大天使 【人生初小説(・∀・)ヨロシコ】
気持ちは分かる。だが神を赦してあげて欲しい。
我々が(特に神が)諸君らの存在や主張を無視しているという風評が広がっているようだが、当然そのような事は無い。諸君らの不平不満の大部分は我々も関知しているところである。諸君らはこのように思っている。
『何故神は我々を、世界をこのように創ったのか?』
『そして何故、世界をこのようなままにしておくのだろう?』
と。主のお考えの全てを私が理解しているとは言い難いが、この私、大天使・聖ガブリエル が、この機会を借りて主の御心を代弁させていただこうと思う。
まず、疑いようも無く、主は善良だ。そして偉大である。ここに関して、私は一切の疑問を差し挟む余地は無い。諸君らもご存知であろう。神はまず天と地を創造された。天には偉大なる太陽と、満天の星空。地には草花と雄大な山々、そして広大な海だ。これらの景色を目の前にして『美しい』と感じない者はおるまい。この一事をもってしても、神の偉大さと善良さの証明と言える。そのような者でなければ、諸君らが住む世界…そして我々天使達が住む、この天界もまた存在し得ない事は言うまでも無い。諸君らが生きている間は、少なくともこの天界の光景を見る事は出来ないであろうが、諸君らの使命が完遂し、そしていずれここを訪れた時は、紛れもなくこのように思う事は想像に難くない『あぁ…これこそまさに、神の業というものだ!』と。
そして主が、その他の多くの生物…海の魚と空の鳥、地の獣、そして諸君らを天と地の間に創造された事は、諸君らも知っての通りの事だ。主はそれらを見て、良しとされた。
天使創造!
我々はその光景を見ていた。光が世界に満ち、光と夜が別れ、それは昼と夜になったのを見た。水と水が別れ、空と海になるのを見た。その後に地が現れたのを見た。地が草花や果樹に満ちるのを見た。そして空に鳥が、海に魚が、地には獣が満ちるのを見た。そしてそれらの多様さを見た。そして最後に、主は自分の姿に似せて、諸君らを創った。それを我々は見ていたのだ。その時の光景は今でも我々の目に焼き付いている。諸君らにも想像くらいは可能だろうか?かつて諸君らの中にモーツァルトという音楽の天才がいた事を思い出して欲しい。我々天使の間にも、その噂は届いてきていた。諸君らの大半がそうであるように、主もまた音楽を愛される。もちろん言うまでもなく、音楽もまた、神の被造物である訳であるが。
モーツァルトという男が記した楽譜には、一切の書き直しが無かったという逸話がある。モーツァルトの音楽は、彼の頭の中で既に完成しており、彼はそれを楽譜に起こしただけである、と。そしてそれは神の御業の顕現に他ならない、と。諸君らの中の幾人かは、今日でもこの話しを信じている。モーツァルトは本当に書き直しをしなかったのか?それともそのように話が誇張されて伝わっているだけか?この点に関して、私は口を挟むつもりは無い。そしてモーツァルトの音楽に、本当に神の力が宿っているのか?我々天使が、人間であるモーツァルトの音楽をどのように評価しているのかというのも、ここでは語る必要はあるまい。諸君らは諸君らが思うように世界を見、世界を感じるべきなのだ。ここで重要視したいのは、モーツァルトのその逸話、『彼の楽譜には一切の書き直しが存在しなかった』という逸話なのだ。モーツァルトは諸君らにとって偉大であろう。しかし主は
【世界を一切の創り直しをせずに創造したのである】
これが神の業なのだ諸君。諸君の中に、モーツァルトのように優れた音楽家はいるであろう。優れた画家もいる。優れた彫刻家もいる。優れた建築士も存在する。それは間違いの無い事だ。激しい研鑽を積んだ人間達の到達した技能、その境地に対して、私は最大限の敬意を払う。これは嘘では無い。しかし…神の御業を前にすれば、申し訳無いが、諸君達のそれらの偉業も、そして我々天使のあらゆる仕事もまた霞んでしまうものだ。天地創造の光景を見て、畏敬の念、或いは畏怖の念を抱かぬ事は、どのような者にも不可能であっただろう。あまりにも圧倒的な力を目の前にした時、その時の反応というものは、人間も(言いたくは無いが)我々天使も大差は無い。それは歓喜であり、栄光であり、正直に言うが、恐怖でもあった。そしてそれは私以外の天使も同様であっただろう。私の隣でその光景を見ていたラファエルに至っては、天に響かんばかりに激しい嗚咽を漏らしていた。ラファエルのその恐るべき嗚咽は何日も続いたのだ。(そして後に、ラファエルは誰よりも神に忠実な天使となった)あの時の事をミカエル等と共にからかったりする事もあったが、正直、私はあの時のラファエルの気持ちが良く分かる!私の場合は、単に『涙すら出なかった』というだけの事に過ぎない。全身が震え、意味不明な感情が脳内を駆け巡り、卒倒しないようにしているだけで精一杯であった。そして同時に、我々が誰に仕えるべきなのかを、我々は完全に、一片の疑いもなく理解したのだ。
分かるだろうか?モーツァルトの音楽がモーツァルトの頭の中に既にあったように、神の頭の中に、既にこの世界が存在していたのだ!
諸君らの動向に関しては、我々もそれなりに認知している。そもそも、諸君らの事を監視する事が、我々が神から与えられた大事な職務の一つでもある。音楽、数学、物理学、神学。そういったあらゆる分野で、神の偉業について、少しでも知ろうとする試みは、私も陰ながら応援している。一方天使の中には、そういった行為、神の御業に対する探求を『冒涜だ』などと言う者も存在するのではあるが、そういった試みを通じて、主の偉大さを少しでも知る事は、私は決して悪い事だとは思わないし、無駄な努力だとも思わない。諸君らのように神との謁見はおろか、その存在を近くに感じる事も出来ない者達が、神の栄光に縋ろうとするのも、無理からぬ事ではないか。そして諸君らのその研鑽、努力の向こう側に、必ず【神の威光】は存在するのだ。世界の途方も無いほどの壮大さ、奥深さ、そして繊細さ。その全てに神は威光は存在し、宿っている。宇宙は神の書、神の意志、神の言葉である。
諸君らの目にするもの全て!
諸君らの耳にするもの全て!
諸君らの感じるもの全て!
その全てが、あの日、あの時、主の頭の中に在ったのだ!
そして主は世界を創られた!
瞬く間に!一瞬にして!
神の善性についてはこれ以上の説明は不要となろう。諸君らの中にはこのように考える者も存在するだろう。『神が世界を一撃で創ったなどとどうして言えるのか?何度も創り直している可能性をどうして無視するのか?世界も、天使も、人間も』と。その疑問に対する、諸君らが納得するであろう答えを、私は用意してはいない。しかし、私には確信をもって言えるのだ。諸君らが誕生するその瞬間から、或いは他の天使たちが生まれる瞬間から見続けている私には断言出来る。私の実感などなんら信用に値しないと言う者もいるだろうから、このような例えを示させてもらおう。何故【愛】が存在すると言えるのか?諸君らの多くは特に疑問を差し挟む事も無く断言するだろう。『愛は存在する』と。しかし、未だかつて、諸君らの誰が、『愛の存在』を証明出来たであろうか?しかし諸君らはそこに疑問を差し挟みはしないだろう。
そしてそれは私もである!
愛の存在を証明する事は出来ない。しかし、愛は在るであろう。そもそも、こうも考えられるのではなかろうか?『我々は愛の存在を証明すべきだろうか?』『証明された愛は、真の愛と呼べるだろうか?』そもそも愛とは何であろう?与える事、奪う事、そして信じる事、そこに愛があると信じ続ける事も愛の一つなのでは無いのか?そして神の愛もまた、疑いようもなく存在するのだ。再びこのような言葉を使う事を許して欲しいのだが、我々は(私とミカエルとラファエルは)それらを神の傍らで見続けてきたのだ。そして我々三人は確信しているのだ。【愛はここにある】と。これ以上の説得は不可能であろう。だがそのような疑問を持つ諸君らは、今一度世界に目を見やって欲しい。ほんの一瞬でも構わない、神の創りし世界に目を向けて欲しい。そこに神の愛は宿っているはずだから。そしてその愛情こそが、私が、この天界が、諸君らの世界が、決して何度も創り直されたものでは無いのだと信じる、最も大きな要因となっているのである。5人目の息子を、8人目の孫を愛せないなどと言うつもりは無い。誕生の喜びはいつでも素晴らしいものである。しかし、一人目の子供や、一人目の孫を持った時の喜びは、やはり格別であるという事に疑いようは無い。主は溺愛していた。まるで初めての息子を得た父親と母親のように、初めての孫を持った祖父と祖母のように、主はこの世界を愛したのだ。あの歓喜、あの笑み、全てが満ち足りたような表情で、主は諸君らの世界を、そして諸君を!睥睨していたのだ。このような言葉を主に対して使うべきでは無いのかもしれないが、主のあの表情は、まこと微笑ましいものであった。主の御力に一瞬でも疑問を抱いた時、諸君らはこの事を心に留めておいて欲しい。
2
諸君らに最も馴染みの深い神の言葉というものは、その殆どが『聖書』と呼ばれる書物に由来するものであろう。この書物に関してとやかく言うつもりは無いが、諸君らの一部が主張するように、この本に載っている物語の中には改変、或いは誇張をされている部分も多い。その全てを鵜呑みにすべきだとは、私には言えないが、とはいえ神の御心を理解したい、という気持ちは尊重したいとは思う。しかし、神の御心は我々大天使にとっても計り知れない。それは目を眩まさんばかりの光であり、そして漆黒の闇のようでもある。主に対して我々に唯一理解出来る事は、我々には決して、主の御心を理解する事は出来ないという事だけだ。そして、理解したいとも私は正直思わない。あれほどの力…あれほどの高みに存在するお方の悩み…それを想像するだけで、私は恐怖に打ち震える。そして仮に、仮に私にそれを理解出来たところで、私はあの御方をお慰めする事など出来はしないのだ。神と同格の存在…かつてそのような存在になろうとした、愚かな天使がいた事は、諸君らもご存知であろう。
あのクソ忌々しきルシフェルの裏切り…
あの二の舞だけは、決して繰り返してはならぬのである。そう…諸君らと話をする時、ルシフェルについて語らずにおくことは出来ない。あのような者を【暁の明星】等と呼んでいた事、あのような者と共に働く事に喜びを感じていた事は、私にとって、まさしく一生の不覚と、生涯の恥と言うべきものである。あの者が裏切った時、あの時の主の怒りようは凄まじかった。主はその怒りを顔には出さぬようにしていたようであったが、その心の内に憤怒が渦巻いている事は、誰がどう見ても明らかであった。私はあらゆる事を覚悟したのであった。世界を一瞬で創られた主がその気になれば、世界を一瞬で消す事もまた可能なはずである。神の手がほんの一薙ぎする間に、世界は跡形もなく消え去るに違いない。ラファエルはその献身性をもって精一杯に神をお慰めした。そしてミカエルは、その勇猛さで、ルシフェルの首を取ってくると神に誓った。そして私は…私は主の言葉を待った。次に神が発するのは、怒りの言葉、哀しみの言葉、或いは滅びの言葉かもしれない。そう思いながら、私は主の次なる言葉を、ただひたすら待つ事にしたのだ。それが私にとって献身と呼ぶべきものだと思った。しかし、主は何も語られなかった。そして喜ぶべきか悲しむべきかは分からないが、主の中に燃え滾っていた憤怒は、どうやら少しずつ消えていったようであった。しかしその憤怒は、消えると同時に、主の中から何かを持ち去っていってしまったように思えた。
諸君らの中に…取り分け信心深い者の中にこのような者が多く含まれる事に関して、まこと皮肉であると感じざるを得ないのだが、即ち『神は全知全能であり、唯一絶対的な存在である』という考え方だ。もちろん、この考え方は、一部正しいものではある。しかしこの盲目的追従、盲目的信仰は、物事を見る上で最も大事な部分を欠いていると言わざるを得ない。主と世界の関係は、象と卵の関係だと考えればわかり易いものかもしれない。(そしてこれもまた、全くもって、物事を過小に評価している例えではある)神の力は、まさに【無限】なのである。諸君らの世界にも、無限と思われるモノは数多く存在するであろう。音、色、数、そして諸君らを形成している細胞とて、無限と言って差し支えない数が存在しており、そしてまた、その細胞ですら、更に小さなモノへと還元する事が可能なのだ。神は【無限】を司っている。そして諸君らは、その神の【無限】という恩寵を借りて、この世に何かを形作る。音楽という形で、絵画という形で、数式と言う形で、世界に形を残し、それを芸術と呼称し、愛でる。それは大いに結構な事である。そして逆に言えば、それはモーツァルトの例で説明したように、神の【天地創造】という大偉業の模倣に過ぎないとも言う事が出来る。諸君らの世界に存在する芸術家の最も偉大な部分が【無限の中から最良な部分を描き出す】という事であるように、神の偉業の最も恐るべき部分もまた、そこに集約されるのだ。主はありとあらゆる無限のうちに、現在の諸君らが存在するその世界を形作ったのである。この事がいったい何を証明しているのかという事を、諸君らはもう一度考え直さねばならない。無限の力を持つ事が重要なのではない。
無限の力を何に使うのかが、最も重要なのだ!
あらゆる色の絵の具を持っている事にどれほどの価値があるだろうか?無価値だとは言わない。しかし、その無限の色の絵の具を持っている者が描き出す絵に、何の感銘も受けないものであれば、それは宝の持ち腐れと言う他あるまい。『神の偉大なる御力』『神の偉大なる御業』そのような言葉を繰り返す者の多くが、まるで神がより多くの絵の具や、より多くの楽器を所持しているという事を褒めているだけのように感じられる。この事は私にとって実に残念であると言わざるを得ない。騎士道と言った言葉が諸君らの世界にもかつてはあったはずだが、それの思想はまさしく正しいものであったと私は考える。力がある者が素晴らしいのでは無い。もちろん力があるという事、それ事態は評価されるべきものなのではあるが、力を持った者が、その力を使い、何をするのかという事が真に重要なのである。その力を振るい、弱き者から何かを収奪する事、それは決して正しい行いでは無いという事は、言われるまでも無い事であろう。仮に敗れようと、命を落とそうとも、弱き者を守る。それこそが正しき行いというものであろう。そして今一度諸君に問おう。神は何をした?神は何を創造したのだ?無限の世界から何を創った?それは天界に住まう我々よりも、諸君の方がご存知の事であろう。諸君らはそこに存在しているのであるから。
そして諸君らはさらに、主に対して誤解をしているところがあるように思われる。いや、これは誤解と言うよりも、ハッキリと諸君らの見識不足と私は断言してしまおうと思う。
曰く『何故神は悪を創り賜ったのか?』その疑問は、私から言わせてもらうならば『真っ白なカンバスが目の前にあるならば、それを全て塗り潰せ』と言っているようなものだ。諸君らはただ真っ白な絵や、ただ真っ黒な絵をこそ愛するのだろうか?そのような事はあるまい。仮に諸君らをたった今から善良な存在に創り変えるとしよう。そのような事は、主からすれば至極容易な事だ。瞬く間にそれをやってのけるであろう。しかし、そのような存在が行う善行に、いったいどのような価値があると思う?目の見えぬ者が美醜にとらわれない事が美徳だろうか?口のきけぬ者の寡黙さを諸君らは尊ぶか?彼等はそのように生まれついたに過ぎない。そのような存在であるという事に過ぎぬのだ。世界を善で塗り潰したとして、そこにどのような喜びがあるだろうか?どのような美がある?そのような世界が、いったい何だというのだろうか?本当に諸君は、そのような世界を…『全てが善で覆い尽くされているような世界』を希求しているのか?この問いの答えは、もう諸君らの中に存在するだろう。諸君らの歴史の中で、数多く現れた独裁者。彼等は諸君らにとって、いったいどのような存在だったであろうか?彼等の事を、諸君らはどのように思っているのか?あの最悪の裏切り者であるルシフェル(この名を出す度に私は耐え難き苦痛を覚えるのである…)がほざくように、主を独裁者と断するべきであろうか?断じて否である。主は独裁者などでは無い。諸君らは今一度原点に立ち返るべきだ。『何故我々には自由意志が宿っているのであろう?』その答えはあまりにも簡単かつ明瞭なものだ。主は諸君達を創造なさる時『自らの似姿を』諸君らに与えられた。この一節は諸君らの多くも知っている事であろう。しかし、神の似姿…その意味するところに、諸君らは思いを巡らせなければならない。諸君らは神と似ている、という事は、神も諸君らと似ているのだ。諸君らはそのように創られたのだ。
何故諸君らの自由意志を主は愛されるのか?強制ではなく、自らの意志によって善を成す事を喜ばれるのか?それは、主ご自身が、自らの自由意志をこそ、美徳として捉えているからに他ならない。全知全能の神。完全無欠の神。何故諸君らは、一足飛びにそのように主の事を捉えたがるのか?主の事を縛りたがるのか?何故主には自由意志が存在しないかのように考えるのであろう?『世界を善で塗り潰せ!』などと。諸君らは主の似姿を与えられているというのに…或いはそれは、諸君らが自らの自由意志を誇れていないからなのであろうか?諸君らの原罪…エデンの園からの追放。主に対する裏切り。その通りだ。それは確かに、諸君らの自由意志によって行われた事であった。諸君らに自由意志が存在しなければ、そのような事は起こらなかったであろう。もしあれが起こらなければ、今でも諸君らは、エデンの園の囲いの中で、主の寵愛を受け、命のなんたるかを知る事も無かったであろう。何故主は、絶対に食べてはならぬと言われる知恵の木の実をつける木を、わざわざエデンの園に植えられたのか?何故そのような意地の悪い事を?と、諸君らは思っているのであろう。しかし、その答えは既に私が述べた通りだ。決して罪を犯さないように創られた存在が、その罪を決して犯さない事に、いったい何の意味を見出せば良いのであろうか?
諸君らは…最初の人間であるアダムとイヴは、確かに原罪を犯してしまった。もちろんあの一件の影にルシフェルの存在があった事を、私は…そして主は忘れてはいない。主はアダムとイヴにこのように言われていたはずであった。『知恵の実をもし食べれば、その日のうちに死ぬ』と。私は確かに主のその言葉を聞いていたのだ。しかしアダムもイヴもその日のうちに死ぬ事は無かった。そもそもアダムもイヴも、知恵の実を食べるまで『命』の意味すらも知らなかったのである。知恵の実を食べたその瞬間にこそ、彼等は死の意味と、自らの内に死が宿った事を知った。ルシフェルは罪の親であり、死の祖父なのである。諸君らは奴にまんまと取り込まれてしまった。私はこう思ったよ『終わった…』とね。いや、正直に言おう。私は『終わらせてやろう』と思ったのだ。それは明確な裏切りだったのだ。アダムとイヴはそれを犯した。たった一つ『知恵の実を食してはならない』というたったこれだけの事を、何故守る事が出来なかったのか?それは我々にとって許し難い事であった。とりわけミカエルの怒りは凄まじかった。ルシフェルは奈落に落ちた。その奈落を、我々は地獄と呼ぶ。しかし、あんなものが地獄であるものか。あの時のミカエルの怒りこそが、まさしく地獄であったと私は断言する。ミカエルの憤怒の中に、私は地獄を見たのだ。
しかし、諸君らは死ぬ事は無かった。確かに主は諸君らをエデンの園から追放した。しかしアダムは930年生きた。この一事をもって、諸君らの多くはこのように解釈している。『知恵の実を食べればその日のうちに死ぬ、という言葉は、その日、死が諸君らの中に生まれてしまったという事の暗喩であるのだろう』と。この解釈は、或いは正しいのかもしれない。ここに関して、私は断言する事は出来ない。何故ならそれは主の御心の中での出来事であったからだ。主は何をお考えになったのだろう?諸君らに対してお怒りになられた。これは間違いの無いところであろうが、同時に憐れんでもいたのではなかろうか?ルシフェルの甘言に乗せられた諸君を。
私はあの時、主が私に一声かけられれば、ミカエルと共に、諸君らを永久に滅する事に、一切の躊躇をしなかったであろう。私とミカエルは主の言葉を持った。主の決断を待った。しかし、主が、私とミカエルが望むような言葉を発する事は無かった。何故であろう?やはりそれは、慈悲だったのではなかろうか?結局のところ、主は諸君らを赦したのだ。それは主の自由意志であったのではなかろうか?ご自分の前言を敢えて撤回し、諸君らを追放するのみに留められたのだ。私の記憶では、このような前例は殆ど記憶に無い。主は裁かねばならないと断じれば、躊躇なく裁く。それは疑いようの無い事だ(ソドムやゴモラの例を出すまでも無く!)。この時の事を思いだし、主の胸中を慮ると、私は正直、胸が苦しくなる。そして同時に、自分の上におわす、偉大なる存在に対して、心から誇りを感じるのだ。もちろん、主の大いなる創造の力、激烈なる裁きに対して、私は畏敬の念を感じる。これぞまさしく神の業であると。しかし、重ねて言うが、主はそのような絶対的な力をその自らの内にお持ちになられている。この事を我々は決して忘れてはならないのだ。想像もつくまいが、少し考えて貰いたい。諸君の中に、主の力の、その半分の半分の半分の力でも備わっていたとしたら、諸君はその力をどのように使おうと考えるだろうか?裏切られたと感じた時、失敗したのかもしれないと感じた時、どのような行動に出る事になる?恐らくろくな事を考えないであろう。公平を期すために言わせてもらうが、私とてそれは同じ事だ。諸君と何ら変わりなく、私もろくな事は考えない。そして我々がそれを思いとどまるのは、我々に良心と呼ばれるものが辛うじて存在しているからであると同時に、我々には自分自身の中に芽生えた愚劣な妄想、夢想を実現させる力に決定的に欠けているという現実に依るところが多い。無力であるという事が我々を助ける楯となる事もあるのだ。しかし、主にそのような安全弁は無い。主は無力では無い。主は自らの力の全てを、その自由意志によって制御せねばならない。その事がどれほど困難であるか、諸君らに分かるだろうか?分かるまい。もちろん私にも分からない。あらゆるものを一瞬にして創造せしめる業と、あらゆるものを一瞬にして破壊せしめる力。その狭間に、主はただ一人存在している。そしてその全ては我々のための忍耐なのである!我々のためなのだ!我々の世界のためなのだよ諸君!全てを自らの意のままにする事が出来る力を、主は必死に自らの内に抑え込もうとしている。少なくとも、天地創造に匹敵するような力を、主はあの日あの瞬間から一度も使ってはおられない。それはいったい、どのような気分なのだろうか?諸君らも想像してもらいたい。そして銘記せよ。主は世界を『そのようにお創りになられた』のだ。これこそが、主の、あの御方の、【我々に対する】献身なのである!
3
この我々にとって、胸にほろ苦い痛みをもたらす事実(事実だ!)を認めたがらない天使が、今をもってなお多く存在するのではあるが、諸君らは我々天使よりも神の寵愛を受けた存在なのである。そしてそれは恐らく、今をもってなお変わる事は無いだろう。この問題は極めて厄介な問題を孕んでいるものではあるのだが、そもそも主は、我々天使を『愛するためには』創られていないと思われる。天使、などという言葉を聞くと、諸君らは我々を非常に神々しい、特別な存在であると感じるであろう事は想像に難くない。ある意味では、我々はその通りだ。人間と比べて、我々の何が劣っているのかと聞かれた場合、諸君らにおいてさえ、我々天使より優れている部分を、自らの内側に見つける事は難しいであろう。しかし、それはある種、諸君らの我々に対する過小評価であり、我々の驕りと言っても他ならない。我々は神に仕えるために創られた。我々は神の仰られた事を、その通りに遂行するためだけに存在しているのだ。それが我々天使という存在なのだ。この事は(『明日の子、明星よ、いかにして天より堕ちしや… 』等と私は嘆くつもりは無いが)かのルシフェルが指摘した通りなのである。我々は進んで、神に仕え、神の奴隷として存在する事を厭わぬ存在なのである。この事実が、あの忌まわしきルシフェルの叛乱を引き起こす結果になった訳であるが、つまるところ、私が言いたいのはこの一事…【諸君らは主に愛されるために創られたのだ】という事だ。この事が我々天使にとってどのように感じられるか、諸君らには想像もつくまい。我々は諸君らよりも優れている、諸君よりも強く、諸君よりも賢い存在なのだ。そしてこれは言うべきでは無いのかもしれないが…我々は諸君らと違って『一度たりとも主を裏切ってなどいない!』にも関わらず、諸君らこそを主は愛しておられる。主のお考えは謎だ。それを類推する事などは、本来不敬であると言ってもいいだろう。しかし、我々はどう考えればいいのだろう?或いは諸君らの存在こそが、我々に対する試練か何かなのかもしれない。諸君らが、ただ一つ(たった一つだ!)主に銘じられた約束【知恵の木の実だけは、決して食してはならない】というあの約束の如く、諸君らは我々天使に与えられた試練なのであろうか?かつて、諸君らがまだエデンの園にて人生を謳歌していた頃、私は何をしていたのかを、諸君らはご存知であろうか?私は、諸君らを守っていたのだ!諸君らのために存在していたのだ!このガブリエルは、諸君らに仕えていたのだよ!結局、諸君らの祖先たるアダムとイヴは、ルシフェルの策略によって知恵の木の実を食するに至ってしまった。諸君らからすれば、それは私(と、私と共にいたウリエル)の落ち度であると言う者もいるだろう。言わば言え。否定する事は出来ない。私とウリエルはルシフェルの力をあまりにも過小評価し、そして諸君らの存在を過大評価してしまったのだ。その事は私の生涯において最大の失態だったと言わざるを得ない。その通りだ。ここで改めて、私は諸君らに対して謝罪させてもらおう。申し訳無かった。諸君らの罪は、私の罪でもあるのかもしれない。しかし、結局のところ、諸君らは食べてしまったのだ。ルシフェルに無理矢理に食べさせられた訳でも無く、自分の欲望を、『知恵を得たい』という欲求を抑えきれず、主と交わした、たった一つの約束を破ったのだ。どうしてそのような事が出来たのだ?!などと、諸君らを責める事はすまい。諸君らが主を裏切ったように、我々天使の中からも裏切り者は出てしまった。その数はかつての天使の総数の、その三分の一であった!恐るべき数字と言わざるを得ないが、我々にとって幸いであったのは、やはりミカエルの存在であった。まぁこの話はいい。
天使の総数の三分の一。この数を補填するために、主は人間を創造されたとルシフェルは考えていたようだが、私の考えでは、そのような事は事実ではあり得ない。先に述べたように、諸君らと我々では、完全に役割が違っているのだ。我々は主の忠実な下僕(ルシフェルが言うには【奴隷】)であり、諸君らは主の愛玩物と言える。下僕と愛玩物、どちらが良いかはさておき、確実に言える事は、諸君らに我々と同じ真似は出来ず、我々も諸君らと同じ真似は出来ないという事だ。諸君らがまるで天使のように振る舞っても一切の役には立たない。同時に、我々がどのように主に愛されようとしても、全くもって無駄に終わる事になる。すなわち、諸君らが叛乱を起こした天使達の代わりであるなどというルシフェルの主張は、甚だ的外れと断じて構わない。ただ一つ、その主張の中に真実があるとすれば、【主は求めた】という部分であろう。主は諸君らの内に、何かを求めたのだ。諸君らは今一度主の内面に思いを馳せなければならない。主は完全無欠か?然り。主は全知全能か?然り。しかし、その主とて、悩み、そして傷つきもするのである。諸君らの頭の中にある、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目のない神の姿。それは私にとって、神への最大級の侮辱なのである。自らの創りし天使達、その三分の一が叛意を示した時、主が何も感じなかった訳が無いではないか。にも関わらず、諸君らは、諸君らの祖先は、再び主を裏切った!そしてそれでも、主は諸君らを愛している。これがどれだけ偉大な事であるのか、諸君らは今一度、その胸に刻み込まねばならない。たったこれだけの事を諸君らに要求する事を、強要であるなどとは私は決して思わない。これは義務である。神聖なる義務である。
4
ここからは完全に私の創作となる。そしてある者にとっては余談と言えるものとなるであろう。よって読み飛ばしてもらっても構わないが、ここで私が話そうと思っているのは即ち、主の遠大なる構想についての話だ。主の御心など、我々如きに推し量ることは出来ない。それは間違いの無いことである。主を畏るるは此れ智慧なり!恐らく主の御心を完全に理解する事が出来たとすれば、我々の精神は破壊されてしまうのではなかろうか?いわんや人間おや!と言ったところであるが、一方で主の御心を推し量り、それに適うよう努力するのも下僕たる存在の仕事の一つであると考えられなくも無い。よって私などがそのように考えるのは甚だ畏れ多い事ではあるが、私とて、主の御心に思いを馳せる事も時にはあるものなのだ。天使には天使の神学というものがある、と解釈してもらっても構わない。諸君らには聖書こそがそうであるように、我々にとっては宇宙こそが神の書、神の意志、神の言葉である。
主の一人子、救済者、子たる神、復活せし者、罪贖いし者、我等がイエス・キリストは父と子と精霊によりて、神と同列の存在と相成った事は、諸君らの知る通りである。しかしこの父と子と精霊の三位一体は、罪と死とサタン(ルシフェル)の三位一体と呼応していると考えられる。そしてルシフェルの叛乱は、一人子・イエスの誕生よりも以前の事である。主はルシフェルを最も位の高い天使とは定めなかったが、奴は『暁の明星』などと言われ、(少なくとも私、ガブリエルよりは)主の寵愛を受ける存在であった。諸君らの中にはルシフェルはその高位さ故、誇り高さ故に主に叛意を翻したと言う者がいるが、私に言わせればそれは取るに足らない言い訳である。諸君らの先祖、アダムの肋骨より創られし存在、イヴもまた、主の命令に背いた(後にアダムも)がイヴは高位の存在であったであろうか?誇り高い存在であったか?それは違う。むしろ(この部分は気の毒に思わなくも無いが)その逆であった。主はアダムを土から作られた。それはまさに神の業と言うに相応しい事であり、アダムはそれに満足したが、主はイヴをアダムの肋骨より創られた。それは彼等がまさに一心同体ならぬ異体同心である事の証となっていたはずであったが、イヴはその事にまるで思いを馳せるような事はしなかった。イヴにとって、アダムの肋骨から自分が創られたという事は一種の屈辱であったのだろう。アダムの肋骨以上の存在である事を、イヴは証明しようとし、そのような間隙を、ルシフェルが逃しようもなかった。確かに諸君らの罪の大部分はルシフェルが背負うべきかもしれない。しかし結局のところ、ルシフェルの様にどれほど気高い存在も、或いはイヴのように肋骨から創られた存在であっても、裏切る存在は裏切るのである。それ以上でもそれ以下でも無いのだ。我々に(そして神に!)宿りし自由意志はかように制御の困難なものであり、それ故に、我々は努々その事を理解していなければならないのだ。話をルシフェルに戻そう。
【主の計画に変更は存在するのか?】
既に説明した通り、主は自由意志を尊ばれている。それは人間の自由意志も、天使の自由意志も、そして主ご自身の自由意志も同様である。主の大いなる御心によって自由意志を我々は与えられた訳であるが、それによりルシフェルは主を裏切った。ルシフェルを創りし時、主はこの裏切りを予見していたのであろうか?これは当然、是でもあり、そして否でもある。それが自由意志と呼ばれるものの本質だ。我々はその全てを自由に選び取る事が出来る。それ故に、主はルシフェルが裏切る事も、それによって主ご自身が傷つく事も、当然の如く予見していたであろう。
そして一人子が現れた。
一人子イエスがいつ、どのようにしてこの世に在ったのかは私には分からない。しかし私には、一人子イエスの存在は、暁の明星・ルシフェルの存在と奇妙に呼応しているように思えてならない。ルシフェルの目的を【人間を堕落せしめる事】であると考えている者も諸君らの中にはいるようだが、それは違う。彼奴の目的は【善より悪を見出す事】に他ならない。そしてそれは諸君らの裏切りも含まれる。何故ルシフェルはそのような事に腐心するようになったのか。それは主の目的(の一つ)が【悪より善を見出す事】であるからだ。あの開闢以来の愚か者であるルシフェルは、バカの一つ覚えとも言えるような薄弱さで、主の目的の逆手逆手を取りたがっている。主が白と言えば黒、主が北と言えば南、主が良しとすれば悪し、主が笑えと言えば、彼奴は泣き喚くのだ。かような愚か者を、私はルシフェルの他には知らない。だだをこねる人間の赤児とて、彼奴に比べれば分別に満ちていると言えるであろう。しかし主は待った。いや、恐らく、今なお待っているのだろう、ルシフェルの改心を。ルシフェルに対する救済を、主は計画しておられるはずだ。ルシフェルの裏切りが自由意志の為せる業であるのならば、ルシフェルの改心がそうでないと考える理由は無いではないか。しかし、ルシフェルの愚かさはまさしく宇宙を駆け巡らんばかりのものであり、ルシフェルは決して、自分の否を、罪を、少なくとも公の場においては認めようとしないのだ。
そしてルシフェルがかつて存在した場所、そこに一人子イエスは配され、そして主は我々天使に、一人子イエスに仕える事を誓わせた。そしてイエスは、我々のもう一人の主は、諸君らを救済するために遣わされたのだ。この物事の繋がりを諸君はどう思うだろう?私には何かここに特別なモノが宿っているように思えてならぬのだ。恐らく永遠に、少なくとも永遠とも思える時の間、ルシフェルへの救済、赦しは与えられないであろう。それはもちろん、ルシフェルが一片も、主に対して謝意を示そうとしないからに他ならないが、その永遠に来ない救済を、主はイエスと、そして諸君ら人間との関係を持って代替されたのではなかろうか?即ち【予め為された救済】とでも呼ぶべきなのかもしれない。それによってイエスはルシフェルと、まさしく鏡面関係、コインの裏と表と言えるような存在と相成った。これぞまさに神の計画、神の業と言えるものではなかろうか?救済は与えられた。諸君らの前に、かの愚か者、裏切り者、空前絶後の叛逆者がもし現れたならば、彼奴にこのように言ってやって欲しい。『既に汝の救済は成された』と。永遠とも呼べる時間の中で、ルシフェルは赦され続ける事となる。諸君らが赦された通りに!ルシフェルによって成されなかった救済は、諸君らによって成され、そしていずれ、再びルシフェルによって成されるのだ。もはやルシフェルに逃げ場は無いのである。彼奴は主の救済から逃げる事は出来ない!
などと考えれば(最初に申し上げた通り、これは完全に私の創作である事を留意されたい)私の溜飲も些か下がるというものなのであるが、はてさて事実はどのようなものであろうか。いずれ分かる時が来るやもしれない。そしてそれは、ルシフェル次第という事になるのであろう。
5
そろそろ話を閉じる方向に舵を切らなければならないであろうか?しかしここまで読んでいただいた諸君は、決して主は、諸君らの事を気にかけていないのだなどという恥知らずな外聞を信じてはいないと私は思いたい。主は我々の事を愛している。(特に諸君らの事をである!)ここに疑いの余地は無いのだ。そして諸君らと主の関係において-------なんとも皮肉な話ではあるが-----その愛こそが、決定的な断絶となってしまっているように、私には思えてならないのである。
【たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない】
諸君らもこのような一説を、聖書にて、或いはその他の場面にて読み、或いは聞いた事もあるであろう。愛の尊さ、愛の重要さを問いたこの言葉は、確かにある種の力を帯び、ある種の感動をもたらすものである。主の創造の力も、そして我々天使の、主に対する献身の力も、その根底には愛の力が存在しているはずである。愛は至高の力であり、そして自由意志の顕現とも呼ぶ事が出来よう。我々は愛の力によって、何者にも変わる事が出来るのである。神によって土塊から創られたアダムは、彼はまさしく、神の忠実な下僕であった。私から見た彼の姿は、まさしく完璧なものであるように映ったものであった。しかし彼は、イヴへの愛を示すために知恵の実を食すに至り、エデンの園を追放された。悲しくも、それもまた愛であったという訳だ。ここで異論を挟みたくなるであろう諸氏もおられよう。『何故神はおろか、天使にすら明らかに劣る人間が、完璧であるなどという事があり得ようか?』至極最もな意見であるように思えるが、これもまた、私から言わせれば完全なる間違い、勘違いである。ここに来てまた話が横道に逸れる事に対して忸怩たる思いを持つ者もおられようが、この言葉が私、大天使ガブリエルの、諸君らに対する最後の言葉になる可能性を考え、少々お付き合い願いたい。
諸君らと同様、私も音楽の愛好家であり、そしてそれは主もまた同様に、音楽を愛しておられる。音楽は素晴らしい。その事で主と、我々天使と、諸君ら人間において共通理解を持っている事を、私はとても嬉しく思う。諸君らの中には疑問を抱く者もおられようが、安心召されよ、この天上の世界においても音楽は、諸君らが嗜んでいるものと全く変わる事の無い、完全に共通のものである。そして恐らくそれは(私は確認してもいないし、確認するつもりも無いが)地獄においてもそのようなものなのでは無いのかと私には思われる。愛、自由意志と同様に、音楽もまた、普遍であり、また普遍であるべきものなのだ。しかし、そう、諸君らの一部が懸念した通り、諸君らの音楽と、我々の音楽がもし違っていたらと考えたらどうであろう?それがどのようなものなのかは全くもって理解を越えたものであるが、もし音楽に匂いがあったら?味があったら?形があったら?触れる事が出来たのなら、果たしてその音楽とはどのようなものとなるのであろう?再び例に出させてもらおう。諸君らの歴史の中で、特に偉大であった男、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。彼の創りし交響曲には、どのような匂いが相応しいであろうか?どのような味が相応しい?どのような触感が相応しいと考えられる?もちろん、それはそれぞれに意見がある事だとは思う。モーツァルトの調べは甘美なものに違いない、と考える者が多数存在する事は想像に難くなく、そしてそういった者はモーツァルトの調べに、菓子か何かのような甘い味を付与したがるのではなかろうか。しかし、やはりこうは思わないだろうか?『音楽は、やはり音楽という範疇においてのみ、完璧たり得るのである』と。少なくとも私にはそのように思える。モーツァルトはかつて時の皇帝に対して喝破したと言われている。【私の音楽に使われている音は、全て必要な音である。完璧なモノを直す事は出来ない】と。コレはまさしく至言と言う他に無いように私には思える。その通りである。完璧なモノを直そうとする試みは、必ず失敗する運命にある。これは間違いの無いところである。
しこうして、この事がいったい何を表しているのかという事に、気がつく者は既に気が付いている事であろう。その通り、諸君らは完璧だったのだ。あの時、あの姿のままで完璧であった。何を足す必要も無く、何を引く必要も無く…そのように神は諸君らを創ったのだ。しかし、諸君らはそれで満足しなかった。モーツァルトの交響曲の音色が、オーボエの音が、ティンパニーの音が、自ら意志を持ち、自分勝手に動き始めたら、その交響曲はいったいどうなってしまうというのだ?自分はもっと大きく響きたい。自分はここで出番が欲しいなどと言って、勝手に音符を書き換えたらどうなってしまうというのだ?答えは聞くまでもあるまい。もはやそれは音楽とは呼べぬ、悲惨なものとなるであろう。あるべきところに、あるべきように存在する事。それこそ即ち調和、ハーモニーと呼ばれるものだ。イヴとアダムのとってしまった行動は、まさしくそのようなモノであった事は疑いようの無いものだ。そしてそれを、諸君らは原罪と呼んでいるのである。何故それが必要だった?諸君らの中に、それに答えられるものはおるまい。完璧なものを、直そうとした結果がこれなのだ。諸君らは自分達自身の事を完璧な存在では無いと断ずる。天使のようになりたいと希う。しかし、そのような必要は無かった。断じて!断じて無かったのだ!諸君らはこれからも永久に望み続ける事であろう。曰く【神の方へ!そしていずれ、我々も神へ!】この事をもはや責めようなどとは思わない。諸君らはあの木の実を食べてしまったのだ。起きてしまったことを、時計の針を戻す事はすべきではない。何故ならば主がこの世をそのように創ったからだ。主は自らの自由意志をもって、世界をそのように創った。ルシフェルは裏切り、そして諸君らも裏切った。しかし、それを巻き戻そう、やり直そうなどとはなさらなかった。なんと尊きお方であろうか?諸君らもそう思わねばならない、と、私は心からそう思う。
そして【愛】だ。そう、全ては愛なのだ。諸君らはこのように考えている。『主が我々を愛しているのならば、与えるはずだ。惜しみなく、際限なく与えるはずだ』このような考え方に、私は正直吐き気を覚えずにはいられない。なんと厚顔無恥、無知蒙昧も甚だしい考え方だ。ならば諸君らに問う、諸君らの愛は何処だ?!このような考え方の何処に、愛が宿っているというのだ?!それが諸君らの愛だと言うのか?!なればこそ、諸君らはかつて、平気で主を裏切ったのだという訳だと合点がいこうものである。左様、私は怒っている!私は未だに、諸君らに対する怒りの念を失ってはいないのだ。そして失う予定も無い!しかし、私の怒りはここでは横に置いておかねばならない。私はここでは、語り部以上の存在であるべきではないのだ。そしてここからは諸君らにとっても、私にとっても心苦しい内容を書き記す事となる。主よ、私をお赦し下さい。
6
今までの私の言葉と同様に、これから先に語る事もまた、私の完全なる推論である。諸君らは我々天使を…特に私を四大天使などと呼称している事からも推察されるが、私を神の側近中の側近であるかのように考えているのではなかろうと思うのだが、それは見当外れであると言わざるを得ない。我々天使は9つの階級にて別れているが、その全てが同様に、神に比肩しうる存在では無いのである。私が主と最後に言葉を交わしたのはいったいいつの事となるであろうか?我々天使の寿命は、諸君らの宇宙よりも長い。その事は諸君らもご存知であろうと思う訳だが、そのような悠久の年月の間に、私の方から、主に対してお言葉をかけた事は、ほんの僅か…本当に数える程度にしかないものなのである。もちろん、主が私の報告、私の意見を望まれる場合はその限りでは無いが、私のような、一天使が、主に対して、どのような話題であったとしても、言葉をかけるなどという事は、あまりにも畏れ多い事であるという事は強調して述べさせていただきたい。主は我々天使にそれぞれ仕事をお与えになられ、我々はそれを実行する。主と天使の関係は、それが全てだと言っても過言では無いのだ。つまり我々天使は、結局のところ、主に関して何も知りはしないのだ。主の御心を理解している者がもしいるとしたら、それは諸君らもご存知の通り、一人子イエス以外には存在しない。
さて、そろそろ話の幕引きとしようか。その前に、諸君らに一つ考えていただきたい。諸君らには力があると考えていただきたい。それは神にも等しい力、と言っておこう。まぁそもそも『神に等しい』という言葉が何を指すのか、諸君らには到底理解出来ないであろうが。『神、光あれと言いたまいければ光ありき』諸君に与えられたのはそのような力だと考えて貰おう。その力を用いて『世界を創り給え!』などと意地悪な事を言うつもりは無い。仮にその力の行使者が我々であったとしても、主の創りしこの世界の、更に数段劣った模倣以上のものすらも創れるはずはない。まして諸君ならばいわんや、と言ったところであろう。ならば何ならば創れようか?いや、これ以上勿体ぶるのはやめよう。答えは今まで長々と私が説いてきた言葉の中にある。【愛】だ。愛を創り給え。主と同等の力をもって、その無限の力でもって、諸君らの愛する存在を創る事を想像してみたまえ。諸君らはあらゆる形を形造る事が出来、いかなる属性もまた思いのままに創る事が出来るのだ。 海の魚と空の鳥、地の獣…その全てを諸君の思いのままに創る事が出来る。その全ては諸君らが念じたように、語ったように実現するのである。心配しなくても構わぬ。主のように【一撃で】世界を創れなどと言うつもりはない。やり直す事もまた諸君らの意のままとなるのだ。何度でも、諸君らの納得のいくまで、延々と創り続けるが良い、時間はたっぷりと存在する。諸君らの意のままに、【愛するがままに】その存在を創るのだ。その存在の形は決まったであろうか?ならば内面はどうする?どのような存在とするのか?魂は?霊質はどうなる?熟考せよ。時間はいくらでも存在する。そして諸君らを急かすような邪魔者も存在はしない(私は存在しないと思え!)。悠久の年月を使い尽くしても、まだ時間は有り余っていると考えよ。諸君らの【愛】は徐々に徐々に姿を表していく。その【何か】は、諸君らが最も愛する形を、諸君らが最も愛する性質を、諸君らが最も愛する内面を獲得していく。それは紛うこと無く奇跡的存在である。諸君らの愛の具現化である。無限の試行錯誤を経て。ついに諸君らの【愛】は姿を表す。諸君らは幸福であるだろう。ついに愛するものが、無限の愛を注いだ存在が、目の前に顕現したのだ。その胸中は筆舌に尽くし難いものであろう。しかしそれもまた、始まりに過ぎない事は言うまでも無い。諸君らが愛する存在。無限の愛情を注ぎ込んだ存在を、諸君らは当然、諸君らが望んだ通りに愛する事となるであろう。諸君らは満足する。そして更に与えるだろう。愛ゆえに与えられるモノを惜しげもなく与えるのでは無いだろうか?その存在がどのような形か、どのような徳を備えているのか、私には想像も出来ないが、諸君らは諸君らの愛の究極系とも呼べるべきその存在を愛し続ける事になるのだ。
そう、愛なのだ。全ては愛なのだよ諸君。
主もまた、諸君らと同じだったのでは無いのかと思う。主は諸君らを愛し…与えた…!与え続けたのだ。そして諸君らはその神の恩寵を受け、神の庇護の元に、この世の全ての存在が到達し得ないような幸福の極限まで至る事になったのだ。
しかし諸君らは、全知全能の力を持つ諸君らは、果たして
【自分より幸福であるという存在を許容し続ける事が出来るだろうか?】
無限の力を持ち、何もかもを統べる力を持ちながら、自らの被造物が…人間が!!自分よりも幸福であるなどという事を、果たして許せるだろうか?
今まで私は散々諸君らに対して述べさせてもらってきた。神もまた、悩み、苦しむ存在なのであると。我々と同じ、自由意志を備えた存在であるということを、しつこい程に説明してきたつもりだ。そしてそれは(主よ…お赦し下さい…)必ずしも幸福と言えるものでは無いのだ。しかし主は、決して完全無欠の幸福では無いという自分の特性を、ご自身の美徳とされたのだ。なんと高潔なお方であろうか!私は自分の主を誇る!私の全身全霊をもって誇る事に、何の躊躇も感じない!しかし、主の完全無欠の寵愛を受けた諸君ら人間は
ただ一点、【幸福】という一点において、主を凌駕してしまったのである!
なんたる悲劇、なんたる皮肉と言うものか。無限の愛の行使者である主は、その無限の愛ゆえに、自分よりも幸福な存在を創ってしまったのだ!
再び最初の疑問に立ち返る事にしよう。
『何故神は我々を、世界をこのように創ったのか?』
『そして何故、世界をこのようなままにしておくのだろう?』
このような疑問が諸君らの頭に過ぎった時、主の御心に思いを馳せて欲しい。もちろん主には可能だ。かつての諸君がそうだったように、世界を【幸福】という絵の具で、一色に塗りつぶす事は可能だ。しかし、それを強要する資格がある者が何処にいるというのか?全てが幸福な世界の中で、ただ一人、完全無欠の主、ご自身だけが幸福とは言い難い存在であり続けよなどと、誰が言う権利があるというのだ?諸君らはそれを望むというのだろうか?!ならば私は不幸である事を望もう!地獄に堕ちる事を私は厭わない!幸福などいらぬ。そこに愛が無ければ、幸福など必要無い。そして、そこに愛があるのであれば、不幸とて、私にとっては最上級の癒やしとなり得るのだ!よって私は主の傍らに寄り添い、無言で主の行い、お言葉に耳を傾ける。これこそが私にとっての愛、これこそが献身と呼ぶに相応しい事ではないか!少なくとも私はそのように思う。例えば他の誰がこの意見に反論しようとも、私は主の傍らに居続ける事をここに誓う!主への愛の名の下に!
そうとも。繰り返しになるが、これは私の一方的な推察に過ぎない。主の御心の中には、もっと遠大で、もっと壮大で、我々には及びもつかぬような計画が存在するのかもしれない。それならばそれで私は構わない。そもそも我々は。自分が出来る範囲で情報を集め、自分なりに結論を出す、それ以上に出来る事などありはしないではないか。私は決してこうであればいいな、等と思っている訳では無い。ただ自分なりに合理的と思われる方向に推察を巡らすと、このような結論に至る、というだけの事なのだ。いずれにせよ、主の御心は我等の想像が及ぶ範疇には無く、よしんばそれを理解出来たところで、我々に出来る事などありはしないのだ。だから最後に今一度言わせてもらう。諸君よ主を赦し給え。愛の名の下に。
大天使ガブリエル
読んでいただきありがとうございます。




