47.先輩
「詩苑もまあ元気そう、だね」
「うん、元気貰いに来た」
そのあまりに優しすぎる声音に、うっかり閉じた目を開けてしまった。その瞬間、美しい橄欖石のような瞳に目を灼かれた。巧妙な罠だ。なんてことしてくれやがる。
「ついでに被服科は、比較的俺に興味がなくて助かる」
ご令嬢の視線を捉えて離さない詩苑が、こっそりとはいえ教室に乗り込んできたのに、先輩たちの反応は皆無だった。この教室にいる人は基本、作品と向き合っていてそれどころではない。
「言ってみたいね、その台詞」
一旦落ち着きを取り戻そうと作業台に向き直ると、目の前の黒い影が動きを止めた。それに気づいて視線を遣ると、珍しく目を丸くしている。
「どうしたのよ、あなた」
「お前どういう関係だよ、そいつ、詩苑サマ、だろ」
不審に思って声をかけると、何に対する配慮か椹火は口元に手を添えてヒソヒソと話しかけてくる。
「どうも詩苑サマです」
うん、ばっちり本人に聞こえている。それなりに大きな作業台を挟んでヒソヒソした意味とは。
「お前そんな口聞いて、不敬罪とかで殺されるんじゃね?」
「『そいつ』とか言ってる時点で、椹火の方が間違いなく不敬だと思うけど?」
まあまあ真剣な顔で声をかけてくるが、どう考えてもお互い様である。もちろん詩苑はいちいちそんなことを気にする人ではない。
「仲良いな」
「どこが」
「ぜんっぜん」
同時に顔を顰めて否定する私たちに、詩苑は少しだけたじろいだ。
「大体あなたが入試当日に文句を言ってたのも詩苑よ」
「あ?入試当日に文句言ったのは、なんかもう少し髪色が」
「萌稀、それは内緒のやつだ。バレたら怒られる」
「なんでもないわ」
きっと椹火に睨みをきかせた。「ここにいて大丈夫」って言っていたのは「問題ない」の意味じゃなくて「バレなければ大丈夫」だったのね。
「……」
空気を読んだ椹火はそれ以上何も突っ込まないが、胡乱げな顔でこちらを見ている。何かが起こる前に話題を変えなければ。
「今日は授業無いの?」
「午前は無い。ああそうだった、本題を忘れるところだった」
詩苑は立ち上がると、廊下を警戒しつつ耳元で囁いた。
「俺たち、普段は芸術クラス棟の、第三談話室にいることが多い。空き時間があったら顔出して」
突然の耳への直接的な刺激に、私は肩を竦めてひゅっと息を呑んだ。
至近距離でのこの声の破壊力を、本人はもう少し自覚した方がいい。そんなところで囁かれたら腰が抜けてもおかしくない。若しくは手元が狂って、白衣に赤い模様が出来るところだ。
ぞわっとした刺激は背中を駆け下り、腰のあたりで疼いている。
座っていたからすんでの所で、いろんなことになんとか耐えた。肩を竦めたままにやけそうな顔をなんとか制し、眉間に力を入れて頷く。
「しばらくは課題に追われると思うけど、時間を見つけて絶対に行く」
何しろ入学してから縹さんも山蕗も見かけていない。それぞれの生活圏もよく分からないし、みんなとは使用する教室が少々離れているらしい。普通に生活しているだけでは会えないことに、少し寂しさを感じていた。
私の決意を感じ取ってか目を細めて薄く笑んだ詩苑は、再び廊下の様子を窺うと足早に教室を出ていった。
仮縫い途中の白衣で顔を半分隠しつつ、詩苑を見送ってから作業台に向き直ると、表情をこれでもかと歪ませた椹火と目が合った。
「衣装係さんは詩苑サマと随分親しいんだな」
「何か文句でも?」
「別に」
椹火の無言の主張を受け流しつつ作業に戻った。
*
「あんたたちは本当に、勝手に進めてくれちゃって…私がいる意味ないでしょ」
課題の中間経過の報告で、仮縫いの白衣をつーちゃん先輩に見てもらうと、盛大に溜め息を吐きつつ呆れ顔を向けられた。
「仮縫いまでって言ったのに、刺繍もこんなに進めちゃって…ちょっとは待てないの?」
私と椹火の白衣を交互に見ながらつーちゃん先輩は眉間に深い皺を刻み、手元の書類に何かを書き留めている。
「相変わらずうるせえ意匠だな」
「あんたのは相変わらず簡素すぎるほどに簡素な意匠ね」
椹火が私の白衣と意匠画を横目に見ながら詰ってくるので、つられて私も言い返す。椹火とのこのやり取りも、既に見慣れたものになりつつある。
「決まりはないんだからどっちでもいいわ。良いよ、二人とも先に進めて」
つーちゃん先輩からお許しが出た。工程の途中途中で出来と進捗を確認するのも教育係の任務らしく、隅々まで検分し先に進んでいいかの指示をくれる。
「最後まで進めていいんですか?」
「細かいところを確認するから、刺繍が終わったらいったん待ちなさい」
「はあい」
「なあんだ、順調そうねえ、都辻」
「げ」
私たちに白衣を返しつつ、目を眇めて口から蛙の鳴き声のような音を出したつーちゃん先輩の後ろから、突然女性の先輩が顔を出した。
焦げ茶の髪はうなじが見えるほど短く、遠くからでも目を引く見た目だ。後ろ髪より長く揃った前髪から覗く、蜂蜜色の瞳は意志が強そうで格好良い。
組んだ腕で寄せられた谷間が目に毒なくらい、白衣を着崩している。
因みに白衣の特徴としては、鮮やかな糸で刺繍がびっしり施されていてとても華やかである。丈は長めだがボタンがお腹あたりまでしか止められておらず、チラチラと美しい御御足が見え隠れしている。そしてお分かりの通り、中に着ているスカートもシャツも制服ではない。
入学直後から遠目に観察されていることは気づいていたが、席が遠い上に話をしなければいけないような状況もなく、視線だけを甘んじて受けていた先輩だ。
耳にぶら下がる大きめの茶色い飾りが個性的で気になっていたので、お話しできるのは純粋に嬉しい。
「遊梨ちゃんの過剰な期待を一蹴する予定だったのに」
「琳先輩…」
そんな勝気な笑みを浮かべた先輩に対し、つーちゃん先輩は険しい表情をさらに歪めた。
「ああ、自己紹介がまだだったわね。六年の琳藤よ。琳先輩って呼んでちょうだい」
琳先輩は作業台に腰掛け、脚を組んで私の顎を掬う。美人に妖艶に微笑まれたらうっかり恋に落ちてしまうではないか。
「琳しぇんぱい、にゃんのはなひでひょうか」
そのまま頬を片手で挟まれむにむにされている。
「あなた詩苑様の衣装担当らしいわね」
「うにゃ、しょのひゃなし、どょこひゃらでみゃわってるんれひゅ」
先日の歓迎会での自治会長に続き、またしても私の存在が外部に漏れている。自分から宣伝しているわけでもなければ、詩苑たちが積極的に他の学生に知らせる意味もこれといってないだろう。
「てっきり達華が続けているんだと思っていたのよ、私たち」
噂の出処については答える気がないらしい。
「ひひょうのおひりあひでしひゃか」
「お知り合いも何もあいつは後輩よ。歳は変わらないけど。あんた師匠とか呼んでるの」
「ひぇい」
やっと開放された頬を撫でつつ、琳先輩の言葉を脳内で反芻した。「師匠は琳先輩と歳が変わらない」?
「大変失礼かとは思いますが、琳先輩はお幾つで?」




