40.『暗闇にも風は吹く』
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――らしい。そう、私には師匠の店に帰り着いた記憶がない。気がついたら見慣れた低い天井が目の前にあった。
「いったあい」
起き上がろうと試みたものの、ひどい頭痛に目眩がする。
なんとか寝返りを打ち、目線だけで部屋の中を見回すと、寝台の横の椅子にコップが置いてあることに気づいた。手を伸ばし中を覗いたら、水が入っていたのでありがたくいただいた。
今までコップを持って屋根裏部屋への梯子を登ったことなんてなかったし、ましてや師匠がこの部屋に入るわけもない。誰が置いてくれたんだろうか、小人さんかな、などと考えていたら目眩が悪化した。
お店の手伝いのことは気になるけど、動けそうにもないし大人しく身体からの指示に従って意識を手放した。
*
「三日って、つまり太陽が三回昇って沈んだってことですかね」
「それ以外に何がある」
漸く頭痛と目眩がなくなり、起き上がったときには朝だった。一晩寝たら身体も頭もすっきりしたなと思いながら、屋根裏部屋から下りた。あまりの空腹に耐えかねて、台所で少々早い朝食を拵えていたら、師匠が起きてきたので元気よく挨拶をした。
「私、三日三晩寝てたんですか?」
「だからそうだっつってんだろ」
いつもだったら師匠の重い手刀が落ちてくると思い、よく働く頭が危機を察知し、よく動く身体で頭を守ったのに何もなかった。構えていたのに肩透かしをくらい、恐々と師匠を観察する。
「ほんで、もう体調は大丈夫なのかよ」
苛立たしげな声ではあるものの、師匠の顔はどちらかというと困っているように見えた。吊り上がっていない師匠の眉毛を見るなど何億年ぶりだろうか。ただし眉間の皺は通常運転である。
「お陰様で、すっかり元気になったみたいです」
丸三日も寝ていれば、頭も身体もすっきりするわけだ。我ながらよく眠り続けたものだ。
ここ数ヶ月、入試対策やら、後期発表やらでいつも以上に睡眠時間を削っていた自覚はある。今まで多少無理をしても倒れることなどなかったから、今回も大丈夫だと思ったのだ。
しかし状況から察するに、私は学院から帰る途中、馬車の中で寝てしまったのだろう。
師匠にお世話になってから、初めてアルバイトを休んでしまった。
「アルバイト休んでしまってすみません」
改めて深く頭を下げると、師匠は食卓の椅子にどかっと腰掛けた。
「あー、腹減った」
「はい、ただ今作りますので少々お待ちを!」
怒らず心配してくれた、師匠の常にない優しさにくすぐったくなって、目も合わせず朝食の支度に戻った。
人間、限界を迎えると身体が悲鳴をあげるものなんだなあと、支度をしながら他人事のような感想を頂いた。
それにしてもちゃんと本番が終わってから倒れるなんて、空気の読める身体だこと。でもせめて師匠の店に着くまで頑張ってくれたら…そういえば馬車に乗ったところまでは記憶があるけど、そのあとどうしたんだっけ?確か詩苑が送ってくれるって言って、発表の感想を語り合いながら、否、一方的に投げつけながら、揺られていて。…あれ?
「師匠、あの、私はどうやって部屋まで帰ったんですか……?」
ふと沸いた疑問を、食卓についた師匠に投げかけた。
「詩苑に運ばせたが?」
運ばせた。そうですよね。師匠がそんな面倒なことするわけがない、当然だ。それは分かる。そして一緒に帰ってきたのは詩苑だ。私は恐らく意識がなかった。だって記憶がないし。うん。そうですよね。どうしよう。とりあえず考えないようにしておこうかな。久しぶりに師匠のお手伝いをしないといけないし。他のことに気を取られてぼーっとしてたら師匠にどつかれるし。よし、いったん忘れよう。
何やら高貴な人にさせてはいけないことをさせたような気がしているが、それどころではない。休んでしまったためにかけた迷惑を取り戻すため、いつも通りの生活に戻っていった。
「師匠〜、クストさんちのズボンの穴あき直しました〜」
休んでしまった分の仕事をこなすため、朝食後すぐに復帰した。運んでもらったという事実への動揺を落ち着かせるのにも、作業があるのはちょうど良かった。
身分云々の話を置いておいたとしても、年若い乙女の心境としては、次にどんな顔をして会えばいいのか分からない。
私の部屋は、部屋とは名ばかりの屋根裏の物置である。師匠が一人で切り盛りしていたささやかなお店に無理やり居座っているので、そもそも元の部屋数に余裕などないのだから仕方がないことだ。
更にその屋根裏部屋へは梯子を使ってしか出入りできない。一体、詩苑はどうやって私を寝台まで運んだというのか。
「じゃあ次、刺繍」
「うい」
師匠に投げ渡されたのは、ショールと意匠画だった。
「おおお、師匠の図案久しぶりに見ました!」
近頃は私が刺繍図案を起こすことが多かったから、師匠が描いたものを目にするのは久しぶりのことだった。師匠の無駄のない美しい図案は、装飾を増やしがちな私からは決して生まれないものなので、しっかりと目に焼き付けておきたい。
余計な思考は一旦脇に置いて、うきうきしながら作業に取り掛かろうとしたときに、チリンと、お店の扉に下げられた呼び鈴が鳴った。お客様が来たらしい。
「はーい」
作業部屋の扉からお店の入口を覗くと、見慣れた色素の薄い金髪の男が、そこにいた。
今一番会いたくない人が、なんでここにいるのだろうか。思わず息を呑んで後ずさった。
「萌稀……!」
目が合うと同時に、その芸術作品のように美しい目を見開いて駆け寄ってくる。
「大丈夫か!?」
「あ、はい、大丈夫です。その節は大変ご迷惑をおかけしたようで申し訳…」
「そんなことはいいけど、どこか痛いところとか…!」
「大袈裟なんだよ」
ひどく焦った様子で今にも飛びつかんばかりの詩苑を、私の背後に立った師匠の手が止めた。この人は本当に、どうして貴族様の頭をおいそれと掴むことができるのだろうか。詩苑の勢いには若干引いていたので、止めてくれたのはありがたいのだけれども。
図らずも男二人に挟まれ居心地は最高に悪い。
「大袈裟なことはないだろう!」
詩苑の頭を掴む師匠の手首を払い、詩苑は顔を顰めた。
「ただの疲労と睡眠不足だっつってんだろ。店内で騒ぐな」
「でも俺たちのせいでっ」
「こいつの自己管理能力の低さが原因だ」
必死に言い募る詩苑に対して、努めて冷静に師匠が返す。大雑把な付き合いの二人が睨み合うところなど初めて見た。私の迂闊な行動のせいで二人の仲が拗れるのだけは避けたい。
頭上で交わされるやり取りに何とか割り込もうと試みる。
「私の不注意でごめんなさい。でももうばっちり寝たし、体調は本当に大丈夫なの。もう元気だから」
だから、えーと、この場合は誰に何の言い訳をすべきなのだろうか。
悩みつつ目を泳がせていると、詩苑が大きく息を吐き、脱力しながらしゃがみ込んだ。そしてその位置から私を見上げる。
「本当にもう何ともないんだな?」
「うん」
「俺たちも気づけなくて悪かった…けど、もう、無茶はしないでくれ」
こんなに切実に懇願されたのは初めての経験だった。詩苑ほどの美しい顔面に見上げられたら、なんでも言うことを聞いてしまいそうになる。
「うん、ごめん」
師匠の雑な扱いに慣れすぎて、こんなに心配してくれる人がいるとは想像もしていなかった。そもそも私自身、三日も寝込むほど限界を超えている自覚もなかった。私のせいで騒がせてしまうのは申し訳ないし、今後は一日寝れば済むくらいにしておこうと心に誓う。
「そんなことより、これ来てたぞ」
詩苑が落ち着いたところで師匠がどこからか、深い紺色の封筒を持ってきた。封筒を見るなり詩苑は風より速く立ち上がる。宛先は私だ。
「なんですか?この手紙」
差し出されるままに受け取ってひっくり返すと、差出人を見て首を傾げた。
「学院から?」
金色の封蝋に、金色のインクで文字が書かれている。はっきり、「王立魔法学術院」と。
目の前のことに集中するあまり、すっっっかり忘れていた。
そうだった、私、入学試験受けたんだった。入試課題の出来に満足して、結果のことなど頭から追いやっていたわ。
受かれば儲けもの、受からなくてもまあ仕方ない、くらいの気持ちでいたから特別な感情もなく封を開けた。
何故かこの場で一番そわそわしているのは詩苑である。
「おお、合格だ」
「ええ!?あっさりしすぎじゃない!?倒れるくらい無理したのに!?」
「実技試験対策でやったことは、どちらにせよ今後通らなきゃいけない道だったわけだし、早く身につけられたから合否はどちらでも良かったというか」
師匠に引き続きお世話になるのなら、使い物になる技術を習得しておくに越したことはないわけで。
しかしふと、入学試験当日のことが頭を過ぎった。大きな作業台に、使い込まれたミシン、素材が詰まった壁際の棚、個性的な試験監督。ついでに態度の悪い、口が達者な繊細黒猫男。
学院での生活を想像すると、待ち受ける未知の世界にここでの生活と同じくらい胸が踊った。
「学院での生活も楽しみだよ。実技試験を受けた部屋からも創作の熱を感じたし、面白そうな人も居そうだしね」
頬を緩めて詩苑に笑いかけると、安心したように笑い返してくれた。
「やっと煩いのがいなくなる」
「もう、師匠ったら素直じゃないんですからあー!」
師匠のあからさまな溜め息にも笑って返した。私が学院に行ってしまうことを、少しは寂しがってくれないかなと思ったことは永遠に秘密だ。
しかしそうと決まればここに居られる間は師匠から技を盗まなくてはと、気合を入れて作業に戻ろうとして詩苑の存在を思い出す。
「そういえば詩苑は何しに来たんだっけ?」
「どう考えてもお前の様子見だろ。お前意外と薄情だな。今日で三日目だぞ」
「三日目…?」
確かに今日は倒れてから三日目だ。さっき師匠がそう言っていた。
「毎日邪魔しに来やがって暇人か」
「毎日」
師匠の言い方だと、毎日詩苑が様子を見に来ていたことになるよね。毎日寝顔を見られたりしてないよね?
「目覚めなかったらどうしようかと」
「元気に寝息立ててただろうが」
二人の怪しくなっていく会話に、私は立ち尽くして固まった。よく考えてみれば詩苑に寝顔を見られたどころか、運ばれたんだった。暢気に笑っている場合ではない。
「俺たちのせいで萌稀に何かあったらと思ったら、居ても立っても居られないだろう。せっかく見つけた衣装担当だし。学院もたまたま休みだしお見舞いにも来る」
毎日お見舞いありがとうございます!本当の本当に私ったら、自分のことで一杯一杯すぎて恥ずかしい。誰か隠れるための穴をください。
「ああああああの、帰りの馬車の中で記憶が途切れて、本当に、迷惑を、おかけし、申し訳なく……!このお詫びはどうすれば良いものやら……」
私が慌てて、床に頭がつきそうな勢いで身体を二つに折ると、頭上からクスクスと笑う声が聞こえる。私はこんな必死なのに何故笑われているのか。
そっと頭を上げると、詩苑は目を細めて子どもが悪戯を思いついたときの表情で言う。
「これは、衣装で返してもらうしかないね?一生逃がしてあげないから」
「い、一生…?」
――かくして住み込み仕立て屋アルバイトだった私と、何やら高貴な人たちとの、新しい生活が幕を開ける。
(第一部 暗闇にも風は吹く)
これにて一部終了です。お付き合いいただきありがとうございました。
ぜひ印象に残ったシーンやキャラクターなどあれば教えてください。
来週一つ幕間を挟みまして、4月から二部を開始します。
二部からは詩苑が本気出すような気がします!




