12.ときめきはいつも突然に
「萌稀!」
「詩苑さん?どうしたんですか?」
「こっちに怪しい男が…って、ん?」
慌てて話しかけてきたと思ったら、詩苑さんは私の目の前で傾きかけた夕暮れの日差しに照らされた、氷漬けになっている男を見つけ、目を丸くした。
「これは一体…?」
「…どうしたんですかね?私が来たときにはすでにこの状態だったのですが」
「そう?」
訝しげに見られている気がするが知ったことではない。私は今ここに来たところで、男は元からこの状態だった。それ以上もそれ以下もない。目を逸らしながらしらばっくれた。
「すごい見てたけど、攻撃されて怪我とかはしていない?」
「大丈夫です、もう少しズボンの色味を考えた方が全体的に綺麗にまとまると思って、観察してただけなので」
「へえ…?」
まあそうですよね、こんな状況で服装を観察する人なんていないですよね、でもそれは嘘じゃないから。だからそんな目で見ないで。
物言いたげな視線を寄越しつつ、心配をしてくれる詩苑さんになんとか意識を逸らさせようと、質問を返す。
「ところで詩苑さんは何故ここにいらっしゃるのです?」
「いろいろあって”片づけ”をして回ってたんだけど、最後の一匹を取り逃がして追ってたところ」
先ほど校門で別れてからそんなに時間は経っていないはず。それから何があったというのか。
「…大変そうですね?」
この口ぶりからするにその逃した一匹とやらがこの男なのだろう。咄嗟のこととはいえ、ひょっとしたら余計なことをしたのだろうか。
「まあでも片付ける手間が省けて良かったよ。萌稀も無事みたいだし」
そう言った詩苑さんは、氷漬けになった男を見つめて、一瞬思いつめたような表情で殺気を漂わせた。しかしこちらに顔を向けたときには、いつもの笑顔でその殺気を霧散させた。
気づけば男は音もなく消えている。
「ごめん、俺のせいで萌稀を厄介ごとに巻き込んだと思ったんだ。とりあえずさっさと馬車拾おうか。そこまで送る」
大丈夫か訊こうとしたが、いつも通り振る舞う詩苑さんにそれ以上踏み込むことは許されない気がして訊けなかった。訊かれたくないことの一つや二つ、誰にだってあるものでしょう。
*
「……ん」
硬い床の感触にうっすら目を開けると、見慣れた木製の机の脚が眼前に迫っている。あと拳ひとつ分、顔を前に倒すと完全に事故る。そう判断して慎重に身体を起こし、机につかまりながらよろよろと立ち上がる。机の上は大量の緑色が波打っている。
昨日、あの後は何事もなく師匠の店に帰った。それからすぐに師匠に生地を要求し、閉店後の作業場を陣取って、店にあった緑色の布という布を作業台に広げていた。お目当ての生地を師匠から受け取ったのだが、どうにも柄が大きすぎてイメージと違うことに頭を悩ませていた。
二週間でできると言ってしまった手前なんとかしないといけないと思い、詩苑さんの顔を思い浮かべながら布とにらめっこをしていたらいつの間にか、いつも通り寝落ちたらしい。おかしい。立って、若しくは座って考え事をしていたはずなのに何故床に転がっていたのか…いつもながらに不思議でしょうがない。
大事な生地に涎を垂らす真似だけはしなかった自分を内心で褒めつつ、未だにはっきりしない目で窓の外を見遣る。室内には清々しいほどに朝日が差し込んでいて、眩しさに寝起きの目を擦った。朝日は清々しいが私の気分はちっとも清々しくない。
硬い床の上で寝ていたせいで身体の節々が痛い。軽く肩を回して近くの椅子にかけると、近づいてくる足音に気づいた。
「お前また床で寝てただろ」
入口に現れたのは予想通りの人であった。
「おはようございます、ししょう」
寝起きの身体は力が入らず、大変気の抜けた声になってしまった。しかしただひたすらに眠い。あと三時間は眠れる。でもお店が始まる前にここを片付けないと師匠にどやされると思いながらふわふわしていると、入口で腕を組んで仁王立ちした師匠がこう言い放った。
「今日これから仕入れに行くが、三十分以内に朝食の支度ができるなら荷物持ちにでもしてやる」
その瞬間ぱちっと目が覚めて、今にも倒れそうだった身体を嘘のように立ち上がらせた。
「朝食ですね!少々お待ちを!!」
元気よく返事をし、机上の生地を手早く片付け急いで台所に向かう。
なんとこのタイミングで師匠が仕入れに連れて行ってくれるなんて、山よりも高く海よりも深い感謝を捧げるに値する。どの立場で物を言っているのか分からなくなってきたが、そんなことは置いておいて大変喜ばしいのである。
師匠が仕入れを行う問屋街は王都から馬車で北西に二時間程行った街にあり、所謂「一見さんお断り」のお店がほとんどである。師匠に連れて行ってもらわないと、私一人だけでは相手にもしてくれないようなところなのだ。しかしその品ぞろえは流石の問屋街。ありとあらゆる地から集められた、色とりどり素材もとりどりな生地やリボン、装飾品の数々が並んでいて、私にとっては第二の天国といっても過言ではない。もちろん第一の天国は劇場である。
そういうことで寝ぼけている場合ではなくなった私は急いで二人分の朝食の用意を済ませ、ついでに着替えも済ませ、師匠に伴って仕入れの荷物持ちの役目を果たすべく店を出た。今日はなんて清々しくて良い日なんだろう。世界が私を祝福してくれていると思う。
辻馬車で王都を出て問屋街に着くと、師匠は早速馴染みの店へと足を運ぶ。
「いらっしゃい」
声の方を見ると生地の山でいっぱいの棚の奥に、気難しそうな店の主人が座っている。
ぶっきらぼうな店主は最近、私にも会釈を返してくれるようになった。たぶん私を祝福してくれている。
「気になる生地は『相談可』だ」
師匠の言葉に私は目をギラつかせた。『相談可』とは、私が気に入った生地を師匠に推薦して、師匠が納得したら買ってくれるという師弟間の制度である。機嫌がいいと私の私服作成に使わせてくれることもある。とはいえ師匠にももちろん好みはあるのでこれは簡単な話ではない。私にとっての戦いで、何軒か回るうちに一つ通ればいい方だ。
師匠の審美眼や趣味を窺い知れる機会でもあるので、私は楽しんで師匠に勝負を挑んだ。
「師匠!この生地、この生地どうですか!?」
「あ?却下」
「まだ何も言ってないのに!?」
「お前がその色を使うのは早い。他と合わせにくいから別の色にしろ」
「む……やはり難しい色ですよね……」
珍しい色味の生地を提案しようと思ったのに、どう使うか説明する前に却下された。悔しい。しかしこれは単なるジャブである。今日の師匠の機嫌を測っていると思ってくれていい。私は今日達成せねばならない目標を忘れてはいない。因みに今の師匠の反応は悪くない。
ならばと目線をさまよわせると、良い深緑の生地に気づく。これはまさに運命の出会い。やっぱり世界に祝福されている。
ちょうど良い色味、ちょうど良い質感、ちょうど良い柄に釘付けになり、すぐさま師匠の元に駆け寄った。
「よろしくお願いします」
恭しくその生地を差し出すと、師匠は無言で受け取ってくれた。どうやら合格らしい。
私の昨夜から今朝にかけての惨状も知られていることだし、たぶん私がやりたいことは分かってくれているのだろう。
良いものが手に入ると想像もさらに膨らんでくる。帰ったあとの作業工程を思い浮かべながらその後はせっせと荷物持ちに勤しんだ。
生地やレースなどの問屋をいくつか回ると、普段はあまり立ち寄らない店の前で師匠が足を止めた。
「たまには冷やかすか」
そう呟いて中に入る師匠を慌てて追いかけると、そこは装飾の部品や素材を扱う店らしかった。
「こういうのも見ておくといい。使うかは知らないが」
師匠の言葉に頷いて、荷物を抱えながら商品棚を覗き込むと、何に使うかパッと見ではわからないような金属の塊がぎちぎちに詰め込まれている。
隣の棚に目を移すと厳つい意匠のバックルや、繊細な細工の施されたボタンなども置いてある。
今回の衣装には派手すぎて使えなさそうなものばかりだし、少し値が張るものだけど、いずれ詩苑さんの衣装に使えたら面白そうだと、商品を手に取りながら考え事に集中しているとふいに後ろから頭を掴まれた。
「そのだらしない顔どうにかしろ」
頭を固定されて振り向けず、顔を上げると窓ガラスに反射した緩々な表情の自分と目が合った。新しい玩具を与えられた犬のようである。
本当に酷い顔だ、と自分でも思うほどの緩さであった。妄想とは恐ろしいものだ。楽しいことを考えているとついうっかり顔が緩んでしまう。決して外で見せていい顔ではない。
「行くぞ」
師匠も用事を終えたらしくその店を後にした。
「この後、俺はもう一つ寄ってくけど、お前はこれ持って先に帰れ」
「了解です」
一通り問屋街をまわると、師匠はいつも私を先に帰らせ、どこかに一人で行ってしまう。そして特に美しい生地や糸を仕入れてくる。詳細を訊こうにも全く何も教えてくれないので私はいつも一人で歯噛みしていた。
そして今日もまた、私は先に師匠の店に帰される。
「そろそろどこに行っているのかくらい教えてくれてもいいのでは?」
恨めしげに見上げてみる。
「そのうちな」
まったく相手にしてもらえない。そのうちっていつなんですか。ふん。でも今日はそれに甘んじて差し上げます。何故なら帰ったらやることがあるから。手に入れた生地を使って衣装の仕立て直しである。実に楽しみ。完成を想像するだけで顔がニヤける。荷物が重たくてもスキップしちゃうもんねー。世界に祝福された私に恐いものなどない。