二
最初は、ちょっとの出来心のつもりだった。無意識に光に誘われて庭に出たのだとしても、そう遠くまで行くつもりはなかったし、すぐに戻らなければ見回りの衛士に見つかってしまう可能性が高いことも分かっている。なのに、足は止まらずにどんどんと目の前の光を追って行ってしまっていた。
そして、今目の前にあるのは、強固な守りが張り巡らされているはずの王宮に、大変似つかわしくないものだ。后の舎を守る築地塀が、風雨のせいか、地揺れのせいか一部崩れて人一人が通れる程の穴が空いている。これは罠なのではないかと、緋禾は崩れの前でしゃがみ込み、つい考え込んでしまった。
しかし、穴の向こうでは再び現れた光がふよふよと漂い、緋禾を呼んでいる。悩んだのは、数瞬だった。緋禾は意を決すると手と膝をついて、とうとうその崩れの向こうへ身を押し出した。土まみれになろうとも、緋禾は全く気にしない。ずり這いながら塀の向こうに出た時は、光は更に大きくなり緋禾に近づいてきていた。じっと待っていると、その光はぼんやりとある形をとった。
(――狐…)
緋禾の前を悠々と飛ぶように歩いてくるのは、輝くまでの真白い狐だった。やはり釆女が話していた妖のことだと確信することにさほど時間はかからなかった。人を喰らうとされるそれは一度緋禾を見やると、身を翻して歩き始めた。もう誘うような素振りは見せない。緋禾が着いてくることを分かっているのか、どんどんと歩を進めている。襲うそぶりもなく、逆に足を速めているようにも見える。
緋禾はふらふらとその狐を追い始めた。ついて行っては駄目だ、自分も殺されてしまうかもしれない、そう思いはしても、何故か緋禾の中で恐怖は消え去っていた。
篝火の光も届かない夜闇の中を、淡く光る狐を追うこと数分、不意にふつりとその姿がかき消えた。本当に突然消えてしまったものだから、吃驚して緋禾は立ち止まった。そして慌てて周りを見渡すがもう光らしきものは見えなくなっている。あまりにも突然で、緋禾は自分が夢を見ているような気さえした。急に耳には風の囁きや、遠くの方で梟が鳴く声が聞こえるようになる。現実に立ち戻り、体に感じる風や裸足の足の裏に感じる土の感触は夢ではないだろう。
そして、気づく。
(…迷った…)
今や、緋禾の住まいとなる舎はどこにも見当たらない。わき目も振らずここまで走って付いて来たのだからそれも当たり前だった。どこかの舎殿へ向かう道なのか、右を見ても、左を見てもまるで同じ壁が延々と続いている。思わず緋禾はうめき声を上げて、額に手をやった。
中つ国の王宮は、何重にも巡らされた築地塀に囲まれた特殊なつくりだ。簡単には侵入者も許さないし、また出て行く事も難しい。あんな崩れがあること自体が信じられないことだ。宮の大工は一体何をしているのかと詰ってみても、その崩れを這い出てきた緋禾には文句を言う資格はない。
一通り現実逃避をしてみても状況は変わらない。迷路のようなところに緋禾は一人ぽつねんと佇んでいた。しかし、こんな時に無理に戻ろうとしないのが緋禾のやり方である。恐らくは室の中に誰もいないとなれば多少の騒ぎになるだろうが、最悪朝までに帰りつければ何とかやり過ごせると、そう思った。どうせ、帰っても眠れやしない。ここ数日で溜まった苛々が緋禾にそういう考えをさせた。
深更の時間に出歩くのはよくあることではないが、なかなかに気持ちいいものだと緋禾はのんびりとそう思い直して足を前に出した。そのままあえて建物群から離れるように歩を進めると、大分奥まった一角まで来た。ここでも見つけてしまったものが、外界を遮る塀だった。今度は築地ではなく、石を積み上げて作った塀である。さすがにここは崩れた様子もなく、高さも簡単には乗り越えることができない程だった。
しかし、延々と続く塀も出入りのための扉は必要だ。ちょうど奥まった死角に、閂が掛けられた木戸がぽつんと存在している。衛士が舎人が出入りするためだろう、その守りはあっけなく解くことができた。
閂は横にずらすとかたんと音を立てて戒めが緩む。少しだけ迷ってから、緋禾はついに最後まで閂をずらすと、木戸をそっと押し開けた。不意に外からの風が木戸を揺らし、もうここから先は宮の守りの範疇外であるということを感じ取る。空気が違うのだ。ぎ、ぎ、ぎと年月を感じさせる音をさせて木戸は開かれた。
緋禾はそっと壁の外に身を出してみた。と、もう既に整えられていない地面に足を取られて、躓くようにそとにまろび出る。整地されているのは宮の中だけらしい。
思わず膝をついて、掌に食い込む砂利に舌打ちをする。土を簡単に払って立ち上がると、目の前は木々が生い茂る林の中だった。しかし、出口はすぐそこにあるらしい。それが分かったのは、向こう側に仄かな輝きが見えたからであった。狐の淡い光とは違う、もっと大きく広い範囲が輝いているのだ。自然と足が止まり、緋禾は一見にして向こう側にあるものが何であるかを理解した。
(…春日野だわ…)
それは、巫女となる定めを持っていた緋禾にとっては聖地とも言える場だった。天上に住まう神々が、まず地上に降り立った地。豊葦原でも唯一の聖地がこの中つ国の春日野であると言われている。それ位神格高い地は、緋禾の憧れの地の一つだった。灯りがなくとも淡く輝く野原、天女が水浴びをするという小川、黄泉の国へと下る小道が隠れているという森。そこに暮らす虫や動物たちは皆健やかでのびのびと暮らしているという。それらの全てが緋禾を惹きつけてやまない。
中つ国へ行くと決まってから、緋禾が唯一楽しみにしていたのがこの場所に降り立つことだった。尤も、そんな機会には恵まれなかったのだが――それも、今夜までの話だ。緋禾はしばらく呆然とそこに立っていたが、やがて意を決するように拳を握ると一目散に駆けだした。
不思議と誰にも見咎められることはなかった。比較的緩やかな斜面を登り――草で滑って膝を打ちながらも――緋禾は丘の下に広がる光景を目にした。そして、あまりの美しさに膝が砕けそうになる。今度こそ本物の蛍だろう、仄かな光が草花については離れ、春日野一体が本当に輝いて見える。小川は小さな流れではあるが、月の光を受けて青白く光っている。噂は本当だった。ここは、草も水も虫たちも全てが健やかで全てが人の手に染まることのない、この世の自然な形で息づいている。
走ってきた息を整えながらも、知らず、緋禾は涙していた。
(ここで育まれている生命は、何と美しいのだろう…)
足を踏み入れることは、正直躊躇われた。ここは神の地だ。おいそれと人間が立ち入っていい場所ではないことは、十分に分かっている。けれど、その魅力は抗いがたい。そして緋禾は神の気を受け継いだ巫女として神に愛された存在であった。少しだけなら許されるだろうと、結局、緋禾は前に一歩を踏み出した。この地に、緋禾が拒まれることはなかった。虫は優しく緋禾の頬を撫で、草は緋禾の足を決して傷つけない。下り切ると、より緑と水の匂いが濃密になった。神が通るうちに形作られた小道づたいに、緋禾は歩く。右手を豊かな小川が流れ、向こう側はシロツメクサが群生している。
ふと思い立って、小川の方へと進み、岸辺に膝をついた。両手でその清らかな流れを掬いあげる。きらきらと、指の隙間から水が零れおちていった。水面に跳ねる音はどこか十千代から貰った神楽鈴の響きに似ていた。
(神気が満ちている)
小川の水に、緋禾がこれまで触れてきたどんなものよりも濃い神気が宿っている。その水が流れる大地は、だからこれほどまでに健やかなのだろう。神に愛されている彼女だから、分かり得ることだ。手についていた水気を振り払って緋禾は静かに立ち上がった。
逸る鼓動を落ち着けるように深く息をつくと、足はひとりでに拍子を踏み始めていた。
「…『明星は 明星は くはや ここなりや 何しかも 今夜の月の 只だここに坐すや 只だここに 只だここに坐すや』…」
神楽歌と舞は、緋禾が一番好むものだ。この神々の土地に捧げたいと思い、自然とその歌が口から出ていた。指先まで内なる気を巡らせて、それでも隅々まで柔らかく。膝を折り、指は空気に触れ髪は流れに任せる。手には、神楽鈴を持っているかのように振る舞った。爪先が地を蹴る度にシャンと鳴らす。
ふうわりと小さく跳び、大げさな所作はないものの、舞はすこしだけ彼女を大きくみせた。特に伴奏の器楽もない。それでも、緋禾の足は不思議な音律を生み出していた。
風がその舞に感応するように向きを変え、緋禾を包み込む。蛍も惹かれるように彼女の周りに集まり、ともに舞を踏もうとしているようだった。
しかし、その静寂は不意に破られた。
「―――おい。そこで何をしている」
神の野に響いたのは、毅然とした男の声だった。