校長先生とフンコロガシ
学校、黒い厳しい蘭服に身を包んだ子供たちはノロノロとした足取りで校庭に現れ、ぐにゃぐにゃと毛虫のように曲がりながらもどうにか列のようなものを形づくった。
彼らの前で校庭の最前の銀色の足場の上に一人の年老いた男が上がった。
男の眼前には子供たちの顔が並んでいた。下を向いている者がいた。近くの女子生徒をジロジロ眺める男子生徒がいた。隣同士で手で合図を送り合って遊ぶ生徒がいた。それでもこちらを見上げるたくさんの目があった。だがその目の奥には何も見えなかった。
覇気の抜けたぼんやりとした声が辺りに響いた。老いた男はそれを自分の声だと思わなかったがそれは紛れもなく彼の声だった。
「ええ、今日はですね、努力の大切さについて話そうと思います。皆さんは、フンコロガシという生き物を知っていますか。私は先日この生き物を見かけました。アスファルトの地面の上をね、茶色いものが動いてね。なんだって思ったんですが、よく見たら虫がひっついていたんですね。で、眺めていると、フンコロガシはゆっくりゆっくり糞の塊を動かしていくわけですな。本当に大きい糞の塊でした。面白くてみていたんですが、ずいぶん非力な奴なのか、フンを転がすのはあんまりうまくないやつでね、2,3分ほどみていたけど私の歩幅一歩分くらいも進んでいなかった。それでも彼は何度もひっくり返りながらも手足を忙しなく動かして果敢に糞の塊に挑みかかってね。」
「......『塵も積もれば山となる』、誰でも知ってることわざですね。しかし、今日は皆さんに今一度......」
時につっかえ、時に抑揚をつけ雄弁さや親しみを与える素振りを見せながら話し続けた。
そのまったく同じ挨拶をもう彼は3週間、3回の朝礼で繰り返していた。一字一句同じでどこがつっかえていたかさえ全く変わっていなかった。ただ彼はテープレコーダのように装いの雄弁さと親しみの仕草を繰り返した。「茶色いものが動いてね」という言葉のあと彼はわざとらしく大きな咳払いを立てたが、その咳払いも3週間前からの3回とまったく同じものだった。
朝礼の挨拶 No.72 「フンコロガシから学ぶ努力の意義」、彼のノートに5年前に書き留めた言葉。彼はそれを反復し、再生するスピーカーとしてそこに立っていた。
男が校長になって10年が経つ。10年前に校長になるとき、彼は「校長」になることに恥ずかしさを感じたが、自分はあの蔑まれ矮小化された愚かで偽善的な校長ではない校長になろうと思った。責任ある職務はそれなりに心地よく、充実したものだった。学校に蔓延るいくつかの古臭い因習を彼は廃止した。時代は大きく進んでいて、取り組むべきことは山ほどあった。何よりも彼にとって大事だと思われたのはしかし、毎週の朝の挨拶だった。
一般に生徒たちがこの校長という立場からのおしゃべりを嫌悪していて、しかし同時にそれが自分への彼らの評価の全てを決定すると知っていたからだ。
最初の一回はみじめに終わった。喋っていて自分自身の喋りのつまらなさ、凡庸さを痛感したし、生徒たちの目にもそう見られていることを感じた。挨拶が終わると生徒たちの拍手が響いたがその強制された拍手はなぐさめにはならなかった。
それから彼は話題を見つけるために常に身近な出来事に目を凝らした。生徒たちの人生に何が必要か、考えた。
だが、生徒たちの聞く姿勢は何か変わっただろうか、わからなかった。何も変わらないように見えた。同じ表情だった。
非常にうまく、ためになる話を用意できたと思った日もあった。しかし聞いている彼らの表情は何も変わらなく見えた。
徹底的に自己批判をして、自分の中にある生徒たちを見下す意識を排除し、対等な話し方を意識した。しかし聞いている彼らの表情は何も変わらなく見えた。
子供の目線になろうと、子供たちに人気なYoutuberの話しぶりを分析し、それを真似ようと試みたこともあった。しかし聞いている彼らの表情は何も変わらなく見えた。
話している途中に話の論理に致命的な間違いがあることに気がついた日があった。
しかし聞いている彼らの表情は何も変わらなく見えた。
取り違えて卑俗な単語を使ってしまった日があった。
しかし聞いている彼らの表情は何も変わらなく見えた。
男はそのうちさして自分の話がどう聞かれているかを気にしなくなった。
話題や言葉の吟味を忘れた。生徒の考えなど気にしなくなった。
聞いている彼らの表情は何も変わらなく見えた。
そして男はもはや何の労も払わず同じ話しを繰り返したところで何らの問題は発生せず、何も変わらないであろうことに気がついた。
男は2週間、3週間、続けて同じフンコロガシの話をした。
何も起きなかった。何も変わらなかった。
夜更けの街をフンコロガシはフンを転がして歩いていた。
逆立ちをして、足を大きな糞の玉の上に乗せて、機械的な手足の運動を続けていた。
その目は夜空の星に向けられて、転がしている間中、虫の視界はずっと暗幕の上にばら撒かれた光の模様を眺めていた。それが虫にとって暗闇の中で真っ直ぐに進むためのしるべだった。
次の週も朝、生徒たちは地面から先週と全く同じ言葉を話す台の上の男の相貌を眺めていた。
繰り返される言葉をおかしいとは思ったが誰も何も言わなかった。
男は話をしながら来年度のカリキュラムの大きな変更とその意義について考えをめぐらせていた。生徒たちはその変更のためにより多くの重要なことを学び、彼らの偉大な将来、幸福な未来といったものがその変更によってより確かなものになるはずだった。しかし生徒たちを見るうち吐き気がこみあげ、男は不意に話をやめ(ちょうど「茶色いものが動いてね」というくだりのところだった)、台の上から吐瀉をした。
生徒たちは男が口からそれを吐き、台から崩れそうになるのを見た。列の最前にいた生徒たちの何人かが列から離れ、男に駆け寄りに行った。