33.声域
(毎日チャレンジ二日目)
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「試験お疲れ様。どうだった?」
「おかげさまで、持てるものは全て出せたと思います!」
「それは結果が楽しみだな」
入学試験を終えたあと、結果が出る前に後期発表の打合せのために学院を訪れた。入学試験からは数日しか経っていないので感慨も何もないが、やはり普段と入試当日の様子の違いは同じ場所とは思えなかった。見えている景色は同じでも、そこに集う人たちの意識や生活様式が異なるからだろうか。
さて今日の私はいつも通り校門から詩苑さんに案内され、練習場にいる。山蕗さんの編曲が固まり、詩苑さんの歌練習が始まったとのことで、演出と衣装を考えるのには詩苑さんの歌を聴いた方が早いらしく、早速足を運んだ次第である。
詩苑さんの衣装制作は苦しみを乗り越えたあとのご褒美だ。辛かった日々から解放されてそれはもう、ウキウキだ。
「縹さんのおかげで苦手分野も概ね解けたはずです!本当にありがとうございました」
「それは何よりだ」
縹さんにも何よりもまず報告とお礼をした。深々と下げた頭を戻すと、やんわり微笑んだ縹さんと目が合った。初対面のときは冷たい印象があったけど、なんだかんだ面倒見がいい人なんだろう。
「今日は後期の発表のために、気合いを入れて衣装を考えます!」
「よろしくな」
そんなわけで入口近くに置かれた椅子に座って、まずは詩苑さんの歌を聴かせてもらうべく、受け取った楽譜を開いた。
軽く柔軟やら発声練習やらを終えた詩苑さんが、練習場の真ん中に立つ。詩苑さんの練習に立ち会った回数は片手で数えるほどしかないが、今日はなんだかしきりに息を吐いている気がする。十秒以上かけて吸い込んで、十秒以上かけて吐き出して、少し動きを止めてまた吸い込んで。初めて詩苑さんから緊張のようなものを感じた。
そういえばここに来る道中も、口数が少なかったような。曲について訊いてみたが、やはり「聴いた方が早い」としか返ってこなかった。その代わりにとても低い音の鼻歌が聞こえてきた。機嫌が良いとも悪いともつかない声色に、突っ込むべきか悩んでやめておいた。
「じゃあ始めるか」
縹さんの声かけで詩苑さんは背筋を伸ばして顎を引き、山蕗さんの手が鍵盤に置かれる。詩苑さんが目を合わせると山蕗さんは鼻から息を吸い込み、ピアノが音を奏で始めた。山蕗さんの演奏は今日も優しい。空間を丸ごと包み込むような暖かさが、聖歌に良く似合う。
山蕗さんの前奏に合わせて、詩苑さんが大きく息を吸い込む。私は渡された楽譜に目を落とし、歌い始めの音と詩を確認して耳を済ませた。
次の瞬間、脳が人の声を認識したと同時に、私は勢いよく顔を上げた。自分の耳が信じられなかったからだ。
――目の前で歌っているのは詩苑さんなのに、聞こえている声は間違いなく女性のものなのだ。
今自分が置かれている状況を正しく把握出来ず、口を開けたまま固まった。私が今理解出来るのは、視界の端で縹さんが悪い笑みを浮かべていることと、山蕗さんの肩が震えていること、でもちゃんと演奏が続いていることのみである。一瞬、入試対策の影響による幻聴かと思ったが、縹さんと山蕗さんの様子で現実なんだと分かった。
詩苑さんの口から発せられる声は、繊細に、しかし伸びやかに、高音を突き抜ける。
そういえば今回は「高音域の練習」で聖歌をやることになったと、始めの打合せで言っていた気がすることを漸く思い出した。しかし男声の高音域にも、限度はあるのではないだろうか。
自分が予想出来ることから大きく外れた事態に直面すると、頭が全く働かなくなることを突きつけられた。衝撃が大きすぎて楽譜に書いてあることも理解出来なくなった。
一体これは何なのだろうか。
この日ほど語彙力というものを失ったのは、後にも先にもないと思う。そのくらいの衝撃だった。初めて詩苑さんの歌を聴いたあの日にも劣らない。
慎重に歌い終えた詩苑さんはゆっくりと目を閉じ、その場にしゃがみ込んだ。
「入りピアノだって言ったろ。もう少し細く入れないのか」
「無茶言うな。これでも細くなった方だろ。誰この曲やろうって言ったの!」
「お前が音域広げたいって言い出したんだろう」
「でも限度ってものがあるよね!これ男声音域じゃないから!」
あっという間に振り返りが始まった。まだ理解が追いつかない私は、今回も置いてけぼりを食らっている。
「いやあ、これが聞きたかったんだよ。いいね。でも響き硬すぎ」
「どいつもこいつも!」
山蕗さんが椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見つめながらやはり悪い笑みを浮かべている。しかしきっちり改善点を挙げているところは流石である。あの高音域での響きの硬さなど、そもそも耳が追いついていない私には分からない。
どう考えてもこの人は声帯を複数持っているとしか思えないが、じっと喉元を見つめても喉仏は一つしか見当たらない。そりゃそうか。じゃあなんだっていうんだ。
「また萌稀ちゃん面白い顔してるんだけど」
山蕗さんはまだ呆ける私を見て笑っている。
「なんか言いたげだけど、訊いた方がいいかな」
詩苑さんは私の顔を見て苦笑いを浮かべている。私今どんな顔してるんだろう。
「えっと…とりあえず、今の声って詩苑さんなんですか…?」
「間違いなく詩苑さんです」
なんとかして頭の整理をつけようと私が質問すると、詩苑さんは真顔で大きく頷いた。なんだか納得できなくて、私だけ理解していない状況に腹が立ってくる。
「詩苑さんって性別男ですよね」
「ちょっと下は見せられないけど男です」
見せなくていいです。あとなんでちょっと照れながら視線を逸らすんだろう。誰も頼んでないから。
それでもやっぱり信じられなくて、私は無い知恵を絞って可能性を考えてみた。
「部屋のどこかに影武者が潜んでいるとか?」
「いるわけないでしょう」
「喉に別人格が棲みついてるとか」
「伝説上の生き物でも聞いたことないよ」
「じゃあ……」
「否もういい、混乱してるのは分かった」
必死に考えたのに詩苑さんに止められた。納得いかない。
「面白かったろう」
縹さんもなぜかしたり顔で自慢してきた。面白いで片付けてしまっていいものだろうか。
「ちょっと理解が追いついていないです」
「だろうな」
頭上の疑問符がしまえないまま一旦、楽譜を見る。うん、確かに歌唱部はト音記号の譜面になっている。
……でも通常テノール譜ってト音記号で書かれるじゃん!その場合はト音記号の下に「8」の字がぶら下がっているけど!でもそんなの普段気にしないじゃん!このト音記号の下に「8」がぶら下がってないなんて!だとしてもあんな声が出ると思わないじゃん!喉から出てきたの確実に女声だったじゃん!
三人が振り返りをしている間、頭を抱えて心の中で思いつく限りの悪態をついてみた。ちょっと衣装を考えるどころの騒ぎではなくなっていた。なんとか思考を動かさねば。
音楽的な話は基本、合唱の知識で書いています(小声)




