9.作品と緊張
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正式に依頼を受けてから一か月、年末に差し掛かりどこかそわそわした雰囲気の中、私は学院に足を運んだのだった。冬らしく重苦しい空模様に寒さが染み入る。
「こんなところに一人で入るなんて……緊張するわ……」
約三か月ぶりに訪れた『王立魔法学術院』は、今日も今日とて荘厳な、果ての見えない壁に囲まれている。すっかり色褪せた森の景色を横目に急勾配の坂をなんとか登り切り、息を切らせながら受付に向かう。前回は師匠の案内についていっただけだったが、今回は私一人。さらに初めての衣装合わせ、初めての他人に着せるための衣装。初めてのことだらけである。
なんとか服の形にしたは良いものの、自信を持って差し出せるかというと微妙な仕上がりで今日を迎えてしまった。繰り返すが私は今、緊張している。
衣装が入った大きな旅行鞄を両手に持ち、寒さか緊張かどちらのせいか分からない震えを覚えつつ、事前に言われた通り受付を済ませた。
守衛さんに指示され受付横の待合室の長椅子に腰を下していると、やがて詩苑さんがやってきた。
「や、久しぶり。よく来たね」
歩きながら片手をあげて微笑む詩苑さんは、襟ぐりの開いたシャツの上から制服らしきジャケットを羽織っていた。先日の私服は上品すぎて神々しかったが、(推定)制服は年相応に見えて多少親近感が湧く。
「お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくていいよ。はい、鞄貸して」
私が挨拶のために立ち上がり、鞄を持ち上げるや否や、詩苑さんは私の手からさっと奪っていった。流れるような動作に抵抗する隙も無い。
「え、いや、そんな」
「俺の衣装でしょ?」
慌てて鞄を取り返そうとする私の手を制止して優しく微笑まれてしまい、それ以上手を出すことはできなかった。美形とは有無を言わせぬ雰囲気を纏うものだ。
「…ありがとうございます」
今日のところはお気遣いに甘んじておこう。そう折り合いをつけつつ、歩き出す詩苑さんにすごすごと付いていく。
「ここから練習室までちょっと歩かせるけどごめんね。この学院、無駄に敷地が広くて」
「いえ、全然。歩くのは好きなので」
綺麗に手入れのされている植木を見ながら、石畳を歩いていく。
「そういえば、萌稀っていくつなの?」
「年が明けたら十六になる歳ですね」
「ああ、同い年なんだ。なら余計に仲良くしよう」
さも名案だといわんばかりに良い笑顔で話しかけられたが、そう簡単に頷けるはずがない。師匠のお友達ということもあるけれど、前回会ったときのことを忘れるはずがない。それは上品な私服をお召しになられていたし、所作だって平民のそれではない。
この国の貴族事情に疎いがために実際の身分のほどは全くわからないが、貴族というだけで本来ならば気軽に話しかけられるものではない。
私が静かに首を横に振ると、詩苑さんは残念そうに顔を顰めた。
「ダメかー。緊張が解れるかと思ったんだけどなー」
同い年だからといって軽々と身分を超えていい世界線に、私たちは生きてはいない。この人は少しその辺を考え直した方が良いと思う。
訝しんで見上げたその人と、うっかり目を合わせてしまった。生憎の曇り空なのに、後光が刺したような輝きを感じて目が潰れそうになる。幻覚でこちらの目を潰しにかかってくるなんて、油断も隙もあったものじゃない。
「緊張は、もう諦めました。全てが初めてのことですので……」
私にも師匠のようにあっけらかんと我が道を行く自信があれば、と栓無いことを考えつつ、潰された目を戻すためにも虚ろな目を地面に彷徨わせる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「いや、その、師匠からどんな話を聞いているかは存じませんが、私の何をそんなに評価していただいているのか改めてよく分からなくなったというか…」
「だってあの達華が認めてるんだよ?そうそう変なものは出てこないって。あ、ある意味変なものになる可能性はあるか」
「変なものにはなってない……と思いますけど」
「そこも自信ないんだ」
私の曖昧な返事に、詩苑さんは首を傾げた。
この間から何度か会って、師匠は変人であるというのが共通見解なんだと思っているのだが、私の評価まで変人になっていそうだと心配にはなる。しかし自分の感覚が他人と比べてどこかずれている自覚もあるので、自信を持って否定はできなかった。複雑な心境。
「変ではないと思いますが…ちゃんと『衣装』になっているのか、そちらの方が自信ないです」
「へえ?まあ本番まで時間あるし、みんなで意見を出しながら全体を固めていくから問題ないよ」
詩苑さんは明るく慰めの言葉をかけてくれるが、実のところ仮縫いした衣装に寸分の自信も持てないでいた。
まだ仮縫いの段階であるのに、今日の評価で今後二度と依頼されないかもしれないという不安が私の胸の中を占める。果たして私の腕を認めてもらえるのか、歩みを進めるごとに身体が重たくなっていく心地がした。
「でも初めてなら無理もないか。俺もこの歌、練習し始めたばっかりだから、そういう意味ではあんまり萌稀に聴かせたくないかも。どうせ縹と山蕗にぼこぼこに指摘されるんだ」
そう言う詩苑さんは、先ほどまでの余裕はどこへやら、眉間に皺を寄せて遠い目をしている。本番では堂々とあんなに素敵な歌声を聴かせてくれたのに、練習では指摘されることがあるんだなと不思議に感じた。
「さて、そろそろ着くよ。今日はうちの学科の練習場を借りているんだ。こっち」
同じような建物がずらっと並んでいるなかで、菱形に音楽記号のような印の表札が下がった棟に入ると、長い廊下に等間隔で扉が並んでいる。
廊下を進むと三つ目の重そうな扉を開けて中に案内された。中は劇場の舞台ほどの広さがあり、手前の壁は一面鏡になっている。
「ただいま、連れてきたよ」
「こんにちは。お邪魔します」
部屋の隅にはアップライトピアノが置いてあり、どうやら山蕗さんが座っているようだ。
「おう、来たな」
「待ってました、いらっしゃい」
楽譜に何か書き込んでいた縹さんと、ひょっこりとピアノの影から顔を出した山蕗さんとそれぞれ挨拶を交わすと、いよいよだと一層緊張が増して顔が強張った。
「詩苑、お前なんか言ったの?」
「いや緊張を解そうとは試みたけど」
「それ逆効果だったんじゃ?」
私の緊張が二人にも伝わってしまったらしい。呆れ顔の縹さんと、笑いが堪えきれていない山蕗さんは揃って詩苑さんを見遣った。
「ま、緊張してても仕方ないし、始めよう」
「そうしよう。萌稀、衣装出してもいい?」
いつもの三倍くらい早く動いているだろう心臓を抑えつつ、震える手で慌てて衣装を渡すと、詩苑さんは部屋の奥に設置されたカーテンの向こうへ消えていった。
祈るような気持ちでその姿を見送った私の表情がどのくらい険しかったか、詩苑さんだけが知らないのだった。
「面白く……ない……」
私は絶望した。私の不安の原因がはっきりとしてしまった。
衣装に着替えた詩苑さんは、山蕗さんの伴奏に合わせて大まかな動きを確認しつつ通しで歌って見せてくれたわけだが。
なんとか徹夜して形にした衣装で歌う詩苑さんはいつも通り美しい。だけれども、衣装がどうにも面白くないのである。