雲がその動きを止めた。それでも暗雲に浸食され始めた朝日は力強さを失い、どことなく冷やりとした風が吹いている気がする。
「どうして…」
「ごめんなさい、私が心を揺らしてしまったからだわ」
澄麗さんを見ると、今にも泣き出しそうに眉を寄せている。
「私の絵はね、私の魔力を宿して動くだけじゃなくて、描いているときの心情と関連することで私の感情が揺れると、それに影響されてしまうみたいなの」
絵画科の教室を出て三人並んで歩き始めると、縹さんが大きく息を吐いた。疲労感を露わにしているのは珍しい。
「なかなか骨が折れそうな勧誘ですね?」
「だから萌稀の力を借りたかったんだ」
少し自信無さげに前髪をかきあげて視線を落とす。
「私に出来ることがありますか?」
「そう、思っている。俺の力だと原因を探るまでが精一杯だったんだ」
縹さんは左の掌を見つめてから、ぐっと握りしめた。
「だから萌稀。澄麗の件、協力してくれないか。俺はあの才能を諦めたくない」
そう言って私を真摯に見つめる瞳に、希少な芸術家を縹組に誘い込みたいだけではない何かを感じて、私は少しだけ縹さんのことを知ることが出来た気がした。
「勿論ですよ。少し、作戦を立てましょうか。縹さんが持っている情報、全部教えてくれますよね」
私もあの才能を諦めたくはない。




