3.坂の上の
*
「王立、魔法学術院…?」
完成したばかりの自作ワンピースを着て、呆然と書いてある文字を読み上げた。
私の目の前にそびえたつのは、果ての見えない堅牢な煉瓦の壁に囲まれ、これまた堅牢な鉄でできた大きな門。高さは二階建てか三階建ての家ほどで、横幅も一般的な民家一軒分ほどあるように見える。門の上部には壁の内側にあるであろう施設の紋章が象られた銅板が鎮座し、厳しい空気を放っている。
「あの…ここは……?」
息も絶え絶えに師匠に問いかけた。ここに来るまでにとんでもない勾配の坂を上ってきた私は、門の前で膝に手をついて肩を上下させている。本当に大変な坂だった。舞台芸術が好きとは言ったが山登りが趣味とは言っていない。
そもそも季節は夏真っ盛り。青空が眩しい。湿度の低さと鬱蒼と生えた木々の日陰で大惨事は防いでいるが、一歩でも日向に出たら確実に死ぬ。既にこめかみから汗が滴っている。せっかく完成させたワンピースが汚れたらどうしてくれる。
「ここは…………学校だ」
…………見れば分かる。それはもう書いてあるので。私さっき学校の名前読みましたよね。何をさも重要なことを言ったみたいな顔で腕を組んでいるんですか。
呼吸するので精一杯でツッコミが声にならない。普段ではあまりない奇妙な沈黙に、私の呼吸音と小鳥の囀りだけが切なく響く。
というか師匠は何故息の一つも切らせていないので?私と同じように室内に引きこもって服を仕立てる生活をしているはずなのでは?
私は声もなく師匠を見上げた。
私と師匠は今、師匠の店から数時間をかけて移動し、人里離れた森の中にある崖の上の大きな敷地の前にいる。
そもそもどうして私たちがこんなところにいるかというと、それはつい三日前に遡る。
『やい萌稀』
『はい?』
『なんか演奏とか演劇とか観られるっつったら行くか?』
私が夕食の準備をしている台所に来た師匠は、コップに水を注ぎながらそう問いかけた。とても適当な質問の仕方だけれど、師匠はいつも感覚で生きているので突っ込むことは諦めた。
『もちろん』
どんな規模のどんな公演でも、舞台芸術が観られるのであればその機会を逃す手はない。そう常日頃から考えている私は即答した。
『じゃあ三日後な』
『はい?』
それきり台所を立ち去った師匠に、三日後に何があるのか全く教えてもらえず当日を迎えた。
そうして今朝に至っても特に何も教えてもらっていない。ただただ師匠についてきて、馬車を乗り継ぎ林道というか森を抜け、最後に唐突に急勾配の坂を登らされたという次第だ。
ただし服装だけは完成させた自作のワンピースだと条件を付けられていた。
そんなわけで私が訊きたいのは「ここが学校か否か」ではなく、「どうして学校に連れてこられたのか」とか、「舞台芸術と学校に何の繋がりがあるのか」とか、「そもそもここに入れるのか」とかそういうことなんですけれども。
でも声にならない。何度も言うが登ってきたとんでもない坂のせいで呼吸もままならない。
「行くか」
いやどこに!!どこに行くのかを!!教えてください!!
しかしやはり息が整わず声にならないので、私は無言でついていくしかないのであった。そろそろ頭痛がしてきたような気もしなくもない。
大きな門の横に小さく控えめにある通用門から敷地内に入って直ぐ、門より低い屋根の小屋で何やら受付をしたらしい師匠に手招かれて、私も中に足を踏み入れた。
壁の向こう側には、圧倒的な広さを誇る、質素ながら威厳のある建物が見える。高さの揃った複数の建物の集合は等間隔に並び、そこに向かうまでの道も高低様々な植木とともに整然と敷かれている。
大きな門から真っ直ぐに伸びる石畳の道は、二つの建物を繋ぐ屋根付きの廊下を横切ると中庭に続く。
中庭は噴水や花壇で綺麗に整えられ、貴族の屋敷の庭園のようだ。
その格式の高さに、自然と背筋が伸びた。ワンピースがフォーマル寄りで良かったと思う。持っている服が動きやすさ重視の物ばかりで、今後、劇場に足を運ぶことがあるかもしれないと思い意匠を考えたものなのだ。
鉛色の髪に映えるよう身頃は白で清楚に、腰で切り返した膝下の丈のスカートは瞳の色に合わせて橙色、白いレースをところどころに縫い付けつつ、裾には白と黄色の糸で花柄の刺繍を施した。普段は下したままにしている髪の毛は、簡単に結い上げた。
いつもなら適当なシャツにゆったりとした作業用のズボンしか履かない師匠も、今日はきちんとジャケットを羽織っている。因みに頭部の厳つさはいつも通りである。
正装が台無しですねと言いかけたが止めた私を誰か褒めてください。
「ここ、本当に学校なんですか?庭園が、まるでお城みたいですけど」
歩きながら呼吸を落ち着かせつつ、漸く師匠に声をかけた。
「学生には貴族も多いからな」
「それで、私たちはそんな学校のどこを目指しているんです?」
私の訝しむ質問に、師匠は目の前を指差しながら実に簡単にこう答えた。
「あれだ」
庭園の噴水の向こう側に見えてきたのは、彫刻などの装飾がこれでもかと施された、周りとは打って変わって豪奢な建物である。
その装飾の美しさと言ったら。
「まさか、劇場…!?描きたい…!」
舞台芸術愛好家の私は舞台芸術の全てを愛しているのだが、それは劇場も含めてである。
その造形の美しさに胸を打たれた私は、ついその姿を記録したくなってしまった。何かを思いついたときのため持ってきていたクロッキー帳に手をかけた瞬間、師匠の手刀が落ちた。
「あいたっ」
「阿呆。始まるわ」
「それはダメです…」
しょぼくれる私を横目に、すたすたと師匠は入口の階段を上っていく。
「どこの席がいいんだ?」
「自由席ですか?二階席があるなら二階の真ん中がいいです!何を観るのか全然わからないですけど」
やっぱり何かの公演を観られるんだ…!自然と心が踊る。
演劇やバレエを観るなら一階の前方が見やすくていいのだろう。だがしかし、舞台愛好家兼劇場愛好家の私は、内装の意匠から残響から照明から全てを堪能するのが至上の悦びであった。全体の風景を観て、全体の響きを確かめるのであれば、なるべく後ろの真ん中が良い。
師匠に連れられて席につくや否や、私は興奮気味に持ってきたクロッキー帳を取り出し内装をスケッチし始めた。
「お前のそれは最早病気だな」
呆れ顔で師匠がため息を吐く。
「好きなものはしょうがないですね」
そんな師匠を意に介さず私は手を動かし続ける。滅多に来られない場所なのだから、ただ目に焼き付けるだけでなく、記録に残さないと。
夢中になってクロッキー帳にペンを走らせていると、程なく客席が暗くなり緞帳が上がった。舞台の下手から司会と思われるタキシードを着た男性が現れ、今から後半が始まると告げて静かに帰っていった。
「おや?もう後半なのですか?どうりで人の出入りが落ち着いているわけですね」
私たちが劇場に入ったときには、すでに一階席はほぼ埋まっていた。開演時間ギリギリだからかと思っていたが、公演自体は随分と進んでいたらしい。
「何を観るのかそろそろ教えてくれてもいいのでは?」
舞台に明かりが灯るまでの束の間、師匠にひそひそと問いかけた。
「芸術クラスの定期発表会だ」
「芸術クラス?」
そういえばこの学校、さまざまな専門分野の授業があると、聞いたことがあるような気がする。芸術クラスって音楽とか美術とかそういうことよね、ひょっとして演劇とかのクラスもあるのかな、などと思考を巡らせていると、準備が整ったらしい舞台上に明かりが灯り、弦楽の演奏が始まった。
演奏が始まると音の広がりに身を委ねる。実に良い響きの劇場だ。正直、演奏自体は拙いところがあるものの、それを差し引いても素晴らしい空間を堪能できる。
演奏している人たちのお衣装はというと、女性は身体の線を強調したすっきりとした意匠のドレス、男性は燕尾服。二階だと衣装を詳細に見られないのが難点ではあるが、大体の素材と意匠は光の反射と動いたときの生地の揺らぎで想像がつく。
目からの情報と耳からの情報どちらにも意識を集中し、舞台上で行われる発表にのめり込む。
次々と隙間なく繰り広げられる室内音楽の演奏や短い演劇をつぶさに観察し、劇場と衣装を分析する。
劇場の残響時間がさほど長くないのは、音楽にも演劇にも対応するためか。発表の質は玄人顔負けの腕前からそうでもないものまで幅広い。うるさくない程度にこっそり手元のペンを動かし、気になったことや思いついたことを描き留める。
そして最後に出てきたのは木製の手回しオルガンと一人の少年だった。
今後も水曜日朝7時投稿の予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。